第7話

 前を行く銀と梓が、入ってきた柵の前で止まった。もう目の前に中等部の校舎が見えている。


「銀、早く出ようぜ」


 なかなか柵を開けようとしない銀に、じれったくなった梓がトイレを待つ子どものようにそわそわとしている。


「ああ」


 銀は短く返事をすると、一瞬考えてから、持っていた松明で、慎重に柵を押した。


「……異常、なし」


 銀の声で、ほっと胸を撫で下ろす。柵の外に出ると、随分久々にここへ戻って来たような気がした。安堵と疲れが混ざり、肩が重い。


「寮を抜け出したところから、各自戻ろう。棗、梓。二人で先に戻れ」

「えー。みんなで帰ろうぜ。こんな危機を乗り越えた仲じゃん」

「どれだけ気をつけても、四人じゃ目立つ。後からすぐに行く。先に部屋に戻れ」


 でも、と梓が納得いかない声を出すと、銀は梓を睨み、その続きを言わせなかった。梓としては、棗と二人、というのが気に入らなかったのだろう。この二人の仲は、あまりよくない。

 しばらくして、やっとのことで梓が頷くと、二人は黙って夜の闇に紛れていった。


「こっちの陰にいよう」


 銀は、建物と建物の間にある隙間に、わたしを誘導する。月の光も入らない、暗いところで気が向かなかったが、銀はもう、そちらに向かっていたため、付いていくほかなかった。すると、突然銀の姿が目の前から消えた。

 銀は、建物の隙間にたどりつく前に、へなへなと座り込んでしまったのだ。


「ぎ、ギン兄? どうしたの?」

「……良かった。ちゃんと、帰って来れて……」


 返ってきた声は、普段威勢のいい銀とは思えないほど、小さくて、細かった。


「悪いんだけど、ちょっと、治癒アンジュ、使ってくれないか? あの結界の中、マジで力、食われる」

「え!? アンジュ、ずっと使ってたの!?」

「まあ。何かあってからじゃ遅いし……」


 喘ぐように肩で息をし、苦しそうに片手で制服のネクタイを緩める。


「全員の体の周りに、常に、治癒のベール、かぶせてた」

「それって……ううん。とにかく、アンジュすぐに使うから、あの壁まで行こう」


 もどかしい。わたしの背丈と力では、もう大人の体つきの銀を持ち上げることも、肩を貸すことすらできない。しかし、このような半端な場所で治療を進めるよりは、暗がりで、人の目にもつかない壁際のほうがいいだろう。


 銀は体を引きずり、這うようにして壁までたどり着くと、身のすべてを壁に任せた。

 よく見ると額から汗が流れている。体を支えきれない状態から察するに、ギリギリのところまでアンジュを酷使したため、体が衰弱しきっているのだろう。アンジュによる疲労で見られる症状だ。

 銀のアンジュも、治癒のアンジュだ。治癒のアンジュのように、壊すのではなく、治すようなアンジュの体力の消費は、壊す力の倍ほど、体力の消耗が激しい。散らかすのは簡単で、掃除は大変、というのと同じだ。


 わたしは両手を銀にかざし、身体の中に通る太い筋の軸を意識した。いつものように、循環させるように力を移動させ、下から上に。肩に、腕に、手首に。そして、手のひらに。

 ぽわん、とピンクの淡い灯りが見えてくる。


「上手くなったじゃん」


 目を閉じたまま、銀が続ける。


「毛穴からアンジュを出すやり方より、ずっといい」

「その表現やめてよ」


 アンジュ学校に入学したての頃のわたしは、アンジュの使い方が分からず、がむしゃらに力を入れ、治癒のアンジュを使っていた。それこそ、銀の言う通り、毛穴からアンジュを出す勢いだったはずだ。もっと言うと、体中にたくさん目があったとして、それを見開いたまま我慢しろ、と言われるのと同じような力の入れ方をしていた。


「お前が目指してるのって、渡さんのやつだっけ?」


 渡さん、というのは、的場千秋が生徒会長だったころの副会長だ。同じ治癒のアンジュ、ということもあり、わたしがアンジュ学校に入学してから、面倒を見てもらっていた人でもある。そして、今回森の中に入るきっかけとなった原因の一つ、とも言える。そんな彼の治癒のアンジュにわたしが惚れこんだのは、入学してすぐのときだった。


「うん。渡さんの治癒は、角がないもん」

「言葉は尖がってるのにな」


 銀が力なく笑う。

 渡さんは、いつも人を鼻であざ笑うように、ストレートな表現で嫌味なものの言い方をする。

 だが、アンジュは違う。患者を柔らかく包み、傷や病気を癒す彼のアンジュは、そう簡単に身につくものではない。彼の怠らない努力の賜物だ。人に厳しい分、自分にも厳しいのだとうかがえる。

 そのようなところから、本心は悪い人でない、と伝わるため、尊敬せざるを得ない。全く、たちが悪い。おそらく銀もそうなのだろう。


 銀の体は、思った以上に衰弱していた。森に入ったのが九時すぎで、今が夜夜中であることを考えると、三時間ほどアンジュを使い続けていたことになる。一気に四人分の治癒を三時間続ける。それも、アンジュが使いにくい結界の中で、だ。


「ギン兄は、すごいね」


 わたしは正直、銀のアンジュをしっかりと見たことがなかった。印象もあまりない。がさつに振る舞う彼の唯一のギャップは、古典だけ。そう決めつけてしまっていた。

 今回、森の中に入るにあたって、わたしも梓も、きっと棗も、何の準備もせず、行き当たりばったりだったはずだ。もし何かあったら、どうなっていただろう。銀がアンジュを使っていなければ、もしかしたら何か身体に影響があったかもしれない。

 そのような考察と、それを実行できる力の器を持つ。わたしは銀を、過小評価していたらしい。


「何を今さら」


 銀は、閉じていた目をゆっくりと開け、慈愛のこもった目でこちらを見た。


「俺は生徒会長で、渡さんの一番弟子だ。すごくなきゃ困る」


 チャラついた雰囲気は、一切感じられない。こんなに近くにいる銀が、はるか遠くにいるよう。そして、彼がこんな決意でいるだなんて、わたしは知らなかった。

 年上なのに、頭の中は子供で、今日のような無茶でしょうもない危険なことに、一緒になって楽しんでいる。勝手にそう思っていたが、違った。いつも一緒にいて、危険が及ばないようにしてくれていたのだ。

 きっと、彼はもっと色んなことを考えている。もしかしたら、この森のことも、知っていたのではないか。いや、だとしたら私たちを守るために、森のことなんて話さないはずだ。それなら……。


 治癒のアンジュを使っている間、疑問が出ては消え、また次の疑問が出る、を繰り返す。


「オレは、お前たちより、ずっとこの学校のことを知ってる。まあ、それも生徒会長だから、当然っちゃ当然だけど」


 わたしの心を見透かしたように、銀が話し始めた。


「知らなくていいこと、いっぱいある」

「それは、言えないこと?」

「まあな。けど、ひとつだけ」


 ぐったりと壁にもたれかかっていた銀が、身を起こした。


「学生が知ってること、学んでることは、誰かによって取捨選択された、ほんの一部だ。知らず知らずのうちに、オレたちは同じ方向を向くように仕組まれてる」

「どういうこと?」

「……オレたちは、完全無欠な世界なんかに住んじゃいないってことだ。ここはそんなにいいところじゃない」


 銀は何をもって、アンジュ学校が良いところでない、と言っているのか。選りすぐりの知識で、最小限の勉強で効率よく、それの何がいけないのか。わたしはさっぱり分からず、首をかしげた。


「多角的に物事を見るんだ」

「多角的?」


 ますます分からなくなってくる。どうして銀は、突然そんなことを言いだすのか。


「難しく考えなくていい。人ってのは知識があっても、それを引っ張り出すことが苦手なんだ」

「どうして今、そんな話になるの?」

「きっともう、話す機会がないんじゃないかと思って」


 驚いているわたしに対して、銀はあくまで冷静だった。声が、落ち着いている。

 銀とは、同じフロアで生活をして、毎日のように顔を合わせている。話す機会はこれからも、いくらだってあるはずだ。だがそれも、銀が卒業する、残りの半年間で終わってしまう。彼はその半年のことを言っているのだろうか。


「あと……あんまり強くなるな」


 低い声で、つぶやくように言った。


「強くなるなって。そんな」


 私は首を横に振った。銀がいつものように八重歯を出して「なーんちゃって、冗談だよ」と種明かしすることを期待したが、銀は一向に顔を上げない。


「やっぱり疲れてるんだよ。なんか変」


 わたしは明るく笑って見せたが、うつむいた銀の顔を見上げたとき、その笑みは消えていった。銀の顔は、無表情だった。このとき、わたしは無表情な銀の顔を初めて見たことを知った。

 銀はきっと、わたしたちの前にいるときは、不安や不信感を抱かせないため、こんな表情をしてこなかったのだ。わたしは一体、彼の何を見ていたのだろう。


 銀は瞬きを二度すると、鉛を腰に付けた体で、よろよろと立ち上がった。


「ああ……オレ、疲れてるわ」


 ひと呼吸おいて銀が言う。


「今のなし。オレ、お前に抜かされるの、嫌だからさ、つい」


 このとき、弱々しく微笑んだのは、疲労のせいではなかっただろう。愛おしむようにこちらを見る銀の瞳は、悲しげに揺れた。


「帰ろうか」

「治療は?」


 わたしは空っぽの背中に向かって問いかけた。


「もう大丈夫だ。ありがとうな」


 そのときのわたしは、銀の心の中がどうなっていたかなんて、分からなかった。

 だがこのときすでに、事態は水面下で、ゆっくりと動き始めていたのだ。それにいち早く察した銀は、今考えても、勘の鋭い、とても聡明な人だ。


 無言のままの銀に部屋まで送ってもらうと、わたしは電気も付けずに、どさりとベッドに倒れこむ。マットの底まで沈んでいきそうなほど体が重く感じられたが、いつも通りの沈み具合に落ち着いている。

 灯りの消えていたはずの右隣、梓の部屋の電気が付いたような気がしたが、わたしのまぶたはもう、再び開けることを良しとせず、そのまま眠ってしまった。


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