第6話
「銀、本当にこっちなのか?」
梓が隣で、十回目くらいの文句を言った。
「んー、たぶん」
銀も、約十回目の同じ言葉を梓に返す。
暗く、道という道のない森では、銀の記憶だけが頼りだった。しかし、その声もだんだん曖昧になっていきている。そのため棗のアンジュである炎、手の平で揺らめく炎だけが、唯一の希望となっていた。
「なあ、銀」
「もう、梓うるさい」
十一回目を言おうとした梓に、ついに耐え切れなくなって釘を刺してやる。
「だって、でっかい館なんてどこにもないじゃん」
梓がいつもの調子で口を尖らせる。
「やっぱり嘘なんじゃ」
「嘘じゃねーよ」
先頭を歩く銀が、いつもより低い声で言った。入り口の柵から、二十分は歩いてきたはずだ。記憶通りに歩いても、なかなか見えてこない目標にイライラしているのは、銀も同じだった。
決まりの悪くなった梓は、尖らせた口をそのままにそっぽを向く。
湿度が高いせいか、じんわりと汗をかき、髪が首にへばりつく。気持ち悪い。足元は木の根っこや石で、躓きそうになるし、棗の手元の炎だけでは、視界が悪い。おまけに、迷ったかもしれないという不安から、足取りは重くなる一方だ。
「ここで休憩しよう」
少しだけ開けた場所に出ると、銀は辺りを確かめるようにしてから指示した。皆、疲れていたため、各自座れるところを見つけると、崩れるように腰を下ろす。
「選択肢は三つだ」
しばらく考えていた銀が言った。
「引き返して帰る、意地でも館を見つける、もう少しだけ見てから帰る」
三つの立てられた指と、梓と棗の顔を見比べる。精神的には、一つ目の帰る、を選択したくなったが、二人の意見を待ってみることにした。
「この森、立ち入り禁止なんだよな?」
少し考えてから、棗が訊ねた。
「言わずもがな」
「結構歩いてきたけど、凶暴な何かがいるとか、猛毒を持つ植物があるとか、そんなのなかった」
棗は、静かに続けた。
「むしろ、高等部近くにある紅の森には、触ると毒を放つバラが実際にあるのに、立ち入り禁止どころか、肝試しに使うことも許してる。この森は、もっと危険な何かがあるのか?」
動物より、毒より、何よりも能力者が注意しなければならないのは……そう。空気、ウイルスだ。能力者は一般人よりはるかに抗体がないため、風邪で死ぬことだってある。だが、もしこの森に有害な何かが漂っていたとしたら、おそらくこんなところまで来られなかっただろう。
棗の言うように、一体何が危険だと言うのか。
「銀、他に何か見たもの、ないのか? 変わったものとかさ」
今度は梓が質問をする。
「うーん……あ、製鉄所の臭いがした」
「製鉄所?」
「ほら、初等部五年の社会見学で行ったろ?」
それは、紅の森にほど近い場所に建つ、紅崎製鉄所のことだった。去年、見学へ行ったときの施設の中を思い出す。
まず、最初に鼻を刺したのは、鉄くずの臭い。次に機械のオイルの臭い。大きな金属音と機械音も鼓膜を容赦なく刺激する。耳と鼻を同時に覆いたくなるそれに、どうして腕が三本ないのか、と嘆いたことがはるか昔のようだ。ある意味印象的なところだったので、よく覚えている。
「棗はまだ入学してなかったから、知らないかもな」
「いいなぁ、もう鼻もげそうだったんだぜ、あれ」
梓も臭いを思い出したのか、鼻をつまむ。
「この辺りに製鉄所なんてあったかな?」
「いや、ないと思う。そういう工場系は、あんまり校舎の近くに置かねーようになってるから。それにオレが嗅いだのは、なんていうか、もっと薄い臭い。なんか、じめじめもしてたし」
紅崎製鉄所から境弥の森までは、かなり距離がある上、製鉄所から外気に臭いや騒音の影響が出ないよう、特別な配慮もされている。ここまで臭うことなんてないはずだ。
この時には、そんなささやかに聞こえることよりも、自分たちの今いる状況をどうするか、を優先して考えており、臭いのことなど、大して気にも留めないことにした。
「とりあえず、そろそろ決めてくれるか?」
ちなみに、今なら帰る方向はバッチリだ。と銀が付け加える。
「こうなったら、館なんてどうでもいいからさ。なんでこの森に入っちゃダメなのか知りたい」
ただのお調子者の好奇心かと冷ややかな視線を送りそうになったが、梓は思った以上に真剣な面持ちだ。
確かにこの森は、おかしなところが多い。興味を持たないはずがない。わたしは、自分の好奇心に勘弁してほしい気持ちをなんとか押さえ込み、震える声で言った。
「わたしも」
少し離れた木の根で休んでいた棗も、こちらを向いて頷く。
「じゃあ、時間を決めて探検しよう。そうだな。今から一時間だけ、この森を見て回ろう」
銀が立ち上がったとき、心なしかふらついたように見えたが、気のせいだったかもしれない。
それからしばらく森を歩いていたが、これといって特に変わった森でもなく、むしろ怖いほど何もなかった。迷ったわけでもないのに、同じ場所を何度も行き来しているような、そんな錯覚に陥っていってしまうほどに。
「今何時?」
「十時十分」
反射的に梓が答える。そんなに早く答えられたのは、彼が一分に一度のペースで腕時計を気にしていたからだった。不安から、早く一時間経ってほしいかったのだろう。言い出しっぺのくせに、と心の中で悪態をついてみる。
「校歌、聞こえたか?」
そういえば、と三人ともかぶりを振った。
アンジュ学校では、授業のチャイムの他に、時間ごとにメロディが流れるようになっている。九時に寮が閉まる合図として、校歌の一部が。十時には自分の寮に戻ることを促す目的で、校歌の一部をオルゴール調にして流している。それは、寮の中だけでなく、校内放送として流れる。森の方向に向いてのスピーカーがないとはいえ、柵のところどころに校内用スピーカーが設置されているため、ここまでかすかに聞こえるはずだ。なのに、誰一人としてそれを聞いていない。
「この森、変だ」
ひとり言のように、梓が言う。
「エリカ、結界を破ることって出来るか?」
じっと考えていた棗が、訊ねてきた。
「うん、この前教えてもらったよ、けど……」
薄々、その可能性には気が付いていた。森に踏み込んだとき、心なしか辺りが暗くなり、空気が変わった気もしていた。それからこの森の不気味さだ、自然で起こる現象とは考えにくい。
「けど?」
「とにかく、やってみるね」
わたしは二本の指を立て、左手で右手を支えながら力を込めた。
結界は、空間を裂いて作られる。その結界を内からでも、外からでも破り方は同じだ。結界の端を探し、そこから無理やり押し広げて破る、というものが、結界破りだった。
だが、それが出来るのは、自分よりも能力が低い者が作った結界の場合のみ。そして、能力の高い能力者ほど、結界を空間に溶け込ませるのが上手く、結界の端を見つけることさえ困難なのだ。
案の定、意識を集中させるものの、結界の尻尾すら掴ませてくれない。
わたしは胸の前から手を下ろし、首を横に振った。残念ながら、当時のわたしには到底及ばない代物だ。だが、アンジュを使って分かったこともある。
「ここ、結界の中みたい」
わたしが森の中に入ってアンジュを使ったのは、今が初めてだった。だから気が付かなかった、といえば言い訳になるが、力を使えば分かる。いつもより、調子が出ないのだ。無駄に力まなければならない。
「棗、気づいてた?」
「気づくっていうか、ただ単に、俺自身が疲れてるのかと思ってた。だから調子が出ないだけだと」
この森は、人工的に作られている。
その考えがわたしの頭に浮かんだ。おそらく、銀が見た館というのも、さらに結界を施して隠されているものなのだろう。
背中がぞわりとする。
「なあ、なんで森なんかに結界を張る必要があるんだ?」
梓が銀を見上げる。銀は同年代の中ではきっと小さい方だが、それでも中一の梓より、少し身長が高い。
「そうだな、アンジュ学校にだって、結界が張ってあるところがいくつかある。まあ、大きな結界で敷地全てを囲んでるけど、もっと強固な結界は他にある」
「それってどこ?」
「えっと、たしか生徒情報管理室。あとは金庫だな。他はセキュリティシステムだけで補ってるはずだ」
銀があげた場所は、結界を使っている理由が納得できた。もし不正侵入された場合、セキュリティシステムと結界によって二重に確認できる。機械で感知するより、結界で感知する方がよっぽど正確に状況が分かる。
そうだ。結界を張っている人には、結界の中のことが手に取りように分かる。そして、この森全体に結界が張られているのだとすれば……
「監視されてる」
タッチの差で、言おうとした内容を棗が先に言った。
「監視? 結界を張ってるやつは、俺たちが森に入ったのを知ってるのに、見逃してるってことか?」
「いや、そうじゃない」
棗の代わりに、銀が答える。
「オレたちが何をするか、見てるんだ。じっと、息を潜めて」
「なんだよそれ、なんでそんなこと……」
「下手に追い出すことも出来ないんだろうな、おそらく」
「じゃあ、俺たち……場合によっては、帰してもらえないってこと?」
梓の言葉に、皆、唾を飲み込んだ。
「帰ろう。とにかく帰ろう。帰ってから考える」
銀が低い声で言った。
手近な太い木の枝を拾うと、棗を呼び、炎をつけさせた。松明代わりにするらしい。
銀を先頭に、ついでエリカ、梓、棗の順に元来た道を戻っていく。
「銀、道覚えてる?」
「ああ、暗記は得意だ」
「帰れるのかな……」
つい不安が口をついて出る。
「ああ。たぶん」
気休めにしかならなかったが、それでも銀の声で気持ちが少し落ち着いた。
「だ、大丈夫だって! いざとなったら俺がみんなを宙に浮かせて飛ばすから」
銀との会話を聞いていた梓が、身を乗り出してきて言った。
確かにこの間、彼の念力の能力で空中に浮いたことがある。しかし、飛んでいるあいだは酔って吐きそうになるくらい不安定なうえに、着地も最悪だったことを考えると、四人も一度に飛ばすなんて不可能なことは目に見えていた。それでも彼なりに励まそうとしてくれているのが分かり、心が少し軽くなる。
だが、それもほんの束の間。
かろうじて歩けているものの、足は緊張で棒のようだった。きっと今も、結界のアンジュを使っている何者かが、わたしたちを見ている。それが敵ではなくても、味方であるはずがないと考えると、焦る心と裏腹に、足は動かなくなっていった。会話も減って、ついには無言になっていた。
いつの間にか梓がわたしを抜き、その背中も少しずつ離れていた。棗がすぐ後ろにいる。きっと彼もわたしを追い抜き、少しでも早く森から出たいはずだ。わたしは端により、棗のために道をあけた。
「……何やってるの」
「ちょっと、疲れてきたみたい。先、行って」
用意していた言葉をそのまま使う。
棗はわたしを見ると、それ以上何も言わずに前を歩き始めた。
どこかで聞いたことがある。こういう危険かもしれない状況下で、最も生存率が低いのは、先頭ではなく、最後尾だと。正面から襲うより、後方から不意を衝く方が有利に事が運ぶように、このような場合も同じなのだ。
後ろに誰もいない。月の光も通らないため、本当に真っ暗だった。心細い。恐怖で余計に足がすくむ。棗とも差が開いていく。
このまま、帰れなかったらどうしよう。
頭の中は、どんどん悪い予想をしていく。森から出られたとしても、そのあとどうにかなってしまうのだろうか。この結界がアンジュ学校の監視のためのものなら、まだいいかもしれない。罰は免れないだろうが。
いや、それもだめだ。
誰が言いだしたことだとか、きっとそんなところは関係なく、年上で生徒会長の銀が最も咎められてしまうに決まってる。そうならないためには、どうしたらいいのだろう。
頭の中がぼうっとしてくる。
「……っ」
無言で突然手首を掴まれたと思うと、ぐっと引っ張られ、我に返った。
「棗……」
「今は歩くしかない」
動かなかった足が、無理やりにでも、前に進まされる。
棗が、少しだけこちらを向いた。炎で揺れる棗の瞳。一瞬だったが、初めてちゃんと、彼の目を見た気がした。視線はすぐに外されたが、小さな炎の光だけでも、はっきりと見えた。
「なんだよ」
ずっと見つめていることに気づいたのか、棗が決まり悪そうに言った。
「冷たくないんだね」
「なにそれ」
冷ややかだと思っていた瞳は、まっすぐなだけだった。励ましだとか優しさだとか、そんなものは入っていない。だから、今まで感じることが出来なかったのかもしれない。
弱くなったとき、人が求めるのは、優しさかもしれない。だが、優しさで解決できないことは、たくさんある。励まされたとしても、人の気持ちなど分かるはずない、とひねくれてしまう方が多いだろう。
そんなとき求めるものは、自分を守ってくれたり、この人について行けば大丈夫だと思える、強さへの信頼だ。そうやって安心を探すのだ。
きっと今がそうだ。
棗は、手を離さない。
彼の瞳の奥は、決して揺らがない。そのせいで、心がないだの、生意気だのと言われている棗だが、決して心はそうでない、と確信した。
このときからだ。わたしが棗に、特別な感情を抱いたのは。当時はまだ、その感情の正体が何か、わかっていなかった。ただ、わたしの前を行く棗の後ろ姿を見ているだけで、心の緊張が解け、心地が良くなる。
もしかしたら、記憶がねつ造した、恰好のいい棗の姿かもしれない。色々なことを共に乗り越えたため、この表現は、勝手にわたしが美化したものの可能性もある。
けれど、それでも構わないだろう。
真っ暗な中、彼の背中だけを頼りに歩く。彼の炎に導かれて歩いた、あの森の中。わたしの初恋。淡い特別な思い出だ。
やがてその炎が、突然、爆風と共に消えてしまうこととなっても。
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