第二章 トラブル

乱心

「お、おはよう、アイシュ…」


「…おはよう」


「アイシュお姉ちゃん、おはよ~」


 爽やかな春の朝。今日も一日、いい天気なのは間違いない。

 しかし返って来たのは春の陽気に似合わない、暗くぶっきらぼうな一言。

 マサトは大きく溜息をついた。

 アイシュは昨日から不機嫌極まりなかった。





 昨日。アイシュがマサトの部屋に入って来た瞬間、マサトには戦いを告げるゴングの音が聞こえた気がした。


「な、な、な…」


 扉を開けたままの姿でフリーズするアイシュ。それもそうだろう。目の前には薄いドレスに身を包んだ、銀の髪と、金の瞳を持つ美しい少女。その手を取ってこちらを見るマサト。(本当は腕を掴んでいたのだが、アイシュにはそう見えたのだ)


「ちょっと待て!誤解は止めよう!な!?」


 絶句するアイシュに、無駄と知りつつ先制攻撃を仕掛ける。マサトの声を聞いて、フリーズからは回復したアイシュ。ゆっくりとした動作で扉を後ろ手に閉める。


 カチャリッ。


 ドアの閉まる音を、これほど鮮明に聞いたのはいつ以来だろう。

 スーッと、アイシュの怒気が静まっていく。本人はうつむき加減で、前髪に表情が隠れて伺えない。

 しかしマサトには解っていた。これは…嵐の前の静けさだと。


「ちょっと!マー君!これってどういう事よ!その娘は誰よ!?何してたのよ!?ってゆーか、何しようとしてたのよ!」


 もしこの場に魔法が発動していたならば。

 きっと彼女からは、台風よりも強力な突風がマサトに向けて吹き付けていた事だろう。それ程の勢いで、普段なら聞く事も無い大声でアイシュはマサトに畳み掛けた。

 一気に興奮して、彼女の顔は真っ赤だ。そしてあの可愛らしかった顔は、正に鬼の形相と化している。


「ま、待て。ま、まずは落ち着こう、な?」


 無駄とは知りつつ、マサトはアイシュを宥めに掛かった。が、やはり無駄だった。


「待つ?何を待つの?待ったら何か良い事あるの?信じられない!浮気?早速浮気なの!?よくも許嫁が住んでる家の目と鼻の先でそんな事が出来るわね!まさかマー君がそんな人とは今まで思いもよらなかったわ!」


 全く取り付く島がない。

 今までの喧嘩なら、原因が大した物ではなかったという事もあり、すぐにアイシュの怒りも治まった。しかし今回の原因は二人にとって初めての事。マサトにも収拾の方向が解らなかった。


「お主、少し考え違いを…」


「あ、な、た、は。少し黙っててね~」


 事態の収拾を図る為、助け舟を出そうとしたユファに、アイシュはそこまでと打って変わった優しい声で彼女の声を遮った。声は優しい。怒気も一瞬で一気に抑えられていた。

 しかし顔が笑顔に程遠い。怒り笑いだ。


「う、うむ…」


 その迫力に押されて、ユファもそれ以上言葉が出せないでいた。気迫に押されて、若干後退っている。再度、マサトに向かったアイシュは、再び怒気を全開にした。


「で?何?何か言う事あるの?ないの?認めるの?何か言い訳しなさいよ!言いなさいよ!言わないの?言えないんだ!?信じらんない!もー信じらんない!」


 マサトは既に、ベッドの隅にまで追い詰められている。これ以上の逃げ場は無かった。

 アイシュは一言発する度に、ズンズン近づいて来る。

 その後三十分にわたり、マサトはアイシュに落ち着けを連呼するだけの防衛戦を強いられたのだった。





 漸くマサトの声が耳に入る程に、アイシュの勢いが衰えて来た。

 最後の方は詰め寄っている彼女の方が涙目になっていて、マサトの方もかなり動揺していたが、今はとりあえず口撃する手を休めてくれていた。その後に続くのは沈黙。耐え難い沈黙が流れる。


「と、とりあえず少しは落ち着いたようじゃの」


 長い沈黙に、真っ先に耐えきれなくなったのはユファだった。明らかに居心地も悪そうだ。

 ゆっくりと向けられる二人の視線にたじろぐユファ。


「と、とりあえず後の事はマサトに任せて、我は退散させてもらう」


 その視線に耐えられないとでも言う様に、こちらの返事を待つ事無く、目もくらむ光に包まれるユファ。


「な、何!?」


 突然ユファに起こった現象に、光を手で遮りながら、驚きの声を上げるアイシュ。

 光が消えた後には、ユファの体は掻き消えていた。


「え…?」


 初めて見る不思議な現象に、それまで落ち込みモードだった彼女は目を丸くして驚いている。絶句して、ユファの消えた所とマサトを代わる代わる見るアイシュ。

 マサトもその現象を見るのはまだ二度目だが、驚きよりも疲労が勝っており、慌てふためくアイシュを見て疲れた微笑を向けるのがやっとだった。そこからようやく本題に入る事が出来た。

 結果的にあの場、あのタイミングでユファが消えてくれた事は効果的だった。

 不可思議な光景を目の当たりにして、アイシュも漸くマサトの話を聞く事が出来たのだ。

 が、その事と、マサトの中にアイシュがいるという事を納得するかどうかは別の話らしい。


「じゃ~、マー君はその間、彼女の面倒を見るって事なんだ?」


 言っている事は合っている。しかし、若干ニュアンスが違う。と言うか、アイシュの言い方には棘があり過ぎる。


「いや、面倒を見るというか、俺の中で放置する感じじゃないかな?」


「おんなじ事よ!」


 いや、違うだろうとマサトは思ったが、アイシュの中では同じな事の様で、ここで反論するのは不毛な事だった。


「ふ~…。とにかく話は解ったわ。怒鳴っちゃってごめんなさい」


 大きく深呼吸した事で、かなり冷静さを取り戻してくれたようだ。

 理解したかどうかは別にして、今マサトが置かれている状況は認識したらしい。


「それで?その招かれざる同居人はいつまで居座るつもりなの?」


 冷静になってはいるが、ユファに対する攻撃性は無くなっていなかった。聞こえている前提で、刺々しい言葉が投げ掛けられる。


「さ、さあ?もうしばらくは居る事になるんじゃないかな?」


 本当はもっと長く居座る事が確定しているが、今ここでそれを言えばアイシュの怒りが再燃する事請け合いだった。問題の先送りにしかならないが、ここはこの答えが最善だとマサトは考えた。


「ふ~ん…。もうしばらく…ね」


 ただ、アイシュにはなんとなくばれているようだ。流石にそこは長い付き合い。マサトが誤魔化そうとしているのを良く解っていた。

 しかしマサトがそう言った裏には、アイシュを思っての事だと彼女も理解していた。


(こういう時って、損なのよね~)


 単に付き合いが長いという訳だけではない。マサトはともかく、アイシュは特別な目で十数年、彼を見て来たのだ。彼のちょっとした言動の変化と、それに隠された裏の意味もある程度は理解出来るようになっていた。


「とりあえず、今日は私、ここに泊まるから」


「はあ!?」


 突然の宣言に、間の抜けた声しか出せないマサトに追い打ちが掛かる。


「泊まるから!」


「はい…」


 マサトにはアイシュの考えている事が解らなかったが、こういう時のアイシュは頑として譲らないという事だけは知っていた。





 アイシュはその日、本当にマサトの家へ泊った。

 年頃の女性が、同じ年齢の男性宅に泊まるなど言語道断、となるほど浅い付き合いではない両家。しかも隣同士なので、アイシュのおじさん、おばさんの認識は「今日は隣の部屋で寝るから」位の気軽な物だったようだ。

 そして受け入れるマサトの両親も二つ返事でオーケーした。それこそ幼い頃は、日替わりで両家を行き来していた程だ。

 二人とも思春期になり、流石に泊まるという事は無くなったが、久しぶりにアイシュが泊まりに来るという事で、母イリス等は大喜びをしていた。

 そしてノイエと同じくらいアイシュの事を可愛がっている父ユウジも顔が綻んで元に戻りそうにない。

 浮かれた雰囲気の食事も終わり、いよいよ「解放の儀」についての説明が始まった。本当は食事前に済ませる予定だったが、アイシュが泊まるという事で食後に行われる事となった。

「解放の儀」と言っても、「継承の儀」の様な魔法陣を使った大掛かりな物ではない。

 呪文を唱えて指先に魔力を溜め、その魔力で相手に併せた魔法陣を額に描く。そこで重要になるのが「真名」と言われる伏せられた真の名前だ。

 深淵の一族は、生まれた時に俗名と真名を与えられる。

 しかしそれを知る事が出来るのは、本人が十八歳を迎えて以降の事。それまでは一切伏せられ、両親のみ知る事となる。

「真名」には自分の全てが魔法情報として含まれており、「真名」を利用した従属系の暗示をかけられると、何があっても解けないという程本人に強い影響力がある物だ。子供が親に従属するという事は一般的に不思議ではないので、両親が知る事は問題ない。勿論悪用する事は論外だが。しかしその名が他人に漏れる様な事があっては一生に関わる事となる。

 本人が十八歳になった時、両親から本人にのみ伝授される。

 そして「解放の儀」も魔力を使用した、れっきとした魔法である。

 マサトが自力で「解放の儀」を行う事は不可能と言える。

 エクストラとなった者は、自分の最も近しい者に「解放の儀」を行ってもらう。つまり、ガーディアンガードとなる者にである。マサトの場合は、アイシュが「解放の儀」を行う事は間違いない。

 しかし、マサトの「真名」をアイシュに伝える事はこの時点ではない。本当に必要となった時、マサトの口からアイシュに自分の「真名」を伝え、「解放の儀」を行ってもらうのだ。そしてそれは、アイシュも同じ事である。

 彼女にも本来の力を開放する為に「解放の儀」が必要で、その為にはアイシュの口からマサトへ彼女の「真名」を伝える必要があるのだ。

 今日は一連の流れと「解放の儀」で使用される呪文の伝授。そして、使用される魔法式(額に描かれる魔法陣)がマサトとアイシュに伝えられた。

 もっともマサトにはその必要性が感じられなかった。一通りのレクチャーはアイシュと共に受けていたが、彼女とは対照的に終始興味がなさそうに、面倒くさそうに聞いていた。

 この平和な世の中で、「解放の儀」が行われる事はまず、無い。

 父もそうだった。祖父も、その先代も、ずっと以前の御先祖様も、前大戦終結から今に至るまで「解放の儀」を行った例はない。

 勿論、今日、今この時に戦争が勃発する事は考えられる。しかし戦争が行われるには対立する二つの国が必要だ。

 統一国家である現在において、外敵は存在しない。

 もし、国家転覆を図っている様な自治領があるならば、すでに何らかの問題発言なり行動を起こしている筈だ。何事にも切っ掛けは必要不可欠。しかし世界中を見回しても、不満を述べていたり、非難を浴びている自治領はない。千年前から変わらない、平和な時代は継続中だ。


「おい、マサト。お前の考えてる事は解らんでもないが『平時にありて乱忘るるべからず』と言う言葉もある。ちゃんと覚えておけよ」


 そんなマサトの態度に、父ユウジが釘を刺す。


「わかってるよ。別に無用な物って考えてる訳じゃない。不要な物であって欲しいとは思ってるけどね」


 父の苦言に、マサトはお道化て返す。


「こいつ、減らず口を」


 苦笑交じりに呟くユウジ。本当に不要な物であって欲しいとユウジも思っていた。


「アイシュちゃん。こいつは終始こんな感じだろうから、しっかり手綱を握ってくれ」


 アイシュに向き直り、そう話すユウジの瞳には、どこかいつもと違う光が宿っていた。その瞳に気付き、僅かに驚くアイシュ。

 そのアイシュの手を横からすっと握る母イリス。


「ほんと、こんな子でごめんなさいね~。でもアイシュちゃんなら安心して任せられるから。どうぞよろしくお願いしますね」


 アイシュの手を握ったまま、母イリスもいつもと違う雰囲気で話す。

 表情はいつも通り笑っているが、その引き締められた口元にはどこか真剣な物を感じる。

 全くだらけ切っているマサトは、二人の変化に気付かなかったが、正面から二人を見据えていたアイシュは何かを感じ取ったのだろう。


「はい。分りました。大丈夫。マー君の扱いには慣れてますから」


 そう言って微笑返した。


「大丈夫だよ。お母さん。アイシュお姉ちゃんなら、グータラなお兄ちゃんでもしっかりコントロール出来るって」


 普段なら大抵、こういった雰囲気に不満顔なノイエも、今日は肯定的だ。

 その違った雰囲気さえも、今のマサトには感じられなかった。





 昔と違い、今は二人も年頃を迎えている。流石に同じ部屋で寝泊まりというのは、いくら許嫁でも不謹慎すぎるのは明白。しかしアイシュは、マサトと同じ部屋で寝る事を告げた。


「はあ!?」


 これにはマサトも奇声を上げて驚くしかなかった。ただ、アイシュが告げた次の言葉に、安心と落胆が半々で押し寄せて来る事になるのだが。


「ノイエちゃんも一緒に寝ましょ?久しぶりに三人で。ね?」


 それこそ昔は、何をするにも三人だった。勿論寝泊まりも三人同じ部屋で。

 しかし成長すればそうはいかない。もっとも、妹ノイエは未だに隙あらばマサトの部屋で寝ようとする。ノイエの場合は、同じベッドで寝ようとするから質が悪い。


「なんで?兄妹なんだからいいじゃない」


 ケロッとして言い放つ妹を、何度言いくるめたかわからない程だ。もっとも、そのうち何度かは失敗しているのだが。

 だからアイシュは知らないが、ノイエとはあまり久しぶりと言う感覚は無い。だが、三人でとなるとやはり久しぶりとなるのだろう。

 ノイエもそれが懐かしくもあり、新鮮にも感じたのだろう。即答で了承した。





 夜も深まり、三人はマサトの部屋で枕を並べる事となった。と言っても、本当に枕を並べて眠るという事は無い。マサトは自分のベッドを二人に譲って、自分の部屋にも拘らず床で寝ている。


「あ、お兄ちゃんは床の上ね」


 至極当然といった様にノイエが言った事がそのまま適用された。もっとも、マサトの方も何となくそうなる事は解っていた。もし、二人が床で寝ると言い出しても、マサトの方がベッドで寝る事を勧めていただろう。アイシュとノイエが布団に潜り込むのを確認して、マサトが電気を消す。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


「お兄ちゃん、おやすみ~」


と、お決まりの挨拶を交わし消灯した。

 しんっと静まり返る部屋。しかし三人とも眠っている気配はない。

 泊まる事と三人一緒に寝る事を提案したのはアイシュだ。となれば、何か話があるに間違いない。

 夜の暗闇が部屋を支配して、たっぷり十分以上の時間が流れた。

 町の中である以上、真の闇になる事は無い。カーテンを引いていても、窓はぼんやりと明るく縁取っている。それが月明りなのか、町明かりなのかはわからないが。


「マー君、ノイエちゃん。起きてるよね?」


 意を決したという感じでアイシュが口火を切る。


「ああ」


「うん。起きてる」


 マサトとノイエの答えが暗闇から帰ってくるのを確認してアイシュが続ける。


「二人に話しておきたい事と、今後の事で聞きたかったの」


「話?私達に?」


 マサトには何となく想像が付いていたので驚きは無かったが、ノイエにはこんな夜中に聞かされる話の見当がつかず、アイシュの言葉に疑問を投げかける。


「マー君にはもう解ってるよね?さっきの事なんだけど」


「さっきの事~?」


 アイシュの言葉尻にある「さっきの事」に反応を示すノイエ。当然マサトには、ノイエが考えるあらゆる事ではない事が解っていた。アイシュの話とは、マサトの中にいるユファについてだ。


「マー君は解ってると思うから、まずノイエちゃんに話しておくね」


 そういってアイシュは先程見た、目の前で起こった事をノイエに話して聞かせる。

 その間、マサトもノイエも黙ったままだ。

 ノイエにとっては突飛な話以外の何物でもない。本来なら一笑に付す程非現実的な話だ。それがマサトの話なら、適当にあしらって早々に眠っていただろう。

 しかしアイシュから、わざわざ三人になって、しかもこんな時間に切り出された話である。なるだけ受け入れる様、ノイエは自分なりに理解する様努力した。

 一通りアイシュの話が終わる。


「ねぇ、マー君。今はその、中の人はどうしてるの?」


「ああ。それがユファを感じるやり方がまだ解らないんだよ。聞いてるのか寝てるのか、どこにいるのかもわからん」


 ユファの話では、今も間違いなくマサトの中に居て魔力の回復を図っている筈だ。

 そして、彼が見聞きした事は彼女にも伝わる筈である。もっとも今彼女が起きていればの話だが。


「お兄ちゃんの中…感じる…」


 そしてノイエは、マサトの言葉に含まれた一言に反応している。アイシュはその呟きを華麗にスルーした。


「とりあえず今日はマー君に何が起きたか、ノイエちゃんにも知ってて貰おうと思ったの。多分私たち二人だけだと手に負えない事が出て来るから」


「うん。わかった。ちょっと信じられないけど、お兄ちゃんとアイシュお姉ちゃんが言うなら多分ほんとの事なんだよね。私もそのつもりで覚えとく~。でも…」


 そこで一旦言葉を切ったノイエの声質が、次の言葉では一変した。


「その、ユファって人?お兄ちゃんの中へ、私の断りなく入り込むなんて。一度会ってみたいな~。ちゃんと挨拶、しなくちゃね」


 ビキキッという音が聞こえて、空間にヒビでも入りそうな程言霊を込めてノイエは呟く。

 マサトとアイシュは身動ぎ出来なくなった。言霊の効果ではない。そこに込められたノイエの怒気に一瞬だけ金縛りとなったのだ。


「こ…」


 アイシュがなんとか絞り出した声は裏返っていた。


「これからは何があるかわからないけど、何かあったらその時は三人で対処しましょう。だからノイエちゃんにも協力して欲しいの」


 隣で天井を見つめて怒り状態にあるノイエにアイシュが語りかける。その声に漸く我を取り戻したノイエ。


「うん。勿論だよ。出来れば早く出て行ってもらいたいし、その対策も考えなくちゃね」


 ウフフッと笑いながらそう言ったノイエの笑いは乾いている。ノイエは間違いなく、ユファを追い出す方向で行動するつもりだった。安易に移動できない事も、魔力の回復に時間がかかる事もアイシュはちゃんと説明した筈なのだが、ノイエには全く考慮するつもりは無いらしい。

 マサトにしてみれば、ユファと言う存在を知ってしまった以上、今後全く気にしないという事は出来ないが、今の様に全く反応なければ気にせず生活出来るのではと思っていた。

 そんな事を考えていたマサトだったが、急激に襲ってきた睡魔に抵抗する事無く、考える事をやめて微睡(まどろみ)に身を任せた。





 朝目覚めると、ベッドにはノイエだけが寝ていた。

 割と早めに目が覚めたマサトだったが、それよりも早く起きてアイシュは家に戻ったらしい。隣同士であり、中庭で家が繋がっている両家である。いつでも行き来に支障なく、それは早朝や深夜で女の子一人でも当然問題ない。恐らく登校の準備に戻ったのだろう。

 久しぶりにベッド以外で睡眠を取り、堅い床に寝た事で体が硬くなっているのをほぐす為、マサトは中庭に出た。

 春とは言え、この時期の早朝はまだ随分肌寒い。うっすらともやの掛かった中庭で体を動かすとその肌寒さが逆に心地よく、頭もスッキリと晴れて来る。

 まだ街が動き出すには若干時間があるのだろう。鳥の声以外に聞こえてくる音は殆ど無い。

 マサトはこういう時間が好きだった。

 一通り体をほぐし、ほのかに体が温かくなったところでマサトは道場横に据え置かれている木製のベンチに腰を下ろした。考えるともなしに頭に浮かぶのは、やはり昨日の事だ。

 自分の中にユファという女性がいる。

 そんな非現実的な事を自分一人で言っているのなら、それこそ良い病院を紹介してもらうレベルだっただろうが、アイシュも見て話もしている。

 そして話をややこしくしているのが、ユファと言う女性は自分達と同じ位の年頃で美少女だという事だ。

 当然、許嫁であるアイシュも、妹のノイエも認めていない。認める云々の話ではないと言った所で、そう言うのは感情の問題らしく、素直に受け入れる事は困難なのだろう。

 問題は今後どうするか、どうなるかと言う事だろう。

 確か彼女は、こちらの見聞きしている事を把握しているとの事だった。つまり隠し事は不可能と言う事だ。今後何をするにしても彼女に見られ、聞かれている事が前提となる。

 そう考えると、彼女達でなくても気が滅入って来た。今更ながらにトンデモ設定なのだと後悔した。しかし今更出て行けとも言い難い雰囲気だ。

 ユファはこちらに干渉する事は無いと言った。

 それは有難い事だが、それでも見られている、聞かれていると考えただけで気持ちの良い物ではない。それはアイシュやノイエも同じ事だろう。

 得体の知れない誰かに見られている感覚を、いつか忘れる事が出来るのだろうかとマサトは取り留めも無く考えていた。


「お兄ちゃん、おはよ~。すぐにご飯出来るって~」


 起きて来たノイエが中庭にマサトを見止め、彼に声をかけて来た事で、随分と時間が立っている事に気付いた。すっかり周囲は明るく、気温も随分上昇しているのが感じられる。


「おはよう、ノイエ。すぐに行くよ」


 そう答えて、マサトはノイエの方に歩き出した。





 マサト達が通うアーヴェント高校は、バスを三十分程乗った所にある。

 一方ノイエの通うネルフィア中学校はバスの一駅隣に位置しており、正直な所バスを使わなくても徒歩で十分通学できる距離である。

 それでもノイエは毎朝、必ずバスに乗り登校する。マサトと共に。

 バスには大型の蓄魔石が使用され、一日中同じ所を巡回している。

 蓄魔石には、多量の魔力が蓄えられており、巡回ルートも記録されている。

 停留所にある搭乗器に手を翳して魔力を送り込むか魔導カードをかざすとバスが停車し、バスの中で同じ様にすることで発車する。

 動力である魔力が人から無尽蔵に得る事の出来る物である事も相まって、周回バスは無料で使用出来る。とはいえ、たった一駅でもマサトと共に通学したいノイエの心情は相当な物である。

 バス停まで徒歩で二十分の距離。その距離を、今朝は三者三様で歩いている。

 いつもなら和やかに話しているアイシュも、今朝は何か考え込んでいる。

 マサトはそんなアイシュの心情が気になって仕方ないのか気が気でない。

 いつも通りなのはノイエ一人。昨日の話を気にしているのかいないのか、頻りにマサトへ話しかけている。その度に返ってくる生返事に唇を尖らせたりしているが概ねいつも通りだ。


「ねぇ、マー君」


 考えが纏まったのか、ノイエの話が切れたのを見計らって切り出すアイシュ。


「お、おう?」


「中の人、ユファさんだっけ?彼女には外の様子ってどう見えてるんだろ?」


 アイシュにはマサトの中に居るユファがどう過ごしているのか解らない。


「えっと…。確か俺が見聞きしてる事ってのはユファにも伝わるみたいだな。俺の思考とか感情は流石に解らないと言っていたかな」


 正確にはマサトにも解らないのだが、少し聞き知った事を元に答える。


「え!?それって今の会話も聞かれてるって事!?」


 驚いてそう言ったのはノイエだ。


「そうだな。詳しくは本人に聞かないと解らないけど、そう言っていた」


「それって四六時中見られてるのと変わらないじゃない!」


 まるで人ごとの様に言っているマサトの態度に、アイシュがすごい剣幕で詰め寄った。


「そ、そうだな…」


 一気に詰め寄られてタジタジとなるマサト。ノイエも若干引いている。


「それに私達のこれからも見られてるって事じゃないの!?学校での事も、家に居ても、それにその…二人でいても…」


「これからって…。そりゃ、確かにそうだけど…」


「ア、 アイシュお姉ちゃん、落ち着いて」


 最後の方は少し勢いが弱まったが、それでもアイシュの勢いは止まらない。


「そ、そんなの私、耐えられないんだから!」


 昨日の事にも納得の言っていないアイシュは、今この時もユファに聞かれていると思うと感情を押さえられないようだ。


「ちょっと!ユファ!聞こえてるんでしょ!?出てきなさいよ!出てこーい!」


 マサトの両肩を鷲掴みにして前後にガクガクと揺さぶる。


「ちょ…、おち、落ち着け、アイシュ」


「アイシュお姉ちゃん!ちょっと落ち着こうよ!」


 通学途中。学校へ通学する為にバス停へ向かう道程には、マサト達以外にも少なからず学生が歩いている。そんな学生達は、朝から賑やかなマサト達に視線を送っている。

 しかも最後の方はどう見ても痴話喧嘩を起こしたマサトとアイシュをノイエが宥めるという図式にしか見えない。その事に気付いたのか、ハッとしてマサトから手を離すアイシュ。


「と、とにかくその話は家に戻ってからだ。それでいいよな?」


マサトはアイシュとノイエにそう告げた。アイシュは顔を真っ赤にして、ノイエはため息交じりに頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る