彼女の日記
「ねぇ、これ、なんだよね?」
「ああ、おそらく」
持ってきた本を机の上に置き、見つめる俺と雪歩。雪歩が言う「これ」が何を意味するか、そんなの聞くまでもない。雪歩の名前が表紙に書かれたこれは、ほぼ間違いなく、検索でヒットした本に違いない。それがわかっているからこそ俺たちは暫く黙ったままそれを見つめていた。
「……よし、開くぞ」
「う、うん」
いつまでもこうしていても始まらない。俺は意を決して、本の表紙へと手をかける。そしてゆっくりとその表紙を開く。
『五月十日。今日から日記をつけることにした。だって今日は記念すべき日だから。私のお腹に新しい命、それがいるとわかった大切な日』
日付と共に書かれた文字。それは雪歩の字に間違いなかった。ずっと見慣れてきた雪歩の字に……
「これって……日記?」
「どうやらそうらしい」
本を見つけた時、本っぽくないとは思っていたけど、やっぱりそうだったみたいだ。
「続き、読むぞ? いいか?」
「う、うん」
雪歩の許可をもらいページをめくる。
『五月十一日。今日あの人にこの子のことを伝えた。昨日伝えても良かったのだけど、出来ればやっぱり驚かせたい。だから部屋を飾りつけて、ケーキも用意して……結果は大成功! 最初はあの人も戸惑っていたけど、子どもが出来たことを伝えると凄く驚いて、喜んでくれた。それこそ私の方が逆に驚くぐらいに』
『六月七日。初めての定期検診。診察を受ける前から私はどきどきしっぱなし。この子が順調に育ってるかな? どこか変なところはないかな? でも先生が『大丈夫。順調に育ってますよ』と言ってくれてホッとした。まだまだこれからだけど、どうかこの子が無事に産まれてきますように、それが今の私の一番の願い』
『九月二十日。初めてこの子が動いた。嬉しい。ちゃんとこの子が私の中にいるんだってちゃんと自覚することが初めて出来た気がする。そうそう動いたことをあの人に言ったら、なんで俺がいる時に動かないんだーってですって。もうそんなに悔しがることないのに。だってもうすぐあなたに会えるんだもの。産まれてくるあなたにきっともうすぐ……』
『十二月十三日。予定日までもう少し。本当にもうすぐあなたに会える。だからあなたに知っておいてもらいたいことがある。あなたは私とお父さん。その二人に誰よりも愛されて産まれてきたんだってこと。いつかこの日記を読んだ時にそう思ってもらえるように、私は今まで自分とあの人のことをそのまま書き綴ってきた。だから、ね。あなたがこれからの人生どんな辛いことがあったとしても、私とお父さんはあなたのことを応援する。そしてどんなときもずっとあなたの幸せを願ってるよ。それだけは忘れないで。これが私から産まれてくるあなたに送る最初のお願い』
「お母さん……」
日記を読み、雪歩は涙していた。日記に書かれた文字からは雪菜の愛情が手に取るようにわかった。
雪菜……お前、本当に母親だったんだな。
そんなことを思いながらページをめくり、このページが最後だと思っていたその時、
「え?」
ページをぺらぺらと捲っているとそのページから数ページにも文字が書かれているのを見つけた。しかもそこには……
「俺の、名前?」
そこには同じく雪菜の文字で書かれた俺の名前があった。
なんでこんなところに俺の名前が……
その瞬間、俺は自分の心臓がトクンと大きな音を立てるのを聞いた。そして鼓動がどんどん早くなっていく。自分でも理由はわからない。でも確かに俺の体は動揺し、鼓動を早めていた。
「歩……」
そんな俺を見て心配になったのか、涙を拭った雪歩が俺の服の袖をギュッと握った。
「……心配するな。俺は大丈夫だ」
そう言って俺は袖を握る雪歩の手を取り、握り返した。そして視線を日記へと戻す。不思議と俺の中にあった動揺はなくなり、鼓動はいつの間にか元に戻っていた。
そしてゆっくりと俺は雪菜の言葉を読み始める。
『歩へ
歩は必ず生きている。だから私はここに書きます。
歩、あなた私のこと好きだったでしょ?
なんでわかるのかって? 当たり前だよ。だって……私も歩のこと好きだったんだから。
でもね、私にはあなたよりも好きな人がいた。だから私はこの人と結婚したの。
そして今その人との子供が産まれようとしている。きっと女の子ね。うん、絶対女の子。これは女の勘よ。
でね、この子の名前なんだけど「雪歩」ってつけようと思うの。私の「雪」と歩の「歩」二つ合わせて雪歩。これって私のエゴかもしれないけど、でも私はこの子に歩みたいに育ってもらいたい。どこまでも真っ直ぐで一途で……そんな気持ちに素直な子に育ってもらいたいの。
だからあの人がなんて言おうとこの名前を私はこの子につけます。こんなことあの人に知られたら怒られちゃうな。ふふっ、なんかこれじゃ遺言みたいだね。
でもね、もし私に何かあったら……歩、この子を守ってあげて』
「……」
読み終えて暫く言葉をなくす俺。
雪菜の日記に書かれてあったのはまぎれもなく俺に向けた言葉だった。
俺が生きていると信じ続けた雪菜が俺へと宛てた言葉。そして全てを知っていた雪菜が初めて打ち明けた告白。
「は、ははっ! ……なんだ、そうか」
雪菜は俺のことを好きだったんだ。そしてその上で先輩を選んだ。俺よりももっと好きだった先輩を。
わかってた。俺だって雪菜が俺に恋か友情かわからないが少なからず好意を持っていることは。それぐらいに俺たちは長い間一緒にいたから……
だから、あの日、告白を見た時俺は逃げ出した。
……俺は怖かったんだ。雪菜の気持ちが俺ではない他の誰かに向けられている。俺の雪菜への気持ちが届くことはない。その事実を受け入れることが、自分が失恋したんだということがわかってしまうことが……
結局のところ、俺はずっと逃げていたんだ。あの村を飛び出した日からずっと今まで……
だから終わりにしよう。
「ったく、娘を頼むとか……しかも俺の名前まで勝手に使って、相変わらずお前は自分勝手で、手の掛かる幼馴染だな」
そう、俺たちは恋人どうしにはなれない。いいや、なれなかった。だから俺と雪菜は幼馴染。腐れ縁で長い間一緒にいた他の誰とも違う繋がりを持つ唯一無二の友達。だから、お前の願い……
「守ってやるよ。幼馴染として、な」
それが俺なりのケジメ。ずっと思い続けた好きな人にようやくすることが出来た失恋。
「わたしの名前は……歩から……」
「ん? どうした?」
自分自身の気持ちの整理が終わり、隣にいる雪歩に意識を向けると雪歩も雪歩で一人で何かを呟いていた。
「え? べ、別になんにもないよ!」
そう言って手をぶんぶん振る雪歩の顔はほんのりと赤くなっていた。雪菜の言葉を見て雪歩も何か思うところがあったのだろうか。ま、自分の名前のルーツが書かれていたわけだしな。俺だって雪菜の告白で暫く一人の世界に入り込んでしまっていたし。
「ん?」
そこで俺はまた気付いてしまった。その文がそこで終わりではないことに。
ページの残り半分、それも下の方に少しだけ書かれてあった文字。
「こ、これって……」
そこに書かれてあった文字。それは俺達を真相へと導く雪菜の最後の言葉だった。
未来を求めて 〜俺と彼女の恋と事件〜 駒秋一 @SHU-ICHI
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