第4話



 場所を変えて、客の少ないカフェの個室に来た三人は、重苦しい話の続きを始めた。酒のある店にしなかったのは、酔ったゆめがますますおかしくなってはいけないから、という坂井と悠利の賢明な判断だろう。

 レストランでは饒舌だったゆめは、カフェではだんまりを貫いていた。罪人にだって、黙秘権はあるのだ。

「ゆめ」

 悠利が、怒りを押し殺して作ったに違いない冷静な声で、話し始める。何、という代わりに顔を上げたゆめに、彼女は優しく言った。

「明日、病院行こう」

 なんだか、気の毒なものを見る目をしていた。蔑むような目でちらっと見ることはよくあったけど、今日はちょっと、その度合いが違う。

 坂井も隣で、ごく浅くうなずいていた。

 さっきのゆめの言動が狂言芝居だと、見抜いていたのかもしれない。いやな二人だ。いやな奴同士でお似合いだけど。生まれてくる子どもだって、ろくな人間に育たないに違いない。そうじゃなくたって、ゆめが悪いことをたくさん吹き込んでやるつもりだけど。

「私は妊娠してないよ」

 悠ちゃんがアソコに器具を突っ込まれたり指でグリグリされてる現場にだって居合わせたくない、と言うと、悠利はあきれたように首を振った。

「産婦人科じゃなくて、心の病院よ。べつにおかしなことじゃないわ。うつとか不眠症とかで、みんな行ってるから、大丈夫」

 仲間をクスリに誘うときの不良みたいな言い方をする。

「やだ、行かない」

「行くの」

「ゆめさん、僕からも、お願いだから。だいじな時期の彼女に、無理させないであげてほしい」

 坂井にまで頭を下げられて、ゆめは急に、悪者になったような気持ちになる。「だいじな時期」なんて、ぜったい破ってはいけない盾みたいなフレーズを振りかざされるのもしゃくだった。

「私、ぜったいに病気じゃないよ」

 繰り返し繰り返し説得されて、とうとう折れたゆめは、行くだけ行ってみる約束をした。お医者さんだって人間だから、ゆめの言うことが正しいのを分かってくれるだろうし、分からず屋ならまた、黙秘権に甘えればいのだ。



 翌日、病院に行く約束の時間の前に、ゆめは一人でちょっとだけ、隣の幸ちゃんのところに寄った。

 こないだはちょっと気まずい別れ方をしてしまったけど、幸児はすっかり忘れているかのように、普通に迎えてくれた。

こういうさっぱりした性格じゃないと、ゆめと関わるのは難しいだろう。ゆめが残していった髪の毛も、カノジョには見つからなかったようで、変わらず援助を受け続けているみたいだった。

「なんか用?」

 煙草を吸いながら訊かれて、ゆめは首を振った。

「顔見に来ただけなの、今から、病院行くから」

「どっか悪いの?」

「ぜんぜん。悪いとこないのに病院行かされそうなの。悠ちゃんに」

「ふうん。なんてとこ?」

「高本(たかもと)メンタルクリニック」

「あぁ、そりゃ行ったほうがいいわ」

 むしろ措置入院が必要だろ、と幸児は難しい言葉を使った。

「入院なんかしないもん。睡眠薬もらってきて、幸ちゃんのハッスルナイトに一服もって邪魔してやる」

『眠り姫』に出てくる邪悪な妖精のように捨てぜりふを吐いて、ゆめは病院へ向かった。

 監視や付き添いがなくても律儀に時間どおり行くのは、悠利のいうことなら聞くようにプログラミングされている身体のせいかもしれない。

 高本メンタルクリニックは、小さいけれど明るい印象で、一歩入るとヒーリング音楽が聞こえてきた。先生が優しくてよく話を聞いてくれると、患者からも評判がよく、新聞や雑誌などから取材がくることも多いらしい。いちばんいいところを、悠利はわざわざ調べて探してくれたのだろう。

(やっぱり、愛されてる)

 ビョーキだと思われているらしいのは、この際忘れることにする。

 待合室にいる人たちも、ごく普通の印象で、穏やかに雑誌を読んでいたりして、重い空気が立ちこめているなんてことはなかった。奇声を発したり、ナイフを出して暴れている人なんかももちろんいない。

 しばらく漫画を読みながら待っていたら、診察券の番号で呼ばれた。プライバシーへの配慮らしい。

 ゆめが診察室のドアを開けると、眼鏡をかけた温厚そうな中年の男性医師が、にっこり微笑んで迎えてくれた。

「こんにちは」

 まず挨拶して、椅子に腰を下ろす。

「はじめまして。今日は、どうしたのかな」

「どうもしません」

 にこっとしかえして、ゆめは率直に答えた。精神科医の先生は、こういう患者には慣れているのか、怒らずに「そう」とうなずく。カルテはまだ白い。

「何か話したいことはある?」

「しいていうなら」

 この人ならのろけでも何でも聞いてくれそうだから、ゆめは髪をいじりながら話してあげることにした。

「あのね、同居してる悠ちゃんの匂いをかぐと、勃起するみたいな気持ちになっちゃって、いっぱいオナニーしちゃうの」

 子どもみたいな口調でとんでもないことを打ち明ける。悠利がそばにいたら、間違いなく外に引きずりだされていただろう。ついてこなかった悠ちゃんが悪い。

「それで」

 医師は、あまり驚いた顔もせずに続きを促した。実はサイボーグなのかもしれない。ストレス社会に翻弄される現代人のために開発された。

「あのね、こないだもオカズにしてたら悠ちゃんに見つかって怒られた」

 バレないように、悠利がシャワーを浴びている間にしていたのに、思ったより早く出てきたのだ。

悠利が髪をとかしているブラシの柄の部分を拝借していたのを見られたから、ものすごい剣幕で叱られた。本気で怒ったときの悠ちゃんは、肩が小さく震えたりして、小動物っぽくて可愛い。 

「もうおさまったけど、つわりのときなんか、吐いたものまで愛しいって感じだったの。具合悪くても、私の作ったものはちゃんと食べてくれたし」

「そう。悠ちゃんというのは、お友達なの?」

 興味を持ってくれたから、調子に乗ってよけいに話したくなる。

「向こうはどう思ってるか知らないけど、私にとっては友達じゃないの。好きな人なの。単純に恋人になりたいっていうんじゃなくて、体内に吸収合併しちゃいたいみたいな」

 医者はここで、カルテに何事か書き留めた。

「吸収合併、ねぇ。そのために相手を殺したいとか、思うことはある?」

「ありません」

 ゆめはいい子ぶっておいた。

「普通に、いっしょに生きていきたい」

 ゆめのいう「普通」は、悠利にとっては普通ではないだろうが。

「つわり、と言ったけど、悠ちゃんは、妊娠してるのかな?」

「うん。坂井に突っ込まれたから、そういう状態になっちゃって。私は信じたくないけど、もうじき結婚するとか」

 言葉にしてみたら、いやでも事実が認識されて、ゆめの瞳は潤んできた。

「だいじなお友達を、男の人にとられちゃうみたいに感じてるのかな」

 そっとティッシュを渡してくれる医師はたぶん、お人好しだ。

想像だけど、この人にはたぶん、適齢期でお見合い結婚した物静かな奥さんがいて、そこそこ勉強する地味な顔の子どもが二人くらいいるのだろう。へんに革命を起こそうとするような人間は、三等親以内にはぜったいいなくて、きっとみんな、お正月とかに集まるのをだいじにしてる。

(そして選挙のたびに、特に何も考えずに与党に投票するの!)

 ゆめはぷふっと噴き出しそうになった。涙はすっと引っ込んで、気持ちが凪いでいる。哀れみと、羨望が淡く入り交じった状態で。

「先生、私はどこかおかしいの?」

 できるだけ不安そうな顔で尋ねたら、医師は首を振った。

「受け答えもちゃんとできてるし、おかしくなんかないよ。好きな人が結婚してしまったら、少なからず動揺するものだしね。寝られないとか、食べられないとかでは、ないんでしょう?」

「ええ。あ、でも、睡眠薬はちょっとだけほしいです」

 幸ちゃんに「トリックオアトリート」するために。

 診察はそれで終わって、特に病名とかもつけられず、「また何かあったらおいで」ということになった。

 メンタルクリニックなんて、ちょろいもんだ。

ゆめは、簡単にはカテゴライズできないタイプの病人かもしれなかったけど、自傷・他害しそうに見えなかったのであっさり解放された。悠利にとっては、現状でもじゅうぶん迷惑な存在であることなんか見抜かれなかった。

 ストーカーやロリコン殺人犯が、精神病院に通っていたにもかかわらず犯罪を未然に防がれなかった理由も、なんとなく分かる気がする。この国は、ゆめのような、常人には理解されないタイプのキ○ガイにとって、非常に生きやすい。

 ゆめは何事もなかったかのように睡眠薬だけ受け取って、悠ちゃんの帰ってくるアパートに戻った。

(今夜は、トマトの赤いスープにしよう)

 二人で暮らせるのもきっと、あと少しだから、いっぱい血を飲ませておいてあげたい。





 ゆめのせいで多少、ぎくしゃくはしただろうけど、坂井と悠利は、結局予定どおり結婚した。式を挙げて、坂井の両親を涙ぐませたりしたらしい。悠利の母親は来なかったそうだが。

 ゆめは、ふてくされて結局行っていないので、細かいところまでは知らない。

 いつのまにか新居が用意されていて、悠利は来週出ていくことになった。いきなり言われて、ゆめは固まりそうになったけれど、泣いてすがったりはしなかった。

「この部屋、アンタに残していくことにしたから。行くとこ見つからなかったらこのまま、ここに住んだら」

 とうぶんの間、家賃の半分は払ってあげる。と、悠利は最後の情けをかけてくれた。ゆめに「行くところ」などないと、とうにお見通しらしい。

 今日はたまたま反抗的な気分じゃなかったゆめは、その好意、というか哀れみをありがたく受け取ることにした。

 本日、悠利は一日中講義に出て、その後新居のほうに泊まるらしい。そしておそらく、坂井といちゃいちゃする。おなかに子どもがいるから、挿入はするか分からないけど、いちゃいちゃは間違いなくする。考えたくもない。

「いってきます」

 もうじき聞けなくなる悠利の律儀な挨拶に返事もせず、ゆめは、ヘッドホンを頭にはめてテレビを見ていた。

今日は、一日休みだ。

 お昼までぼうっとテレビを見ていたら、ワイドショーが始まって、女優と特撮俳優が結婚した話題が騒々しく取り上げられていた。どんどんうざくなってきて、ぶつりとテレビを消したゆめは、ふと思い立って靴をはく。

「共弥のとこ行こ」

 一人でじっとしていると、悠利との思い出が次々よみがえってきてつらい。

 共弥はおっとりしているから、恵介みたいに話していて緊張させられないし、幸児みたいに煙草臭くないから。なんなら一晩、泊まってきてもいいや、と思う。

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