第5話
「あ、いらっしゃい」
家のドアを勝手に開けたとき、共弥はインスタントの焼きそばを食べていた。
優しい草食動物のような外見のわりに、彼は、脂っこいものとか身体に悪いものが大好きだ。ノックもせずドアを開けても怒らないのは、こういう不作法な友達が多いからだろう。チャイムは相変わらず、壊れたまんまだし。
「共弥、私とうとう、あの部屋にひとりぼっちになるの」
ゆめは、悠利から告げられた別れのことを彼に話した。
「ときどき、遊びに行かせてもらったらいいじゃない。絶交って言われたわけじゃないんでしょ」
共弥は焼きそばをすすりながら穏やかに言う。
「そういう問題じゃないんだよ」
ゆめは、頬をふくらませた。
「いっしょに住んでないとごはん作ってあげられないし、ベッドに夜中侵入したりもできないし。料理にこっそり血とか混ぜて、悠ちゃんの身体に入る楽しみがなくなっちゃうじゃん」
ぶ、とここで共弥が、咀嚼していたものを噴き出しそうになった。
「……そんなことしてたの」
呆れているのだろう。
「今ごろ何言ってんの」
共弥は、美人のゆめを何となく美化してとらえているから、本物よりはるかに清らかなゆめしか知らないのだ。おめでたいというか、アホなのだろう。きれいなものが中身までぜんぶきれいとは限らないのに。一生、有害な化学物質でできた安い輸入食材でも食べてればいい。
ゆめは彼のそういうところを哀れんでいて、現実を見せてあげないと、と使命感を覚えていたりしたから、わざと彼の部屋に忘れ物をしたことがある。ファンシーな空色のトートバッグ。中に、「天国行きの切符」とマジックで書いた箱を入れておいた。
ゆめのことを知りたい彼は、好奇心でそれを開けたのだろう。ゆめの思惑どおりに。
「ごめん、開けちゃった」
ゆめが取りに行ったとき、自分から申し訳なさそうに謝ってくれた。
「見ぃーたーなぁー」
ここぞとばかりに、口角をぐいい、と上げてゆめは笑った。
箱の中身は、ライトスカイブルーの、男性器を模したバイブだったのだ。スイッチを押すと気味悪くぐねぐね動くけれど、どこか美しくて芸術的で、これ単独でもじゅうぶんすぎるほど艶めかしい。ゆめはこのバイブを、実用ではなく観賞用として、名前をつけてだいじにしていた。ときどき、エサとして、はちみつをたっぷり混ぜたクッキーを焼いてあげている。
「べつに、悠ちゃんにおちんちん生えてたらこんなんかなとか、妄想してたりしてないからね!」
「……してるんでしょ」
あのときの共弥は確かにドン引きしていた気がするけど、何事もなかったようにその後もつきあってくれるので、忘れっぽい性格なのだろう。ちゃんと学習するように、何度も何度も教育してあげなくちゃ。家に入れてくれなくならない程度に。
「悠利さん以外の人のことは、考えられない?」
しばらくして、ソースで汚れた口元をぬぐいながら、彼はゆめを見つめて聞いた。
何がいいたいのか、分からないけど、睫毛の長い大きな瞳でじっと見ている。
「隣に住んでる幸ちゃんの鼻毛のこととかだったら、ときどき考えるよ」
ゆめはこの空気がいやで、はぐらかすように下品なことを言った。萎えるかと思ったのに、共弥はひるまなかった。
「よかったらまた、千年の眠りごっこ、しない?」
急に話を変えて、奥に敷きっぱなしの布団を指さす。
「千年経って、悠利さんのこと忘れるまで、いっしょに寝よう」
「……無理だよ」
口では否定したけど、ゆめは彼についていった。
幼稚園のころのように、同じ布団で、共弥と横になった。
もちろん、当時のように無邪気に眠っただけではなくて、「寝た」とオブラートに包んでするような行為を、初めて二人でしたのだけど。
共弥は、海が好きだった。
たくましくて豪快な男とは違う意味で、海の似合う人だった。砂浜で石や棒きれを拾っては、口元に微笑を浮かべて、海に投げ込んでいる。決して、荒々しくない。子どもみたいだ。
「あーあ、共弥のこと好きだったら、楽だっただろうな。最初からずっと」
白いワンピースを着ているゆめは、砂浜へ続く階段に座り込んだまま、声に出して言った。
一夜をともにした後、先に目を覚ましたゆめが彼を揺り起こして、「海に行かないと死んじゃう」といつもみたいに脅したのだ。
共弥は特に驚きもせず服を着て、バイクの後ろに乗せて連れてきてくれた。
幸児といても恵介といても、悠利といてさえ、希望が叶うことはほとんどなかったから、あっさりわがままを聞いてくれる彼に、ゆめは少しびっくりした。それがじんわりした幸福感につながったことは、陳腐すぎるのでぜったいに認めたくなかった。だから今、ふてくされた様子で階段に腰を下ろし、ぼんやり共弥の後ろ姿をながめているのだ。
うっかりセックスしてしまったけど、彼を好きかと問われたら、好きじゃないような気がした。かといって、キライではないけれど、なんだか、足りない。悠利みたいに、愛を受けとめながらも邪険に扱ってくれる人じゃないと、ドキドキしない。共弥にはこれからも、傷ついたときのゆめを肯定して迎えてくれる、ゲームの「回復スポット」みたいな存在でいてほしい。
彼の後ろ姿をじっと見ていると、そういう都合のいい考えばかりが沸いてきた。
ゆめはすっと立って、サンダルのままざばざば海に入る。
「どうかしたの」
共弥がそっこーでかまってくれた。
ヤラせてあげたから、余計甘くなっているのかも。
「落としちゃったの」
ゆめは水の中に何かを探すふりをした。
「何を?」
「人工の、模造品とは思えないほど、美しく白く硬いもの」
ゆめの言動が意味不明なのはいつものことだ。共弥は無言で探し始めた。水の冷たい時期なのに、膝までつかる場所で、水面に顔を近づけて。
何だと思ったのかは知らないが、一生懸命探してくれた。ゆめは、水から上がって、階段のところに戻り、カニと遊んだりして過ごした。
岩の間までくまなく探して、二時間近く経ったころ、あまりに手がかりがないので、困り果てたのか、共弥は上がってきた。
「あの、具体的に、どういうものなの? パールのアクセサリーかなと思って、探してるんだけど」
薄い口唇は青ざめて、脚には鳥肌が立っている。
気の毒というより、バカだなと思いながら、ゆめは教えてあげた。
「あのね、入れ歯」
「え?」
「落としたばかりに、愛を囁けなくなって、絶望して自殺するの」
「何の話、それ」
「前世」
「…………」
共弥が無言になるのは、怒りを懸命に抑え込んでいるときだ。
幸児や恵介だったら、ぶちキレられていただろう。
睨まれたけれど、ゆめは知らん顔をしていた。
「帰ろう」
しばらくして、ようやく怒りを拡散させたらしい共弥が言う。
「うん、パフェ食べたいな」
「ファミレス寄る?」
うなずきながら、悠ちゃんがこんなに優しかったら神様を信じてもいいのにな、とゆめは思う。頭の中で共弥を悠利に変換してみようとするけれど、アイコラ職人じゃないので、うまくできなかった。
ゆめが二人の部屋に戻ったら、悠利はすでに帰ってきていた。
「おかえり」
少し疲れているように見えた。おなかが大きいから、ちょっと動くだけでもつらいのだろうけど、それに加えて、精神的に疲労しているような感じだ。
「どっか行ってたの?」
「うん。共弥と、海」
「海か。いいな」
珍しく、悠利が話に乗ってきてくれた。
「子ども産んだら、時間見つけていっしょにいこうよ」
「いやよ、アンタとなんか」
どさくさに紛れて誘ったら拒否されたけど、その声にいつもの覇気がなかった。
「悠ちゃん、何かあったの?」
うつむいて暗い顔をしている悠利なんて、彼女じゃないみたいだ。
「べつに、なんでもない」
言いながら、泣きそうな顔をしている。
妊婦は情緒不安定になりがちらしいけれど、これはつけ込むチャンスだったりするのだろうか。
「隠さないでよ。ずっといっしょに住んでたのに。私だって、たまには人の話まじめに聞いたりするんだよ」
ダメ元で言ったら、悠利は不審げな顔をして、ゆめをじっと見た。
そのまま少しにらめっこしたけど、結局打ち明けてくれる気にはならなかったようで、悠利はシャワーを浴びに行った。もう寝るつもりらしい。
この間から、自分の荷物を段ボールに詰める作業をしていたけど、今日はやらないみたいだ。「身体にさわるし、代わりにやろうか」とゆめが申し出ても、却下される。「アンタに頼むと、何かいろいろなくなりそうだから」と。パンツやブラを盗られる、と思ったのだろうか。やる気ならとっくにそうしているだろうから、今更そんなことはしないけど。
「おやすみ」
短い入浴の後、眠くないのに身体を横たえる悠利に言って、ゆめは彼女の悲しみの理由に思いを馳せる。近くにいるけど、芸能人みたいに遠い。アイドルの内面を妄想するみたいに、意味のない行為をしている自覚はちょっとだけあった。
好きなアイドルの熱愛が破局に終わるように願うみたいに、ゆめは祈る。
「悠ちゃんと坂井が別れますように」
そのとき、夜空のどこか見えないところでは、流れ星が瞬いていたかもしれなかった。
翌日の昼近くになってもなかなか起きてこない悠利は、どこか具合が悪そうに見えた。ゆめは、これさいわいとナース服に着替えて、悠利のベッドに潜り込む。
「お熱はかりましょうか~」
「もう、やめて、バカ!」
悠利は怒っているけど、やっぱり声に力が入っていない。追い出す気力もないのだろう。
「何か食べたいものない?」
「ない」
即答されて、ちょっと心が折れそうになるけど、この程度でめげるゆめではない。
「ねぇ、坂井さんと何かあったの?」
耳元に口唇を寄せて、囁くように問う。
「うるさいわね、ほっといて」
悠利は、反抗期の中学生のように背を向けてしまった。
気を遣って、うどんを作ってあげたら、食べないかと思ったけど、起きてきて食べてくれた。ゆめの唾液が入っていたのには、まったく気づかない様子だった。
おなかの赤ちゃんにまで自分の体液が届くかもしれない、と思うと、ゆめは、天体望遠鏡で美しい星をながめているときのようにうっとりした。
何万光年のかなたまで飛んでいきそうになったのを、邪魔するようにチャイムが鳴る。
「悠利ー」
隣の幸児と、その後輩の恵介だった。
「なぁにい」
ゆめがドアを開けると、二人は一瞬ぎょっとしたけれど、すぐに元の顔に戻る。ナース服なんてとっくに、見慣れてしまったに違いなかった。
「今日、悠利さんの引っ越し、手伝う予定だったんだけど」
恵介が、ラフなTシャツ姿の理由を述べる。
「え、今日引っ越すの?」
「あぁ。おまえがいない間にちゃっちゃとって、前から計画してたのに、何でいるんだよ」
そりゃあ、調子の悪そうな悠利を見て、講義をサボることに決めたからだけど。
「あぁ……」
ここでようやく、悠利が奥からよろよろ出てきた。
「そういや、そうだったわ。ごめんね、二人とも」
何でもきっちり手帳に書いているくせに、今回はだいじなことを忘れてしまっていたらしい。肝心のところで、詰めが甘い悠ちゃんだ。
「……あのね、やっぱり、今日じゃなくてよくなったの」
言いにくそうに、二人に告げる。
幸児も恵介も、「は?」という顔をしたが、家が近くなので、不機嫌になったりしなかった。
「ゆめ、何か出してあげて」
「はーい」
ゆめは、コーヒーとバームクーヘンを、細工なしで二人ぶん用意する。悠利はいらないと言ったし、ゆめは紅茶だけでつきあうことにした。
「じゃあまた、べつの日にこようか」
少し話した後、予定を尋ねた恵介に、悠利は首を振った。
「先の予定、今ちょっと分からないから」
「あぁ、そっか。もういつ生まれるかわかんないもんな。出産してからでもいいよ、俺はべつに」
幸児はそわそわ、時折外を見ている。たぶん、ニコチンが切れてきたから部屋に戻りたいのだ。
本当は、もっと早く引っ越しているはずだったのに、段取りが得意のはずの悠利が、この件に関してだけは先送りしていたため、明確な予定が立てられない。業者に頼むほど運ぶものはないし、大物家具はぜんぶゆめのために残していくからと、引っ越し代をケチって知人頼みなのは、彼女らしいけど。
「そうね。また、大丈夫なときにお願いするわ。今日は、ごめんね、本当」
悠利が謝って、この日は解散になった。
そんなことがあるわけないけど、このまま、悠利がここに住み続けてくれたら、どんなにいいだろう。
それから数日後、少し元気になった悠利は、坂井のところに行った。話をしなきゃいけないらしい。予定日も近いのに、何かゴタゴタしている雰囲気を、ゆめはうっすら感じ取っていた。
悠利は、ゆめのことなど信頼していないのか、坂井との間の話をひとかけらもこぼしてくれない。秘密主義の女優か何かみたいだ。
その代わり、二人きりになったとき、おなかの音を聞かせてくれた。悠利の中に命がいる事実を改めて突きつけられて、ゆめの動悸は激しくなった。
たまらなくなって、暴言を吐く。
「近いうちに生まれてくるこいつは、悠ちゃんの愛を一身に受けて育つの? ずるい、そんなの。いつか、悠ちゃんが見てないときに殺してやる」
さっと、悠利の顔色が変わる。
冗談でも、スルーされないことはある。
「ゆめ」
「嘘。おめでとう、悠ちゃん。今ごろだけど。どうせ可愛い子が生まれるんでしょ。女の子だったら、悠ちゃんに似た、性格のねじ曲がったビッチになりますように」
ゆめは、悠利がかつて、奔放に男を弄んでいたことを知っている。悠利はふんと鼻で笑ってスルーした。
「そういやアンタ、進路どうするの? 就職活動、ぜんぜんしてないじゃない」
久々にお節介を発揮する悠利を、ゆめは鼻歌ではぐらかした。
「私ね、なりたいものとか、特にないの。働ける気も、しないし」
かといって、幸ちゃんみたいにスリリングな毎日を楽しむ器用さもない。
「小さいころはね、ママが家で売春してたから。家で仕事してるの見て、私も大きくなったらああいうふうにするんだって漠然と思ってた」
けれど、この将来の夢を披露したら、保守的で差別主義者な幼稚園の先生たちには怒られそうだったから、表向きは「死神になりたい」ということにしていた。ホラービデオを模してやけにリアルな絵も描いていたから、共弥以外の子はおびえて、誰も近寄ってこなかった。
「でもやっぱり、私には無理だったの」
死神にも売春婦にもなれないまま、ゆめは偽物の傷を創るアートメイクを習い続けているが、その能力を生かした業界に就職するバイタリティはない。この調子だと、ニートになってしまいそうだ。
「バイトでもいいから、とにかく仕事はしなきゃダメよ」
もうじき母親になる悠利は、予行演習のように、お母さんみたいなお説教をする。そばにいてずっと叱ってくれたら、怠け者のゆめでも、短時間のレジうちくらいならするようになるかもしれなかった。
「悠ちゃんは、坂井さんの奥さんになって幸せに暮らすの?」
皮肉まじりに尋ねたら、悠利は眉を寄せ、考え込んでいるような微妙な顔をした。
「あたしは、家にこもりっきりの奥さんなんかにならないで、ファッション関係の仕事するの」
きっぱり言ったその言葉は、もしかしたら、ここ最近の憂鬱そうな様子に関係があるのかもしれなかった。
信じられないけれど、呪いはたまに、本当に効くことがある。
子どもが生まれる直前になって、悠利と坂井は離婚した。結婚式を挙げて、二ヶ月も経たないうちの破局だった。さすがのゆめもちょっとびっくりしたけれど、悠利は「話し合って決めたから」と淡々としていた。養育費だけはしっかりもらうことになっているらしかった。
「これから出産するのに、シングルマザーになるのかぁ、悠利さん」
ベッドの中で、彼女と直接の関わりはない共弥がのんびりと言う。奇行ばかりのゆめに慣れているので、こういった衝撃的な出来事にも反応は薄かった。他人事だからかもしれないが。
「坂井なんかより、ゆめといるほうがずっと幸せだってやっと気がついたんだよ」
とっくに服を着ているゆめは、共弥のためにカレーを作ってあげながら言う。海へ行った日から、今日みたいに、たびたび彼の家を訪れて、セックスしていた。
共弥は、ゆめがおかしなことを言ったりしたりしても、怒ったり追い出したりしない男だった。ヤレればいい、と思っていたのかもしれないし、何もかも乗り越えてゆめを愛する勇気のある男なのかもしれない。
そのくらい神経がずぶとくなければ、売れない音楽を頼りにフリーターなんて続けられないだろうし。この間小さいころのことを話していたとき、父親がそのスジの人で、鉄砲の弾が飛び交う中で遊んでいたこともあった、と言っていたから、生育環境のせいもあるだろう。
ゆめは、彼を悠利よりも優先するようになることはこの先もないだろうけど、相手の穏やかな愛に埋もれるのは好きだった。海の底にもぐって、静かにまどろんでいるような心地になる。思わずイルカの鳴き真似をしても、共弥はひるまずに、ゆめの髪を優しく撫でてくれた。
できあがったカレーを、何の細工もせずに器に盛り、上半身裸のまま食卓についた彼の前に置いてあげる。
「悠ちゃんが出産するとき、家族のふりして立ち会う方法、ないかな」
「無理でしょ。何考えてるの」
「だって、いつもつんとしてる悠ちゃんが、痛いって泣きわめいてるとこ、見たいもん」
「たぶん、先回りして、ぜったい中入れないように手配してるだろうね」
共弥は、ゆめのドリームをことごとく打ち壊してくれる。
「生まれてすぐぐらいに、『この泥棒猫! 彼の子を生むのは私だったのよぉ!』って病院に乗り込んでいこうかな」
「バカなことすんの、やめなよ」
悠利さん、おかしくなっちゃうよ。と、いちいち律儀に忠告してくるのも、ちょっとウザい。
「共弥には分かんないよ」
「分かるよ」
俺だって、そういう狂気っぽいとこあるもん。好きな人とするときは、ゴムにちっちゃいちっちゃい穴あけて、いろいろ祈ったりするんだ。食事に血を混ぜたりする君と、同じだよ。
柔らかく平然と笑う彼を見ていたら、ふいに吐き気みたいなのがこみあげてきて、ゆめは初めて、他人の家のトイレで吐いた。
二週間後、悠利は帝王切開で女の子を出産した。こんなときでもお母さんは来なくて、彼女は淡々と一人で支度し、一人で産んで戻ってきた。さすがに何もかも一人ではかわいそうだから、恵介が車で迎えに行き、幸児がしばらく、世話をしにきてくれた。援助してくれているカノジョの、監視の目を縫って。
「ありがとう、助かるわ。ゆめじゃ役に立たないこともたくさんあるし、余計なことしないでくれるから、うれしい」
悠利は、器用な幸児に心底感謝していた。
「ひどいよ悠ちゃん、子どもがゆめにちっとも似てないからって八つ当たりして」
「はぁ、何言ってんの、アンタ」
ゆめにだけ冷たいのは、ちっとも変わらない。
出産直前に離婚して、多少は不安だっただろうが、それをほとんど表に出さないのは、彼女の強さかもしれなかった。
あぁーん、とそこでタイミング悪く、赤ん坊が声を張り上げる。生きるための行動だからしかたないけど、ゆめにとっては新しく強力なライバルだ。
「紫(し)織(おり)ちゃーん、いいこと教えたげるー、セ・ッ・ク・スぅ」
おしめを換えてもらって泣きやんだころを見計らって、ゆめは、純粋無垢な彼女の最初のおしゃべりに役立つように、いらないことを吹き込む。
「いいかげんにして」
悠利には怒られるけれど、これだけ毎日腹を立てても出ていかないのは、やっぱり、心のどこかで、ゆめと暮らしたいと思ってくれているからかもしれない。
「そういやアンタ、共弥くんとはどうなってるの?」
最近妙に距離が近くて頻繁に会っているからか、何か気にしているらしい悠利がゆめに尋ねる。
「うーん、今んとこセフレ」
キッチンで、料理している幸児がぷっと噴いたのが聞こえた。
なんだ、とちょっとがっかりしている様子の悠利は、共弥にゆめを押しつけようと考えていたのかもしれない。
そうは問屋がおろさない、というものだ。
「神に誓って、ゆめはこれからも、悠ちゃんだけの守護霊さまだよ」
「……チェンジ」
「ひどいー」
子どもを間に、ときには付近の男たちも巻き込んで言い合いはするけれど、悠利とゆめは、腐れ縁のままこの部屋をシェアし続けるような気がする。
たぶん、卒業しても。
他に行くところもないし、あったってなんだかんだ理由をつけて、二人とも結局出ていかないのだから。
「幸児くんの料理は、安心できるわ」
ゆめの前で、出されたものに手を合わせて、この世のどこにも存在しない安心・安全に感謝している悠利は、「やるな」と言われたことをやるお笑い芸人に前フリしているようなものだ。
「ギョウザ、ポン酢かける?」
「うん」
ゆめはさりげなく親切に、冷蔵庫からポン酢を出してきてあげた。
「ありがとう」
悠利はそれを、適量皿に注いで、ギョウザをたっぷり浸し、口に入れる。
「おいしい」
「そっか、よかった」
無邪気に喜んでいる幸児と恵介の横で、ゆめもにやっと笑った。
だって、そのポン酢は、「今日の幸ちゃんならたぶんギョウザを作る」と勘を働かせたゆめが、こっそり唾液を混ぜておいたやつなんだから。
終
マジキチ美女の食卓 池崎心渉って書いていけざきあいる☆ @reisaab
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