第16話

 わたしたちは、境弥の森の前に立った。


「この柵って、触れるだけでも感電する柵だよね?」


 楓が、目を凝らして柵を見る。手はしっかりと引っ込めてあるが、あまりに顔を近づけているので、見ているこっちがひやりとさせられる。わたしはもしも、のときのために、治癒のアンジュを使う準備をした。

 こんなことが、前にもあったような。


「あっくん、どうしかしたの? 棗も」

「あ、いや。なんか、一つだけ安全な扉があったような気がしてさ」


 棗も梓と同じなのだろう。手を額に当てて、何かを必死に思い出している。これでもない、これも違う、と頭の中で引き出しを開けてはきっと、きちんと閉じずに次の引き出しを開けに行っている。

 今は中に入るため、扉を見つける方が先だ。わたしも、二人と同じように、周りをキョロキョロと見渡してみた。

 だが、ひとつひとつの柵は厳重そうで、とてもではないが扉、と言われるようなものは見つからない。


「さっきまでしてた臭いとか、音とか。そういうのしなくなったね」


 楓が言った。

 たしかにそうだ。でもどうしてだろう。遠くの寮からでもした、あの臭い。風で流されたのだとしても、火薬が焼けたような臭いは、そう簡単に消えるものではないはずだ。

 まさか。


「エリカ、結界」


 わたしはうなずいた。

 そう。この森の結界が施されていると仮定すれば、今、臭いも音もしないことに説明がつく。わたしたちが屋上から見たものは、偶然にも結界が緩んでしまっていたときに見えたもの、と仮定すれば辻褄が合う。

 だとすると、この結界を破りさえすれば、探している扉が分かるかもしれない。


 結界破り。わたしはふっと息を吐いた。

 能力別の授業では、結界のアンジュを持つ先輩全員の結界を簡単に壊す程度に成長していた。最近、アンジュの伸びが非常に良く、先輩から教えてもらうことはほとんどない状態にまでなっている。


「ここの結界を解いてほしい」

「扉、見つけたの?」


 棗は、あるひとつの柵を指さした。他の柵と、何ひとつ変わらない柵だ。


「どうしてここって分かるの?」

「よく見て。よく感じて。エリカくらい能力が高くなってくれば、他人のアンジュの気配とか、分かると思う」


 よく見て、感じて。

 棗には、見えているのだろう。

 何が、見えているのだろう。


「俺は分かんねぇけど。そういうのって、持って生まれた勘みたいなものなんじゃ?」

「今は分からなくても、たぶん、分からなきゃいけないときがくる、と思う」


 そう言った棗に、梓は少し怪訝な顔をした。思い返すと、もしかしたらこのときから、棗は、あの可能性に気づいていたのかもしれない。

 もちろんわたしは、能力の気配など、分かりもしなかった。


「どうして結界を破る必要があるの? 扉を見つけたならそこを押せば、中に入れないかな?」

「空間ごと結界に飲み込まれてるなら、この扉を押しただけじゃだめだと思う」


 棗の言葉を丸々理解し、納得したわけではないが、結界を壊した方がいいと棗が言うのだ。きっとそれが正しいのだろう。

 わたしは二本の指に集中した。


 体の中心。腹の深いところから、力を循環させる。ゆっくりとした、落ち着いた呼吸。すると、見えてくる相手の結界。わたしは、外科医が患者の体にメスを入れるようにして、それに鋭く切り込みを入れた。そこから押し広げるように力を解放する。閉じようとする相手の結界と、それをこじ開けようとするこちらの結界。力と力がぶつかり合う。

 固い。とても。とても固い。少しこじ開けれたと思うと、たちまちそれを塞ごうと、力で押し出されてしまう。


「なにこの結界ッ」

「どうした?」

「すっごく固くて、押し広げるなんて無理」

「あれだエリカ。むこうに行けさえすればいいから、結界を向こうに流し込んで。あの柔らかい結界」


 そうか。わたしは棗の言う通り、例のトランポリン結界に形状を変化させた。


「もっと柔らかくできる?」

「待って、やっとことないよそんなの」

「向こうに注ぐ間だけだから。できるよ。いつもよりほんの少しだけ、立ててる指と握ってる指の間の空間に余裕を持ってみて」

「どうして棗がそんなこと……」

「いいから」


 わたしは、棗の言われた通りにしてみた。

 すると、くねくねと柔らかい結界が、わずかに開いていた個所から、結界を中に流れ込んでいく。


「そこで固定」


 まるで、風船を膨らます前のような状態になった。


「向こう側だけでいい。ゆっくりでいいから、四人が入れるくらいまで膨らませれる?」

「それくらいなら」


 幸い、結界内までアンジュの抑制はないらしく、案外簡単にある程度の大きさにまで結界を膨らませることができた。


「梓、出番」

「え?」


 不意に名前を呼ばれ、梓は面を食らった顔をした。


「念力で入り口を開いて」

「そっか! 二人分の力ならなんとかなるかも」


 梓は上手く状況を読み込み切れていなかったが、要旨は分かったようで、アンジュを使った。わたしの力だけでは、今にも押し出されそうだった結界が、ギシギシと、静かな音を立てながら敵の結界をこじ開けていく。そうしているうちに、人ひとりほどならば通れるほどにまで広がった。

 それを棗は見逃さず、扉を蹴破り、袋状になった結界に飛び込んだ。


「そうか! 全員向こうに渡って結界を解けば、みんなあっち側に行けるのか! 楓!」

「おっけー」


 楓も、勢いよく結界に入っていく。と、棗に突進するような形になったが、相手が楓だったこともあり、それほど揉めてはいない。


「なあ、エリカ。結界って、風景とかも変えたりできる?」

「ものすごく集中すれば、小さい物ならできるよ。防音とかもなんとか。どうして?」

「いや、エリカの結界の中を除くと楓たちの姿があるのに、こっちの、ほら、ここに立つと見えるのは森の景色だけで、楓たちがいるはずのところはただの草むらなんだ」


 わたしは、言われた通りの場所に立ってみた。すると、二人の姿が見当たらない。わたしは袋状の結界の入り口を見て、二人の存在を確認してから、もう一度梓が指定した場所に立った。やはり二人の姿は見えない。


「もしかして、その結界がこの森中を囲ってるっていうの? そんな……」


 小さなものならともかく、だ。森を覆いつくすそのような高度な結界を作れる者がいるだなんて……

 結界の内と外で、景色を変えることができる。実際には、周りの景色に溶け込ませる、と言った方が正しいが、それをするにはかなりのスキルと体力を必要とする。ましてやこの大きさ。とんでもない。

 

 いや、それだけではない。一体どうしてそのような結界を張る必要があるのか。

 この境弥の森は、ただの結界ではなく、それほど高度な結界を張っていることになる。ただの森ではないか。そのような結界は普通、見られたくないもの、たとえば、一時的に身を潜める際に使うもののはずだろう。


「エリカ、とりあえず入って。もう限界が近い」


 もしかすると、とんでもなく危険な森だったりするのではないのだろうか。わたしは結界の中に入ることを躊躇った。


「危険だって分かってみんな来てるんだろう?」


 何を今さら、と梓がわたしの背を押した。

 本当に限界が近かったようで、梓もすぐに結界の中に飛びこんできた。梓の重みで押しつぶされる。梓の力が加えられなくなり、入り口は音もなく閉じてしまった。


 わたしはまだ、結界を解くことが出来ずにいた。

 ここがもし、とても危険な場所だったら? 立ち入ることが禁じられている場所。毒の花や、一度噛みつかれると即死してしまうほどのヘビがいるかもしれない。

 気になる点はいくつかある。ここには強力な結界が張ってあった。空気すら通してくれない、アンジュとフォアの境にある結界と同じ仕組みの結界と同じだと推測できるほどの強固な結界。もしかすると、空気が悪いのかもしれない。アンジュにとって、それは重大なことだ。もっとも恐れる、風邪をこじらせるウイルスが空気中に混ざっていたら。とても危険だ。

 だがもう、未知の空間に足を踏み入れてしまっている。後戻りは出来ないことはないが、しないだろう。


 わたしが、みんなを守らなくてはいけない。


 そんな考えが浮かんできた。

 確か、そう。癒しのアンジュの薄いベールを、全員の体にかぶせるのだ。

 わたしは、頭に浮かんだその考えをすぐに実行した。迷いもなく、初めて使うやり方で、初めて考え付いたはずなのに、どうしてこれほど落ち着けているのだろう。


「結界、解いてもいいんじゃない?」


 楓が、窮屈そうに身を縮めながら言った。その向こうにいる棗も、楓と同じように身を小さく折りたたんでいる。


「うん、いま解くね」


 全員分の癒しのベール。外傷であろうと内傷であろうと、何かあったとき、このベールがきっと役に立つ。わたしは、さりげなく皆の体を覆ったベールを確認すると、結界を解いた。


「なにこの臭い」


 解いた瞬間から、鼻を刺す臭い。きな臭い。さっき屋上で嗅いだ臭いをもっと強くした、火薬の臭いだ。さっきの爆発音は、聞き間違いでも、太鼓の音でもない。爆弾だとか、わたしたちがあまり知らないもの。わたしたちが住む平和な世界ではありえない、物騒で怖いものの臭いだ。

 それと同時に、体が重くなるのを感じた。空気のせいではなさそうだ。もしかすると、この結界の中でアンジュを使うのは、普段よりも体に負担がかかるのかもしれない。

 本当に、どこまでも厄介な結界だ。


 そのとき、また体の芯に響く鈍い音がした。そう遠くない。


「いまの、何」

「分かってること、聞くなよ……気持ちは分かるけど」

「戻った方がいいんじゃない?」


 楓が怯えた声で言った。

 このとき、確かに楓の意見に賛成だった。だが、探求心を刺激されたばかりのわたしたちは、冷静な判断は出来ずにいた。だれもがきっと、心の中で思っていたはずだ。なんとかなるだろう、と。いざとなれば、またここまで戻ってきて、何食わぬ顔で寮に戻ればいい。

 だって、わたしたちにとって辛いことは、エリカに虐待をした妹夫婦や、梓を見捨てた両親のいる、フォアの世界にしかないのだから。

 それに、アンジュがあればどうにかなる。


「進もう」


 不安がる楓をよそに、梓が先頭をきった。


 もう二度と戻れない、偽りの世界に別れを告げた。



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