第10話
なけなしの桜が、ひらひらと散り、ちょうど頬の上に乗った。
わたしは、隣にいる棗の様子を横目で見る。彼も、立つ気はさらさらないらしい。わたしの視線に気づいた棗は、きまり悪そうにそっぽを向いた。
その様子を見ていた香菜が、持っていたスケッチブックの角で、わたしの足と棗の足を交互につついてくる。
「ねぇ、そろそろ本気で観察の続きをしないと、今度こそ最下位になっちゃうわよ」
香菜は、なんの反応も示さないわたしたちに、さすがに苛立ったようだった。大きくため息をつくと、さっきよりも少し低い声で続ける。
「能力のテスト結果で優秀賞を取った二人が同じ班にいるのに、こんなので最下位なんて、あたし嫌よ」
香菜の言う能力のテストとは、一年に二度、春と秋に行われる能力の高さを競うテストのことだ。幼児部から高等部まで、年齢関係なしに、ただ純粋に能力の高さだけを評価するものになる。評価はアルファベットで示され、アルファベットが若ければ若いほどよく、下はGまである。
わたしたち中等部一年生の平均はDだが、棗とわたしは、Aよりもさらにいいとされる、Sに認定された。
「俺たちのエリカちゃんなら、Sも取れて当然だけど、まさか入学して一年も経ってない立花まで、中等部唯一のSの一人だなんて」
「あら、ほんとに小っちゃい人ね」
「なんだよ、本当のことじゃん。クラスのやつらもみんな言ってるよ」
香菜は肩をすくめると、くるりと向きを変え、もう一度わたしの足をつついた。
「エリカ。あなた、立花くんが来る前は、もっと優等生だったじゃない。立花くんも、もっとちゃんとして」
「だって棗が」
「だってエリカが」
二人の声が重なった。
「ったく、やめろよ。夫婦かよ」
その声に、棗の細い眉が、ぎゅっと中央に寄る。
「あ、ごめんごめん」
真人が、慌てて言った。
今は、珍しい植物をスケッチするという、中等部一年生にしては面白みのない、アンジュを使わない理科の授業だった。木陰がたくさんある中庭でスケッチをする、というのが理想だったが、いつも最下位争いをしている二班が先に陣取っていたため、他の班とかぶらない場所を探していくと、この境弥の森にまで追いやられてしまっていた。
わたしはやっとのことで体を起こす。それほど勢いをつけたわけではないが、右耳にある赤いパールのピアスが揺れた。
「この森、あたし好きじゃないわ。暗いし。立ち入り禁止らしいけど、意味あるのかしら。言われなくとも、誰も入らないわよね」
「確かに……そうだね」
香菜に同意したものの、何かが引っかかる。この森を見ると、なぜか心がざわついた。なんの魅力もない、このような森に、どうして心を動かされるのだろう。
「ねぇ、棗」
棗なら知っている気がして、呼んでみたが、全くの無視だ。昨日からずっとこの調子で、口を聞いてもらえない。
昨日、いつものように、寮のフロアごとにある共同スペースで、棗と宿題をしていたときだった。梓も一緒にするはずだったが、最近、彼女が出来たらしく、そっちで勉強をする、と言って来なかった。楓は宿題が出なかったようで、今日は早めに寝る、と言っていた。そんなわけで、六人分のスペースを二人で広々と使っていた。
勉強はそれほど得意でなかったので、黙々と問題を解いていく棗と違い、助動詞だの、掛言葉だのと、わたしは古典の問題にすっかり飽きてしまっていた。疲れてもない首を回す。すると、スペースの角に目が止まった。そこは、数々の盾やトロフィーが飾ってある場所だ。
「あ、これ」
そのうちの一つを手に取り、棗の方を振り返る。
「見て棗! 唯一、能力の大会以外で取った賞だよね! ほら、ババ抜き!」
「うん、そうだった」
棗はそれを見もせず、興味なさそうに返事をする。が、これが彼にとっての通常運転なので、大して気にもならない。
盾には、その賞を取ったときのメンバーの名前が刻まれている。A棟八階・及川梓、塩谷楓、秋沢エリカ、立花棗、長谷由美子。
「ねぇ、どうして由美子先輩の名前が最後なんだろう?」
「さあ」
「リーダーとか、歳が上の人から順番に書くのが、普通じゃないの?」
「間違ったんじゃない」
棗は古典の問題から目を離すことなく、そう言った。
間違い。こういう物に、間違いをしてもいいのか。いや、違う。わたしの中に芽生えた違和感は、もっとこう……
「由美子先輩って、元々違うフロアの人だよね?」
「らしいね。でも俺が来たときにはもういたし、違うフロアだったとしても、かなり前のことだろ」
そうだった。由美子がA八班に来る前まで、わたしたちの班は、ずっと四人だった。六人まで住めるフロアで、四人しかいなかった。他の班は誰かが卒業しても、最低五人は保つように編成されているはずだ。しかし、わたしたちの班は千秋と渡さんが抜けてから、一番の年長が、当時まだ初等部の梓になってしまった。そこで由美子が編入してきた、と思う。
「千秋と渡さんが抜けたら、四人になっちゃうのは分かってたはずなのに。どうしてちゃんと編成しなかったんだろう」
わたしがしつこく話しかけるので、棗がやっと顔を上げた。頬づえをついてこちらを見ている。
「ねえ、おかしくない?」
「別に。あの人だってよくやってるよ。問題児だった梓を、よくいなしてる」
おおらかで、リーダー性のある由美子。ふざけ合いにも動じず、いつも親のように、その仲を取り持ってくれており、よくやってくれている。おまけに美人だ。けれど、何か物足りない。もっと、こう……
わたしは、はっとした。
誰と比べて、彼女を評価しているのだろう。
「棗」
この違和感の正体を、棗なら分かるかもしれない、と期待して名前を呼んだ。が、わたしが話し出す前に、棗が先手を打ってきた。
「古典のそれ、終わらなくても見せないから。自分でなんとかしなよ」
「え! いつも見せてくれてたのに!?」
慌てて机に戻ると、ほとんど白紙のわたしのノートとは違い、棗の方はもう片が付きかけている。
「こんなの分かんないよ」
「いつもみたいにあいつに教えてもらえば」
「あいつって誰よ」
何も考えずに、子どもみたいに口を尖らせて言った。
「あいつは……だれだっけ」
「だれだっけって」
しっかりしてよ、とわたしは苦笑いをする。
「いや、ほんとに。古典がすごく出来るやつが、すごく近くにいたような」
棗が本気で分からない、と首を横に振った。
梓の得意科目は体育で、勉強とは無縁。楓は理系で、国語はさっぱりだと言っていた。由美子は文系だが、古典だけは苦手なはずだ。棗も苦手ではないが、得意でもない。残るは一人。
「……わたし?」
「それは違う」
呆れた、と言わんばかりに、棗は失笑する。
「勘違いだったみたいだ」
「そんなことないよ!」
気づいたら、そう叫んでいた。
「わたしもそういうの、あるもん」
「おまえと一緒にするなよ。知り合いだったら、名前も顔も、覚えてるはずだ。けど、思い出せないってことは、ただの勘違いだったんだよ」
棗は案外あっさりと、記憶違いであると割り切ってしまう。
だが、わたしの感情は、収まらなかった。変、という文字が、頭の中で暴れ、行き場を無くしてしまっている。
「でも、変だもん」
「何をそんなに気にしてるの」
棗に言われ、変、という文字がしゅんっと消えたかと思ったら、今度は心が、ぽっかりとあいた感じがした。
わたあめの中に掃除機を突っ込んで、ドーナツ形にくり取られたその穴みたいに。何か、大事なものを取られたような、そんな感じだ。だが、本当にあったのかさえ、分からない。そんな不確かな枠組みのせいで、もやもやとした感情はいつまでたってもまとまることがない。ただ、なんだか気持ち悪い、という違和感が残るだけだ。
「何か、なくなっちゃった気がする。大事な……」
「本当に大事だったの」
冷めたように言う棗に、わたしは思わず、彼を睨んだ。
「何よ」
「本当に大事なものをなくしたときは、忘れたりはしない。脳裏に焼き付いて、毎晩夢に出るくらいに。寝ても覚めても、離れることなんか出来ない」
「そんなどこかの本に出てきそうなセリフ」
棗らしくない、と鼻で笑いそうになったわたしは、すんでのところでなんとか止めた。笑えなかった。棗の横顔が、嘘みたいに真っ白だったから。黒々とした髪の間から、シルバーのピアスが無機質に光る。
「……棗?」
様子を窺おうと、名前を呼んでみた、が、彼は黙ったまま荷物をまとめると、部屋から出ていこうと立ち上がる。
「ちょっと」
もう一度呼び止めたが、棗は振り返ることもなく、共同スペースをあとにした。
「何よ、棗。あんなに……」
あんなに、白くて、悲しそうな顔。
棗のあんな顔、初めてみた。疑問が残る。
棗は何かを失ったのだろうか。大切な、なにか。しかし、アンジュ学校に入学してからは、棗は単体行動ばかりをしていたし、A八班のみんなとしか、話もろくにしなかった。そうなれば、学校に入学する以前の話なのだろうか。
わたしは考えを巡らせる。
棗が入学してきたのは、そうだ。わたしが課外実習だと言われて、火事の現場へ看護師見習いとして行った日の二日後だ。初めてあのような大規模な山火事を目の当たりにしたため、よく覚えている。怪我をした人の治療を頼まれたが、そのおぞましい光景に耐えれなくなってしまい、ろくに手当が出来なかったことも。
雑に巻かれた包帯のすき間から見えた、ただれた皮膚。骨まで見えてしまうのではないかと思うほど、溶けている個所もあった。もはや性別さえも分からなくなってしまった肉片に、どのような手当をすれば良かったのか。
当時のことを思いだして、背筋が凍る。と同時に、ぎょっとするような、聞き覚えのある誰かの叫び声が、耳にこだました。
「そろそろ課題をしましょうよ」
香菜のじっとりとした声が、わたしを我に返らせる。
「そ、そうだね、わたしは……、これ、この丸いの描くね」
香菜の機嫌をこれ以上損ねないよう、とっさに目についた植物を指さす。
スケッチは苦手だった。得意な人に言わせれば、見たままを描く簡単な作業らしいが、わたしには難しいことだった。
スケッチをしている間、わたしの手によって、不気味な植物に変身させられ描かれる、可哀想な植物のことなど気にも留めず、頭ではさっきの続きを考えていた。
棗が入学してきたのは、その二日後。冷え切った目は、うつろで、この世のすべてを憎むようなオーラを醸し出した彼に、クラスメートはひどく気味悪がっていた。
昔のわたしにどこか似ていた。
アンジュを、妹夫婦を、誰も助けてくれない環境も、全てを恨んでいた、あの頃。差し伸べてくれる手にさえすがることを知らなかった、心を閉じた、昔のわたしに。どこか違ったところをあげるとすれば、わたしの心が人形のように無だとすると、彼は絶望という闇で心を覆い尽くされて、心が見えない。どっちにしたって、心が実在しないかのように感じられるのだが、明らかに、棗には心があるように見受けられた。
彼が同じフロアに来る、と聞いて、内心喜んだのを覚えている。が、彼もまた、協調性が欠けており、一人を好んでいた。好んでいる、というよりは、望んでいる、と言う方が正しいかもしれない。人懐っこい楓でさえ手を焼いていた。根っからの問題児、梓の動物園級のやんちゃがあったうえでのこれだ。A八班は崩壊寸前だった。そのことでよく、五人で揉めて……。
五人。
今、わたしの頭に浮かんだのは五人だった。五人の中に、とても懐かしい人物がいた。小柄だが、心は誰よりも大きな……由美子ではない、誰かの姿だ。
そうだ。
わたしはその人に、火事の実習について聞かれた。そして、その人は珍しく、わたしを叱った。知らないやつについていくな、と。まるで、フォアでよくあるらしい、誘拐事件に巻き込まれないように、注意を促すようだった。学校の中には、そんな危険なところ、あるはずもないのに。
ちょうどそのとき、わたしの目に入ったのは、境弥の森だった。
「オレたちは、完全無欠な世界なんかに住んじゃいない。ここはそんなにいいところじゃない」
突如耳に、誰かの言葉が響いた。
「誰……」
「エリカ?」
異変に気づいた棗が、起き上がり、わたしの名前を呼んだ。
「エリカ?」
わたしが反応をしなかったからか、今度は手を掴まれる。頭が痛い。考えれば考えるほど、考えてはいけないことだと警告するように、頭痛が邪魔をする。それでもひとつ、確かに考え付いた答えがあった。
「棗。やっぱり、もう一人、いたんじゃないかな」
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