第15話

 わたしたちが本を返し終えたころ、遠くの方で、高等部生と思われる一行の姿がちらほらと見えてきた。合宿が終わったらしい。合宿終了予定時間より少し早い様子を見ると、早めに片づけをして良かった、と胸を撫で下ろす。きっと由美子も、そろそろ帰宅するころだろう。


 寮へ帰る途中、誰も口を聞かなかった。疲れ切って黙りこくっている、というよりは、きっと、みんな同じことを考えているのだと思う。


 見えてきそうで、見えない現実。


 ここは、アンジュ学校。のうのうと、快適に暮らすことができる環境にいる。だから、ホノカ国がどんな国だとか、関係ない。そんなふうに、関係ない、と感じるのは、情報が限られていたからではないだろうか。同じ方向を向くように。住宅密集地の家すべてに、風見鶏が設置されると、まさにこの状態になるだろう。それを人間に置き換えると、なんとも滑稽な光景だ。


 湿気でむっとした生ぬるい風が、肌を撫でていく。校舎の屋上部分に設置されているホノカ国の国旗に、アンジュのマークがプリントされた旗が風になびいていた。アンジュの紋章のあの花は、なんていう名前の花だろう。

 思考がすっかり固まっている。普段それほど頭の回転がいい方では決してないが、今は、やけにぼうっとしていた。それでいて、目に入る、普段どうでもいい、と思うこともなくバッサリと切り捨てている情報が、多く頭に入ってくる。スポンジのような、素直な頭。


 まるで、世界が変わったかのよう。

 違う。変わったのは実際には自分のものの見方だった。批判力、というものを知ったわたしの目にうつる世界は、平和すぎて、気持ち悪い。

 棗が以前、この学校は吐き気がする、と言っていたのを思い出した。まさにその通り。学校暮らしが楽しくて、周りの人たちが大好きで、ただそれだけの理由でこの世界が好きだったわたしが、馬鹿みたいだ。 


「これかな。Aが言いたかったこと」


 梓が、ひとり言のように言った。


「少数派とか、多数派だとか、そんな答えはどうでも良かったように思えるのは、俺だけ?」


 わたしもそう思う。そもそも、誰かにメッセージを残すとき、わたしならきっと、感謝の言葉とか、さよならの挨拶を残して綺麗に去りたい、と思う。なのにAは、難解なクイズだけを残し、解けるものなら解いてみろ、とでも言いたそうなメッセージを残していった。何をしたかったのかは分からないが、無意識のうちに、成長を促されているような、そんな気がする。


「なんか、ムカつく」

「上手いって言いたいんでしょう?」


 悔しそうにしている梓をからかうように、楓が言った。


「色々、考えさせられる。いつも意識しなかったことに、目を向けさせられる。使ってない頭の部分を、えぐり返されたみたいだ。最近はちゃんと考えようとしてたのに。なんか、Aに今までの生活を見直せって言われた感じ」


 わたしは、空をあおいでみた。梓もきっと、わたしと同じなのだと思う。何もかもが、ほんの少し調べ物をしただけで、違うように見える。


 雲を縁取るオレンジ色の線が、日没が近づいていることを告げている。


 突如、梓が身を大きく仰け反らせ、すーっと息を吸った。

 あまりにも長く息を吸い続けるので、隣にいるわたしの分の酸素まで吸い取られていそうだ。梓がまた、何か言うのかと思ったが、吸った息を、時間をかけて全て吐き出していく。まるで、自身の内側を洗濯しているようにも見えた。


「これから、どうする?」


 楓が言った。Aの手掛かりはもうない。だが、残された違和感と、アンジュ学校への不信感。これを、どうしたらいいのだろう。この感情を、どこに流せばいいのだろう。

 このまま、何も気づかなかったフリをして、また今まで通りの生活を送っていけるだろうか。

 考えがまとまらない。なのに疑問は次々に溢れていて、頭が割れそうだ。どこか、別の場所に行きたい。とはいえ、この学校から抜け出すのは不可能だ。とりあえず、頭を休める場所がいい。


「何もないところに行きたい」


 思ったことを口に出してみる。そんな場所、どこにあるのだろうか。少なくともわたしは知らなかった。


「……行こう」


 意外にもそう言ったのは、棗だった。


「行くって、どこに?」

「何もない場所」


 棗はそれだけ言って、前を歩き出す。梓と楓も顔を見合わせたが、みな、棗について行くことにした。


「こっちって、もう寮だよな?」

「まさか自分の部屋に行くのかな? シンプルにまとめてあるみたいだし。確かに何もない場所、かも」


 二人は「そんなまさか、いや……そうかもね」と、苦く笑いあう。


 きっと、違う、とわたしは思った。

 棗は時々、姿を見せなくなる時があった。長くて半日ほど。部屋にもいない、校内にもいない。

 きっと、秘密の場所があるんだ。


「ほんとにA八階まで来ちゃったけど……え、部屋入っていく?」

「どこからでも行けるけど、ここからが行き慣れてるから」


 棗の部屋に入るのは、久々だった。確かにシンプルにまとめてある。同じ部屋の作りなのに、殺風景というか、備え付けられたもの以外に自ら買い足したものはなさそうだ。無造作に置かれた通学鞄と脱ぎっぱなしのジャージだけが、唯一、生活感をだしている。

 棗はバルコニーに出ると、わたしを呼んだ。


「トランポリン」

「トランポリン?」


 呆気にとられて聞き返す梓を無視したまま、棗が続ける。


「俺はいつもそのまま上るけど、慣れてないと落ちるかもしれないから」

「屋上に行くの?」

「うん。階段からの扉は、いつも閉まってる」

「ちょっと待てよ、トランポリンって?」


 しつこく梓が訪ねてくる。


「エアちゃんの新しい結界術だよ。ね?」


 楓が、さも当然のように言うので、ひとりだけ何も知らない梓が目を丸くした。


「僕も実際見るのは初めて」

「どうして知ってるの?」

「あれで気づかない方がどうかと思うよ」


 トランポリン、というのは、楓の言う通り、わたしが考えた新しい結界だ。固いバリアのような結界だけでは面白みがないため、トランポリン状の結界を作ってみたらどうだろう、と思いついたのだ。

 だが、実際練習してみると、これが思った以上に曲者で、なかなか習得できずにいた。毎年優秀生に選ばれるほどの実力を持っているわたしが、露骨にアンジュを練習している姿を見られるのは決して格好良くない。そう考え、自室でこっそりと練習していたのだ。


「エアちゃんの部屋の前通るとき、しょっちゅう、どすんって大きな音がしていたからね」


 楓がいたずらっぽく微笑んだ。


「強度を試すために自分で乗って、力の入れ加減を確認してたんだろう」


 棗にも言われ、わたしの顔が赤らんでいくのが分かる。


 トランポリン状の結界は、力を緩めるのとは少し違っていた。柔らかさは固さで、固さは柔らかさだった。弾力性といえば伝わるだろう。それを出すのに、かなりの努力をした。思わず足首に目を向ける。

 強度を確かめるため、自分で結界に乗ったりもしていた。しかし、力の入れ方が不安定でバランスを保てなくなると、途中で結界が壊れてしまうことがたびたびあり、そのたびにわたしは床に落ちていた。それほど高くない高さとはいえ、急に落ちると着地に失敗することだってある。足を捻った翌日は、不格好に歩いていたことだろう。だが、その失敗のおかげで、ほぼ完璧、と言っていいほど結界を自由に扱えるようになった。おまけに着地も上手くなった。


「へぇ、俺の知らないうちにそんなこと出来るのか。そういえば、優秀賞また取ったって、三年の間でも噂になってたもんなぁ」


 棗はバルコニーの外枠に手をかけると、身軽にその上に登り、慣れたように立った。普通の人がすると、危なっかしくて見てられなかっただろうが、さも当然のようにやってのけてしまうため、それほど危険なことではないのか、とも思ってしまう。わたしは何気なしに外枠から顔を出した。

 高い。それもそうだ。ここは八階だ。地面が遠いのは、当たり前だ。


「棗、怖くないの?」

「別に。足を踏み外さなければいいだけだし」


 どれだけ注意をしても、滑ったり、踏み外すことはあると思う。その言葉を飲み込むのに時間がかかった。


「木登りとか上手なんじゃない?」


 楓が外枠から降りてきた棗に問うた。


「ああ、まあ……家が山奥だったから……」

「へぇ、いいねぇ、山」

「そんなに……」

「買い物大変だったでしょ~」

「……まあ、俺がしてたわけじゃないけど……」


 楓の質問攻めに、棗は口ごもりながら答えた。そして、その話題を無理やり終わらせるためか、こちらに話を戻してくる。


「ちゃんと結界を張って、距離感確かめる?」

「ううん。適当に上に投げたら、きっと梓なら着地してくれると思うし」

「え、俺が実験台かよ」


 梓は不満そうに言ったが、前に進み出てきた。

 文句を言いつつも、このような死にはしない少し痛いこと、は喜んで試してみたい年頃だ。このとき梓を選んだのは、彼が念力のアンジュを持っているため、自分で着地をしてくれるだろう、と思ったからであって、決して梓を雑に扱っているわけではない。


 わたしは二本の指を立て、結界を張る。


「ほんとだ。なんか、ゆるっゆるだ、この結界」


 興味深いそれに、梓は手で触ったり、叩いたりしてみる。あまりにも珍しそうにする梓が、子供のころ、無邪気でいたずらっ子だった梓に見えてきて、クスッと肩を揺らした。その一方で、早くしろよ、と言いたげな棗の視線が梓に突き刺さる。


「はねるときに、タイミングを見計らって結界を少し硬くするから、せーの、で上に飛んでね」


 結界によじ登る梓の背を急かすように、わたしは言った。

 さっき上を見上げたとき、屋上は意外にもすぐそこにあった。棗が普段、結界も何もなしで上っているのも頷ける。


「おっけーだ」


 梓は、結界の上で仁王立ちした。ジャンプをするには明らかに足を閉じた方がいいのだが、圧力が一点にかかるため、結界に沈むと思ったのだろう。それくらいの調整はこちらで出来るが、面白いので、あえて教えないことにする。


「じゃあ行くよ、せーのっ」


 わたしは二本の指に力を込めた。

 梓の体が、真上に飛んでいく。自慢の脚力で勢いをつけすぎたせいか、屋上よりもはるか高くに飛び上がってしまった。


「え! これ事故る! あ、そうか念力!」


 落下に入ったとき、梓がやっとその可能性に気づき、空中で体を止めた。そしてゆっくりと着地していく。


「次、僕行ってもいい?」


 梓に続いて楓。彼も身軽さなら棗にも勝るとも劣らない。梓の飛び方を見て学習したのか、梓が念力を使うまでもなく、ひょいっと屋上にたどり着く。


「棗はどうする? 結界使う?」


 いつもは結界を使わないのだ。聞いたところで、大丈夫だ、とかわされると思っていたのに、彼は予想に反してうなずいた。


「行くよ、せーの」


 棗も無事送り届けると、最後にわたし一人が残った。

 結界に飛び乗る。屋上の方を向くため、さっきまで背を向けていた、棗の部屋に体を向けた。

 本当に、何もない部屋。

 シンプルが好む男の子の部屋、ということを考慮しても、あまりにも殺風景だ。引っ越してきたばかりのような、何もない部屋。もし、引っ越しの準備大会があったとしたら、間違いなく一等賞だ。


 去る準備をした部屋。そんな風にも見えた。


「そんなわけ、ないじゃない」


 わたしは頭を振ると、皆の待つ屋上へと飛んだ。


 何もない場所へ行きたい。そう言ったわたしの希望通り、何もない。落下防止のフェンスすらついていないところを見ると、生徒がここへ上がってくることを想定せずに作られていることが分かる。


「綺麗……」


 わたしの部屋から、数メートル上がっただけの景色。変わったのは、ほんの少し見る角度が上に上がっただけだ。ただそれだけなのに、清々しい気分になるのは、周りに何も隔てるものがないからだと思う。

 夕日が落ちかけている。きっと、由美子も帰宅したころだろう。休日であるのにも関わらず、わたしたちのいる気配がないことに、彼女は不審に思うだろうか。それとも、それほど気にしないだろうか。


 夕食の時間。由美子。日が落ちてきた肌寒さ。帰るには十分な理由がいくつもあるのに、誰一人として部屋へ戻ろう、と言いださない。

 心地いい。何もない、ただ空だけが動くこの空間が。体が風に貫かれそうなくらい吹かれても、むしろ気持ちいい。


 梓と楓は、仲良く寝っ転がっていた。伸び伸びと腕を広げている。そういうのも気持ちよさそうだ。わたしも混ざろうか、と考えていると、伸びた影がこちらに向かってきて、隣で止まった。棗だ。


「いつもここに?」

「うん。いいところだと思う。唯一」


 唯一、と付け足したのが、今までなら気になっていただろう。しかし、この世界に心から不信感を抱き始めた今となっては、棗がそう言った理由が理解できた。だが棗は、その前からここによく来ている、と言った。今だからこそ、ここの良さが分かるが、棗は一体、何を思って、この場所に居たのだろうか。


「この世界は、変なことばかりだ」


 棗が、景色を見たまま続ける。


「何があったのか、分からない。知らされない。それに、きっと、教えてくれない」

「どこが一番変?」


 何気なく、私は訊いてみる。


「……どこにもなかった」

「何が?」

「アンジュとか、能力者とかの話、歴史上に一つくらい残っていてもいいと思うのに、どこにも記載がなかった。まるで、今まで存在していなかったみたいに」

「あ! 流れ星!」


 後ろからそう叫ぶ声が、棗の声をかき消す。いや、聞こえていたかもしれないが、わたしの耳は、流れ星の方に関心を持った。


「どこどこ?」


 わたしは、流れ星を見つけた楓のもとに駆けろうとして、棗の方を振り返った。


「ねえ、棗も……あ! ねぇ、あんな低いところも光ってるよ!」


 閃光が飛び散っている。光は、激しくぶつかり合って、煙を放つ。音さえしないが、雷のようなその光に、初めこそはしゃいだ声を出したが、何か違うことに気がつくまで、そう時間はかからなかった。


「そんな悠長な光じゃない」


 棗が言った。その声の真剣さが伝わった梓と楓が身を起こし、こちらへやってくる。

 澄んでいた空気が、どことなく、きな臭い匂いに変わる。最近、窓を開けていると、同じような臭いが漂ってきていた。しかし、先生からは、畑をよくするために火を焚いているのだ、という説明が、全校生徒に向けてされていた。

 が、この臭いの原因はそうでない、と、わたしたちは確信した。

 遠い、だがわたしたちにとって、手に届く範囲に突如現れた現実。皆の体が強張っている。


「あれ、何だと思う?」


 低い声で、梓が訊いてきた。

 閃光の他にも、時々かすかに聞こえる、ドン、と大きな太鼓を叩くような音。小さな音なのに、体の芯に響いてくる。


「……もしかして、戦ってる、とか?」

「だとしても誰と? 喧嘩?」

「あの方向は確か……」


 境弥の森。生徒が絶対に入ってはいけない森の一つだ。


 胸騒ぎがする。寒いわけでもないのに一瞬震え、じんわりと身体にその波が伝わっていく。


「行こう」


 このとき梓は、興味本位でそう言ったのかもしれない。もし、彼がそう言わなければ、開かなくて良かった扉を開かずに済んだかもしれない。だが、梓が言わなければ、きっとわたし自身が、行こう、と声かけをしていたことだろう。

 危ないことはしない。そんな慎重な性格の人間のいないA八班。人より能力に優れていて、秩序を嫌い、自由な発想を良しとする。そんなわたしたちの目の前に、共通して引き付けられた興味の対象。抑えることなど、きっと、できなかったと思う。

 それでも、確信して言えること。それは、わたしたちのこの好奇心のせいで、今まで守ってくれていた人たちの努力が、半分ほど水に流れていった、ということだ。


 未来、一歩先は闇だとしても、一人で進んでいるわけではない。誰かに足元を照らされて、導かれているのだ。周りは真っ暗なものだから、他に道があることに気づいていないだけ。わたしたちは、誰かの庇護のもと、生きている。にも関わらず、わたしたちはこのとき、罠とも気づかず、魅惑の灯を追って、先人が用意してくれた道から外れてしまったのだった。


 振り返ると、きっと、ここがきっかけだ。見なくていい世界に、踏み出してしまったのは。


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