第5話

「マジで行くの?」


 午後九時と五分過ぎ。馬の像前に集合した銀は、もう一度三人を見回して訊いた。残念なことに、楓は急に寮の先生から呼び出されたらしく、なくなく留守番をすることになった。


「まだそんなこと言ってんのかよ」

「いや、生徒会長であるオレが学校の禁を犯すなんて」


 見つかったときのことを想像したのか、苦虫を噛み潰したような顔をする。


「ギン兄の武勇伝は結構聞くし、誰も驚かないよ」

「エリカ、可愛い顔してこえーな、おい。生徒会長になってから、何も問題起こしてねぇよ」


 銀がはあ、とため息をつく。覚悟を決めたようだ。


「わかった。けど、今から言う三つのルールさえ守れないヤツはここで退場だ、いいな」


 銀が一人ずつに目を合わせていく。珍しく、棗ともすぐ目があったようで、全員を見るのに、三秒もかからなかった。


「ひとつ、オレの指示に従うこと。ふたつ、オレの指示に従うこと。みっつ、オレの指示に従うこと」

「そればっかじゃん」


 梓が、何とも言えない表情をして言った。


「当然だ。何がなんでもオレの指示に従ってもらう。もし危険があって、オレが走って逃げろって命令したら、お前らはここまで走ってくる。いいな」

「そんなに危険?」


 不安になって訊いてみる。


「……正直なところ、分からねーよ。ひとつ言えるのは、安全は保障されてないって」


 銀が不意に言葉を切った。


「どうしたの?」


 銀は唇に手をあてた。しゃべるな、という身振りだ。身をかがめ、姿勢を低く保ちながら、前方を凝視している。


「こりゃヤベー」


 わたしの耳に届いた銀の声は、ほとんど空気だった。

 梓と棗も、銀の慌てぶりから状況を察したようで、互いに顔を見合わせている。いや、棗が梓の方を向いていないので、見合わせてはいない。梓が不安を共感しようとしたが、どうやら棗には届かなかったらしい。


「エリカ」


 無理に平静を装った声で銀がわたしを呼んだ。銀は人差し指と中指を立てて重ねた後、その指をこちらに向けた。

 その二本の指を重ねる、というのは、わたしが結界のアンジュを使うときに行う動作だ。言い忘れていたが、わたしは治癒のアンジュと結界のアンジュ、二つのアンジュを持っていた。

 能力者でも二種類の能力を持つことは珍しい(ちなみに渡さんの文献によると、一人の能力者が持つアンジュの数は、記録が開始された頃から見ても、最高三つだそうだが、わたしがそれだった)。

 つまりこのとき、銀は結界を張れとわたしに命じたのだ。


 わたしは胸の前で二本の指を重ねた。


「いいか、エリカ。結界を張るときのこのポーズは、剣だと思え。ここに念を込めて。結界っていうのは、空間に穴を開けて、外界から半分切り離すみたいなものだから、精神の集中が必要になる。半分切り離すっていうのは、結界の内側は防音、外側の音は通る、ていうのがいうこと。とにかく、この指に集中」


 以前、結界のアンジュを持っている先輩に習った内容が頭に流れた。

 ふうっと息を吐き、みんなの位置をすばやく確認した。

 大丈夫、これくらいの大きさの結界なら張ったことがある。そう自分を落ち着かせる。焦りで手が震えたが、無事、半球状の結界が四人を覆った。


「よくやった」


 防音にも関わらず、銀が声をひそめて言うと、エリカの頭をわしゃわしゃと撫でる。


「何があったんだよ」

「見回りが来たっぽい。オレが気をそらせるから、お前らはここで、じっとしてろ」


 そう言った銀が、結界の外に出ようとしたのを、梓が慌てて腕をひっぱり引き戻す。


「じっとしてたら、きっと大丈夫だって」

「ダメだ、いるのはバレてる」


 彼はひどく焦った様子で、梓を引きはがすと、結界の外に出た。と同時に、遠くのほうで影が揺れた気がした。

 わたしたちは凍り付いた。

 三、四十メートルほど先の校舎の陰から、大柄な影が現れた。


「先生だ……」

「ただの先生じゃねぇよ。ゴリラじゃん」


 梓の顔が明らかに強張ったのを見て、こちらにも緊張が伝わった。

 梓からよく、ゴリラ、というあだ名の先生がいる、と聞かされていたため、その先生の名前は認知していた。話を聞く限り、行動で話すタイプの教師らしい。要するに、手が出るのが早い、ということだ。


「おまえ、何をしている」


 どすの利いた声が、結界の中にまで響いてきた。


「あ、ゴリ……剛田先生じゃないっスか」


 銀はいつものお気楽な口調で言った。声も震えていない。幸い、ゴリラ、と言いかけたのも聞こえていないようだ。


「生徒会長の小見山か。こんな時間に何をしている?」

「あー、えっと……」


 言い訳まで考える時間はなかったのか、ごにょごにょと口ごもってしまっている。


「なんだ? ここは境弥の森の前だが、まさかお前、ここに入ろうと思っていたわけじゃあないだろうなぁ?」


 図星の答えを言われ、銀はアハハ、と笑う。


「いやぁ、そんなんじゃないっスよ」

「じゃあなんだ。とっくに寮から出ていい時間は過ぎている。生徒会長とはいえ、理由によっては厳重処分だぞ」


 厳重処分、という言葉に、梓の肩までもが、びくっと揺れる。

 銀は、頭の回転が早い、利発な青年だ。きっと、何かいい言い訳を考えつくに違いない。そう祈るように期待していると、銀の声が聞こえてきた。


「だって先生、もう十月じゃないですか」

「十月だからどうした」


 剛田先生が少しの間も与えない、といった様子で聞き返す。周りの緊張した息遣いが聞こえる。


「神無月って、神様がいない月でしょう?」

「だからどうした」


 これから銀が何を言い出すのか、わたしには想像もできなかった。が、もし想像できていたとしても、彼の考えはわたしの考えの斜め上をいっただろう。


「さーさーのーはー さーらさらー」


 こともあろうか、銀は陽気に歌を歌いだした。低音で甘めの声で、夜の闇に響く声をこれっぽっちも恥じることなく。


「な、なにをしている」

「七夕から、三カ月。織姫様が寂しがってるんじゃないかと思って。ほら、星が綺麗だし、神様の見張りもいない。今なら会える気がして」


 真っ先に唖然とした声に出したのは、梓だった。


「なんつー適当な」

「でも、あの先生、ちょっと食いついてるよ」

「頭がいいのか馬鹿なのか……」


 棗もぼそっと便乗したのがおかしかったが、銀の次の言葉を聞き逃すまい、とそちらに耳を傾ける。


「ほら、いつかの日に、かの有名な在原業平朝臣も読んだらしいじゃないですか。借り暮らし七夕つめに宿からむ 天の川原に我は来にけり、って」


 後から知ったのだが、これは大昔の書物、伊勢物語の主人公である、在原業平が読んだとされる和歌だ。和歌というのは、たった三十一音の中で様々な技巧をこらし、情景や心情を伝える。そのどこか懐かしい、美しい言葉遣いや、今はないものの見方は、現代の人の心にもよく響き、ひどく感心させられるものが多いのだ。そのため、和歌は廃ることなく残ってきた、人類の遺産のようなものだった。


「ギン兄って、もしかして賢い?」

「もしかしなくても銀くん、国語の成績じゃ常に首位だって聞いたことがある」

「だからってここでどう使うんだ?」

「ねぇ、剛田先生って、確か古典の先生って言ってなかった?」


 三人はあっと小さく声を上げ、すぐにその後の行方を見守る。


「いやぁ、確かにそうだが」

「オレ、在原業平に憧れたんっスよ。先生も分かりますよね、彼の魅力!」

「あ、あぁ。女に目がない奴だけどな」

「そのギャップがいいんっスよ! ただの女たらしじゃなくて、まあ彼は略無才学でしたけど、切り返しが早くて……古今集の春の部に載っている、女性に桜と比べられたときの返歌、あれいいっスよね!」

「あ、ああ」


 あまりに銀が堂々としているため、剛田先生はたじろいでいた。明らかに銀の勢いに飲み込まれ、圧倒されている。


「それだけじゃないんです! 業平さんの桜と言えば、酒宴で詠まれた歌も素晴らしい! 春に心が揺れるのは桜のせいだから、なければいいのに。でも」

「小見山もういい、わかったから、もういい」


 剛田先生の声で、勢いにのってきた銀の声が止む。


「わかった。それだけ情熱をもって古典に接してくれるやつも少ない。そういう独特な視点で古典を見てくれるやつがいるとは思いもしなかった。だが、こんな時間に出歩くのは罰則に値する。お前だけか? 声が複数聞こえた気がしたが」


 剛田先生が舐めるように辺りを見渡してから、視線を銀に戻した。


「いえ、オレひとりっス」


 銀が、ポーカーフェイスで答える。剛田先生は、銀ではなく、こちら側に視線を飛ばしてきたように見えたが、気のせいだったかもしれない。


「オレは織姫に会いに来たんで」


 ダメ押しをするように銀が言い、八重歯を見せて少年っぽく笑って見せた。

 それに対し、剛田先生はすっかり叱れなくなってしまったらしい。どうしたものか、と頭をかく。

 銀はこのようにして、数々の大人と女性を落としてきた。自分の武器を知り、それを惜しみなくここぞとばかりに使う。そうやって上りつめ、手に入れた座が生徒会長、という場所だった。これは余談だが、彼の投票数の七割は女性票でだったらしい。


「俺の負けだ。お前の在原業平への気持ちを汲んで、今日のことは俺の胸ひとつに収めてやる。が、明後日の俺の授業のときに、伊勢物語についてのプレゼン四十分間をしろ」

「げっ。それ、授業の半分以上じゃないっスか」

「俺は別に、生徒指導にお前を引き渡してもいい」


 剛田先生が勝利の笑みを浮かべる。


「……分かりましたよ。やります、やりますから」


 背に腹は代えられない、と銀がため息をついた。


「よし。じゃあ早く寮に戻れ」


 剛田先生は軽い足取りで、鼻歌までも歌いながら歩いていく。

 どのタイミングで結界を解こうか。迷ったが、やはり銀の合図を待つことにした。彼は剛田先生が去ったことを確認してから、こちらに手招きをした。合図だ。


「銀、すげー!」

「バカ! 静かに」


 銀が、慌てて口元に指を一本立て、注意をする。梓は、ごめん、と言うが、危機を乗り越えたことで、浮ついた様子だった。そんな彼を、じっとりとした棗の目が向けられる。


「まあ、とにかく早いこと森に入るぞ」


 銀が立ち止まったのは、他の柵と何も変わったところのない、ごく普通の柵の前だった。


「本当にここなの?」

「間違って感電なんて、やめてくれよな」

「大丈夫、場所は合ってる。そこに中等部の音楽室があるだろ? その二個目の柱の前って覚えてっから」


 自信ありげな言葉とは裏腹に、慎重に柵に手を近づける。

 柵に手をかけると、こうなります。という映像を見せてもらったことを思いだす。実験では可愛らしいぬいぐるみを使っていた。ゴム手袋をつけた検査員が、ぬいぐるみの手を柵に触れさせた瞬間、バチっと太い線が切れるような音がして、そのぬいぐるみの手は、触れたところだけ焼き焦げており、周りの繊維もチリチリになってしまっていた。

 もし、銀の柵が間違っていたら……


「エリカ」

「はいっ」


 急に名前を呼ばれ、思わず敬語になる。


「あのさ、念のために聞くんだけど……お前、火傷の傷とか治せる?」


 その問いかけに、棗の肩が一瞬強張ったような気がしたが、違ったかもしれない。


「うん、病気よりも外傷の方が得意だよ」

「それは安心だ」


 銀は冗談っぽく微笑み、一度下げてしまった手を、もう一度柵に近づけた。もしこの柵が間違っていたときのことを考え、銀のそばに寄る。アンジュをすぐに使えば、痛いという感覚だけで、きっと痕は残らない。


「よし」


 覚悟を決めた銀の左手が、柵を押した。

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