file1-X ある作家の受難

 その晩は、彼にとって恐ろしいものとなった。

 満月が皓々と照らす夜道は、何時になく不気味な雰囲気を持っている。

 先日担当に提出した作品への反応がない事にもやもやしていたせいか、原稿は珍しく行き詰まりを見せていた。

 出版できなくなる事はないと思う。あれは会心の一作だ。

 とは言え不安な気持ちは拭えず、気分を変えたくてコンビニに足を運んだ帰り。


「ええと、どいていただけます?」


 街灯の切れ目に立っている、五人。月明りで明るい筈だが、街灯の光が目に入るからだろうか、顔立ちまでは確認できない。

 そのうちの一人が静かに、問いかけてきた。男だ。


北海きたみツヨシ、だな?」

「ええ、そうですが……。サイン、ですか?」


 間抜けな事を聞いたものだ。返答した時点で、そうではないと察してしまっている。

 背筋に走る、ぞわぞわという寒気。何かがまずい、そう思った時にはもう遅い。そのルールに基づいて彼――北海ツヨシはもと来た道を走り出していた。

 おそらく、自分がそうするだろう事は既にばれていた筈だ。振り返る寸前、五人いた筈の人影は一つしかなかった。

 話しかけられる寸前には五人いた。これは間違いない。しかし、声をかけられた瞬間、その一人に意識を向けた間に、四人はこちらに動く気配を感じさせる事もなく消え失せた。

 取り立てて反応が早かったとは思わない。それすらも予測の範囲だったと思わせられたのは、


――アォォォォォォン!


 高音で響く、遠吠えが理由だった。

 それを放ったのが先程の男であると、理由も確認もないままツヨシは確信している。


「まるで! 人狼ウェアウルフみたいだ……!」


 走りながら、思わず呟く。交差点に差し掛かり、大通りに向かう道を選ぼうと視線を左に向ける。


「っ!?」


 やはりぼんやりとしか見えないが、そこにゆったりと立つ人影が二つ。

 背筋を這う感覚が、その二人が先程の五人のうちのいずれかだと告げていた。転げるように方向転換し、右の道に入る。

 やはり背後から響いてくる遠吠え。まさかと思う自分と、人狼の実在を告げる自分とが脳内でせめぎ合う。

 逃れられるとは思わなくとも、今は本能の赴くままに走るしかないのだ。


「ぶはぁっ! はぁっ、はぁっ!」


 息苦しさが限界に来て、思わず足を止める。

 深呼吸と同時に汗が噴き出す。と、背後から静かに声が投げかけられた。


「もうジョギングは終わりかいィ? 運動不足のようだねェ」


 感情を感じさせないその声は、全身に纏わりつくような粘り気を伴っている。

 全身が総毛立ち、体が反射的に走り出そうとする。しかしこのまま走ってもすぐに限界は来る。一度呼吸を整えなくてはと理性で反射を押さえつけ、ツヨシは怖気をふるいながら言葉を返した。


「はぁ、はぁ……。次があるなら、ふ、フルマラソン出来るくらいに鍛えておくよ。ぜぇ」

「それがいいねェ。次。まあ、次があるならだけどォ」

「なんで、僕を、追いかけるのかな。ゲフッ」

「なんでもなにもォ、話も聞かずに走り出したのはそちらではなかったかなァ」

「それもそうだね」


 体中の警鐘と言う警鐘がこの場をいち早く立ち去れと命じてくるが、呼吸を整えなくては意味がない。

 視線を巡らせる。五人は強を囲んでいるが、あからさまに一カ所だけを空けている。

 まるでそちらに逃げるのを待っているかのように。


「そろそろ後続がやってくるかねェ」

「遊ぶな、早急に済ませろ六號ろくごう。時間はあまりないぞ」

「分かっているよォギンさん。さてェ、こいつァ意趣返し、というやつだァ」

「意趣返し? いったい何の」

「心当たりがないならァ、知る必要はないよォ。自分が何をしでかしたのかァ、知らないままでェ――」


 ――呼吸からひきつるような音が消えた。

 言葉が終わるのを待たず、再び走り出す。

 やはり驚いた様子はなかった。完璧にこちらの考えは把握されてしまっているらしい。あるいは、その程度は誤差と思われているか。

 複数の遠吠えが聞こえ始める。

 はっきりと視線を感じるようになった。この時点でしっかりと自覚する。自分は追い立てられているのだ。

 既にどこをどう走ったかも覚えていない。月明りや街灯はあるが、ここがどこだかも分からなくなっている。

 狩りだ。向こうは猟犬で、こちらが獲物。

 人通りのない場所へ、人の気配がない方向へと誘導されている実感があるが、立ちはだかる彼らの間を駆け抜けられる自信はなかった。

 こちらの状況を冷静に観察されている。疲れ切って抵抗も出来なくなったところで、この無数の視線の主達に噛み裂かれるのだろう。


「そっ、そんなのは嫌だ!」


 思わず叫んで、足に込める力を増す。

 少しずつ、立ちはだかる数が増えているのが分かる。

 そして、終わりは唐突に訪れた。


「嘘だろ」


 三叉路に差し掛かり、どちらに向かうべきか鋭く視線を巡らせ、気づく。

 二人や三人ではない。道を埋め尽くす形で、彼らはそこに立っていた。

 後ろを振り返っても、同じ。

 囲まれた。道は塞がれた。もう逃げる力はないと判断されたか。


「もォう、いいかァい?」

「くっ!」


 足を止めれば終わりだ。聞こえてきた声に覚悟を決めて、ツヨシは目の前の壁に飛びついた。

 最後の力を振り絞って、壁を乗り越える。

 灯りのついていない民家の脇を駆け抜けて――ついでにまだ帰っていないらしい住人の方に不法侵入を内心で詫びつつ――とにかく彼らから離れようと足を動かす。


「お、おい! あっちはまずい!」

「やべェ! あの先の縄張りは――」


 ツヨシは、自分を追っているのが人狼であると確信を持ち始めていた。

 根拠などあってないようなものだ。しかし、自分が恨まれる可能性を考えれば、最早それ以外に心当たりに出来そうなものなどなかった。

 自分が書いた作品は、デビュー作として書いた人獣ウェアビーストを題材にした短編と、人狼の組織同士の抗争を描いた長編の二つだ。短編で恨まれるには時間が経ち過ぎている。長編の内容に、何らかの偶然で不都合を生じてしまったのではないだろうかと思えたのだ。

 そして、彼らの身体能力は人間のそれを超えているように思えてならない。

 スタミナは人並、運動神経もそこまで良くない彼がこうやって今まで足を止めずにいられるのは、恐怖と同時に死にたくないという思いからだ。

 そういう必死な人間を息も切らさず追い立て、あるいは先回りしてくる。人狼達はつまり遊んでいるに違いなかった。

 彼らの言う通り、意趣返しが理由であるのならそれも仕方ないのかもしれない。

 憎い相手をいたぶることで、自分の憎しみや怒りに折り合いをつけていくのだ。

 だが、される側からしたら堪ったものではない。

 だからだろうか。


「絶対に、摑まって……やるものか!」


 彼らの焦り声が聞こえたのを良いことに、ひたすらそちらに向かって走る。

 再び囲まれたら、今度はその囲みを蹴破ってやると。

 勇ましい思いすら抱いて、ツヨシは駆ける。


「待てッ! 待つんだよォ!」


 その声は、実に近くから聞こえてきた。


「えっ?」


 思わず振り返れば、毛むくじゃらの腕が伸びてきているのが見えた。


「うわっ!?」


 悲鳴を上げてそれを避けるが、妙な体勢になったせいか足をもつれさせる。

 地面に倒れ込み、摑まるのは避けられた、が。


「うぅ、くそっ!」


 一度止まってしまった体は、遅れてやってきた疲労によって最早言う事を聞いてくれなかった。


「やっと止まったかいィ。おう、お前達ィ、はやくこの兄ちゃんを連れて行くぞォ! ここはまずいんだ、まずいんだよォ」

「ここまでか、くっ!」


 指一本を動かすのも億劫だったが、どうにか体を起こし、這いずるように体を前へ。


「無駄な努力はするんじゃないよォ!」

「離せ、離せよっ!」


 その肩を摑まれる。万全の状態でも、微動だに出来ないだろう強い力。

 腕の太さは自分と殆ど変わらないと言うのに、どこからこれ程の腕力が沸いてくるというのだろう。

 だが、それを知る機会は与えられそうにない。

 ツヨシが諦めと絶望にその心を折られかけた、その時であった。


「うるさいな」

「ひィっ!?」


 ぽつりと聞こえてきた声に、彼らがおののくのが分かった。


「人狼どもか。ここはお前達の縄張りじゃない、何をキャンキャン喚いていやがる」

「こ、こここ虎群こぐんの旦那!」


 若い男の声だ。年の頃は自分や、自分を追いかけてきた者達と同程度か少し上といったところだろうか。

 男は彼らを人狼と言った。やはり実在したのかと心が沸き立つ一方で、その人狼が怯える声の主が一体何者なのだろうかという疑問も浮かぶ。


「わ、分かっているよォ虎群の旦那! お、おおオイラは六號だ、豺狼サイロの六號! もと翠狼組グリンウルフクランの!」

「知ってるよ。わざわざ名乗るって事は、俺の素性も知っているんだろう?」

「お、おうとも! この街に住む人獣で、あんたの事を知らない奴ぁモグリだ!」


 こぐんのだんな、と男は呼ばれた。

 顔を上げれば、道の向こうに立っているのが見えた。暗緑色のスーツは街灯に照らされて見えるが、胸から上が暗くて見えない。

 先程の人狼達から始まって、まさか狙ってやっているのだろうか。


「なら、この辺りにわざわざツラを出す筋合いじゃないってのも、分かってるだろうな?」

「む、無断で縄張りに入っちまったのは謝るよ! こっちものっぴきならない事情があったんだ!」


 六號の口調から、粘りつくような響きがいつの間にか消えていた。

 余程慌てているらしい。


「お前ら、最前から随分と吠えてやがったな? ご近所から随分と苦情が出てるんだ。何をしてたかは知らねえが」


 ブーツがアスファルトを叩く、こつこつという音。

 ツヨシは自分を抑える六號の腕が、ひどく震えている事に気が付いた。


「た、助けてください!」

「成程。寄って集って狩り気取りか」


 どうやら自分が追いたてられた事を理解してくれたらしい。

 男が事情を問う前に、後ろから弁明が聞こえてきた。


「済まない、四席。確かに狩りにかかっていたが、こいつをそちらの縄張りまで走らせたのはこちらの落ち度だ。落とし前は俺が――」

「そういう問題じゃあないんだよ、ギン」


 旦那、四席と呼ばれている男は何やら苛立っているようであった。

 何となく息苦しくなってくるのを感じる。六號の手の震えが増した。

 これは威圧感か。担当との打ち合わせの時に感じるものとはケタが違う。


「はしゃぎ回って何のつもりだと言っているんだよ。派手に騒ぎやがって」

「た、頼むよ旦那、許してくれよ! ギンさんは悪くねェんだ! それもこれもオイラ達が」

「煩いぞ六號。俺は理由を聞いているんだ。お前達が狩りなんて前時代的な真似をした、な!」


 ついに男が声を荒げた。

 こちらに歩を進めてきて、ようやくその姿が鮮明に分かる。


「嘘、だろ」


 ツヨシは息を呑んだ。

 街灯から離れて、満月に照らされるだけになったその姿は。


「あんまり寝惚けた事ばっかかしてっと――」


 赤みがかった毛並みの豊かな、虎の頭。


ウェア……タイガー

「食っちまうぞ、手前てめえらぁ!」


 殺意すら込められた怒号に、強の心は限界を迎えた。

 悲鳴を上げる間もなく、ふつりと意識を手放したのだった。

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