第2話

 学校での講義の後、気が向いたら、アートメイクを残したままで、共弥のところに行く。共弥はゆめの幼なじみで、高校卒業後は、ピザ屋のアルバイトをしながら、音楽をやっていた。今もオーディションを受けたりライブハウスで演奏したりしているらしいが、それだけで食べていける兆しはいっこうにない。

 本人はそれでも特に焦ってはいないらしくて、まったりした性格のまま、貧乏な日常を楽しんでいる。ゆめには「シンデレラ」っぽく見えたので、ときどき意地悪なお姉さんになって、虐めてあげていた。

「共(きょう)弥(や)ぁ」

 ボロアパートの二階に住んでいる共弥を訪ねて、ゆめはドアの前で呼んだ。チャイムは壊れている。前の住人も、直さないまま生活していたらしい。

「はーい」

 子どものときのように無邪気に応えて、共弥が迎え入れてくれた。

幸児と違って、モデルの女のコみたいに華奢だし、煙草も酒もやらないし、ヒゲも生えていない。明るい茶髪がさらさらしていて、そばにいると、同性の友人といるみたいに安心する。

 ゆめが、殴られた後みたいなメイクを施した顔のままで来るのはしょっちゅうだからか、彼はもう驚かなくなっていた。

「悠ちゃんに暴力ふるわれたのー」

 いつものように泣き真似すると、「あー、はいはい」と適当に流されて、ゆめ用の、頭蓋骨を模したカップに紅茶をいれてくれた。

 ゆめは、黒いソファの上の、赤いクッションに腰を下ろす。

「聞いて、共弥。悠ちゃんが妊娠したの。金持ちでエリートの、優男の子ども!」

 訴えるように報告したら、共弥は穏やかな表情のままうなずいた。

「よかったね」

「よくないよ!」

 ゆめにとっては慶事じゃなくて、弔事だ。

 共弥は悠利のことをよく知らないけれど、ゆめがこっそり撮った写真を見せながらいろいろ話したので、知識だけはある。どんな顔かとか、何が好きかくらいは、ちゃんと知っている。テレビの中の芸能人みたいな感覚だろう。

だから、今回ゆめが報告したニュースへの反応も、ごくごく平凡であたりまえの、「友達の友達の話題」に対するリアクションだった。

 ゆめがそれに、満足するはずがない。

「共弥、他人事だと思ってるでしょ」

 実際、他人事だからしかたないけど。もっと親身になって、ゆめの落胆を分かち合ってほしかった。

「いつからそんな冷めたヒトになっちゃったの? 昔はいっしょに、千年の眠りごっことかやってくれたじゃん」

「昔って……幼稚園のころのこと? そんな前の話持ち出されたって」

 共弥は当時を思い出したのか、苦笑いしている。

 幼稚園のころ、ゆめと共弥は同じ桃組で、よくいっしょに遊んでいた。というより、ゆめにつきあえるお人好しは共弥くらいしかいなかった。 

千年の眠りごっこというのは、ゆめが思いついた遊びで、千年眠っている間に、親しいヒトもみんな死に絶えて、目覚めたら独りぼっちになっているという、悲しい設定の遊びだ。

 四歳のゆめは、お昼寝の時間の寝たふりから目を覚ますと、演技とは思えないほど鬼気迫る表情で、泣き叫んだ。

「わぁあああ、知ってるヒト誰もいなくなっちゃったぁー!」

 先生たちはもちろん驚いて、「どうしたの」とおろおろして声をかけるけど、泣きやまない。嘘に没頭しすぎて、区別がつかなくなってしまったのだろう。

 共弥はいつも慰める役で、「大丈夫、俺がいるから」と言い聞かせていた。

 ゆめの大きな目で見つめられると、本当に、お互い以外は知らないヒトばかりになったようで、現実を忘れてしまいそうだったのかもしれない。

 ゆめが変わったコだといううわさはすぐに広まり、先生たちでさえ彼女を気味悪がるようになって、ゆめと遊びたがる子どもはいなくなった。

 共弥だけが、幼いころのゆめに寄り添ってくれていた。仲間外れにされても、とうのゆめはけろっとしていて、相変わらず気持ち悪い遊びを次々考案していたのを、共弥はよく覚えている。

「それで、悠利さん、体調のほうは落ち着いてるの?」

 共弥に訊かれて、ゆめは首をかしげる。

 この間はポトフを戻していたけど、授業には普通に出席しているから、それほど悪いわけではないのだろう。

「たぶん、元気」

 でもどうして急にそんなこと訊くの、と不思議がったゆめを、共弥が哀れむように見る。

「悠利さんが本格的につわりの時期に入ったら、誰かが世話してあげないといけないんじゃない? ゆめには無理っぽいし、そうしたら、坂井さんっていうヒトに何とかしてもらうとか、しなきゃならなくなるんじゃないの?」

 ゆめはその正論に、追い詰められた。

 まったくそのとおりだ。

 ゆめは、自分の気まぐれであれこれしてあげるのは得意だけど、長期に渡って、誰かをケアするのには向いていない。妊婦にどう接したらいいかも分からないし。

 悠利は実家の母親と不仲だから、お母さんが来ることはないと思われるが、べつの誰かが世話をしに来るなら、ゆめがいてはじゃまになるだろう。

 そして子どもが生まれたら、悠利は坂井と暮らし始めるだろうし、ゆめとの同居を解消するまでの時間は、おそらくもうあと少ししかないのだ。ゆめも悠利も、この件について話し合わないまま、普通に今までどおりの生活を続けているけれど。

「目をそむけてないで、ちゃんと話し合ったら?」

 共弥は、励ますように、ゆめの背中をそっと叩いた。昔からずっと、こうやって支えてくれる。ゆめは、彼の優しさの海の底に、下心そのものの深海魚がいると気づいていたけれど、餌をやるつもりがなかったので、無視し続けていた。

「悠利さんと住めなくなったら、うちに来てもいいよ」

 そう言ってくれるのはうれしいけど、何をされるか分からないのは怖い。共弥は紳士だから、無理やりどうこうというのはないだろうけど、それはそれで、与えられるばっかりなのは居心地悪いかもしれなかった。

 ゆめはイカれた女だけど、そういう常識的な部分も少しは持っているのだ。

「うん、考えておく」

 いつも女が来ている幸児のところよりは落ち着くかもしれないが、やっぱり、同居人は悠ちゃん以外に考えられない。

 どうしてだいじな日常がかき乱されるのか、坂井の何がよかったのか、恨めしい気持ちに浸っていたら、アートメイクの偽物の傷が、本当に痛みを帯びてきた。

「共弥、私、今日はもう帰るよ。また今度いっしょに、DVD見よう。共弥の好きな、『セーラー服の淫らな香り、生足の誘惑』シリーズ、レンタルしとくから」

 言い残して、腰を上げる。

 今夜にでも、悠利と、話し合わなくてはならない。

(いっそ、都合悪いことはぜんぶ夢だったらいいのになぁ)

 ゆめは、誰もが抱くような願いを繰り返しつぶやきながら、悠利とルームシェアしている部屋に帰った。



 悠利は今日、学校の帰りに、産婦人科に寄っていたらしい。何も問題はなく、胎児は順調に育っているようだ。

 息を切らして階段を駆け上がってきたゆめの、傷メイクが生々しい顔を見て一瞬絶句していたが、すぐに元の冷静な彼女に戻った。

「その顔のままでうろうろされたら、何かあったのかと思われるじゃない。早く落として」

「もう遅いもん」

 ゆめは、ヒトより少し長い舌を出す。

「悠ちゃんに暴力ふるわれたって、共弥にチクっちゃったぁ」

 嘘だけど、口に出した瞬間から、ゆめの中では事実だ。

「べつにいいし。私、共弥くんと何の関係もないもの」

 悠利はムカつくくらい平然としている。坂井に気に入られて、子どもを宿して独りじゃなくなった悠ちゃんは、どうでもいい奴に嫌われたって、べつに何ともないのだろう。

「幸ちゃんとこにもこのまま行ってやろ」

「行けば?」

 淡々と許可される。

 やっぱり、大きな幸福を手に入れた者の前に、ひとかけらの不幸なんて、ちらつかせたところで意味はないんだ。

 ゆめは敗北感をなだめすかすようにキッチンへ姿を消して、お菓子を作り始めた。前から作りたかった、アップルパイ。幸せの象徴みたいで、二人の生活にぴったりだと思っていたのに、悠ちゃんはささやかな幸福を壊した。

 もちろん、悪いのは大半が坂井だけど、悠利のことも少しは憎い。ゆめは指を切って血を混ぜる代わりに、今出てきたばかりの涙をそっと林檎の上に落とした。少女マンガなら、奇跡が起こるところだけど、現実世界では、単に不衛生なだけだ。

 できあがったパイを切り分けて、悠利のぶんにこっそりキスしてから持っていく。

 ゆめは今でこそ、やってはいけないことはこそこそ隠れてやるようになったが、中学生くらいまでは、人前でも平気でこういう行為をしていた。

「アイツってさ、ちょっときれいな顔してるから何でも許されてるけど、ブスだったら相当キモいよな」

 聞こえるように悪口を言われたこともあるが、今思えば自業自得だ。

 そのころのゆめが執着していたクラス委員長は、「ふざけたことするな!」と、友人の前で、ゆめを本気で叱った。小指からの血をほんの少し、彼のぶんのミネストローネに混ぜただけなのに。

「トラウマになっちゃったな」

 あれ以来ゆめは、眼鏡をかけた男を避けるようになっている。相手の子はもっとひどいトラウマを植え付けられたかもしれないが。

「悠ちゃん、おやつだよ」

 晩ご飯もまだだけど、アップルパイ作っちゃったから。

「匂い押さえるように、シナモン控えめなの」

 代わりに涙が混入されている。

「うれしい?」

「へんなもの入ってなかったらね」

 悠利はいつも同じ返事をする。心の底ではずっと疑っているのだろう。

 それでも、ゆめのことを完全にキライになれないから、だまされたふりをして食べている。

「入ってないよ、大丈夫だよ」

 ゆめは、その言葉を裏付けるように、自分のぶんをフォークに刺して口に運んだ。『白雪姫』の悪いお妃扮するおばあさんにでもなった気分だ。

(本当に、意識奪えたらいいのに)

「世界でいちばんの美人」の座なんていくらでもゆずってあげるから。

 悠利はゆめの、切ない胸中なんかひとかけらも知らずに、アップルパイを食べる。「おいしい」とか、言ってくれる。つわりもちょっとはましなのかな。今日は顔色もいい。

 今のうちに、今後のことを相談したほうがいいだろう。というか、しないとならないだろう。つわりが治まったら、坂井と悠利は結婚式を挙げるだろうし、その後はいっしょに住み始めたりもするんだろうから。

 悠利は何も言わないけど、ゆめはいずれ、出ていかなければならない。

「ねえ、悠ちゃん」

 ゆめは、思い切って言いたくないことを口にした。自ら手首の内側の薄い皮膚を勢いよく裂いて、リスカするときみたいな痛みを感じながら。

「坂井さんとはいつからいっしょに暮らすの?」

 じっと見つめたら、悠利は怯えた顔をした。そういえば彼女は、初めてゆめに会ったとき、「美しすぎて怖いと思った」と言った。きれいなものを集めるのが好きな悠利は、その後ゆめのヤバイ引き出しをいろいろ開けてしまっても、ゆめをコレクションから外そうとはしなかった。

「まだ、決めてないけど。少なくとも、生まれるまでにはって思ってる」

 何でもはっきり話す悠利がちょっと、戸惑っている。

 もしかしたら、とってもずるいことを考えているんじゃないだろうか。坂井ともゆめとも別れず、自分が弱ったときに傾きたいほうに頭をあずけるような世界とか。

 普段わりとドライで、ゆめなんかいてもいなくてもいい、むしろいないほうが落ち着くみたいな態度をとっているくせに、本心ではいっしょにいたいのだろうか。

「悠ちゃん、言っとくけど、私は坂井さんキライだから。あの人と悠ちゃんがいっしょの空気吸って、同じ釜のごはんを食べて、ときどきパコパコいやらしいことしてるようなとこ、ぜったいに行かないから」

 選ぶならどっちかだよ、とゆめは最後通告をしておいた。悠利と坂井の間では特別なものになっているであろう行為を、わざと下品な表現で言い表して。

 当然、悠利は眉を寄せていやそうな顔をした。

「べつに、ゆめを新居に呼びたいなんて思ってないから。ただ、追い出したら行くとこなくてかわいそうかなと思ってるだけ」

 どこまで本心かわからないけれど、哀れまれるなんてまっぴらだ。

「行くところ、あるもん。私にだっていっぱい、行くとこあるもん!」

 本当はそんなにないけど、情けをかけられるのがいやで、ゆめは子どもみたいにむきになって主張した。

「それならいいの。頭が痛くなるから、あんまり大きい声出さないで」

 悠利は、体調が思わしくないことを匂わせて、それ以上の議論を回避した。

 ゆめは不完全燃焼だったが、一本の電話がそこに割って入り、事態を前に進めた。

「坂井さんからだった。おめでた婚ってことで、再来月の挙式でどうかって。式場のヒトが、普通より早く話進めてくれるって」

 なにが「おめでた婚」だ。

「その後はいっしょに暮らすようになるわ」

 勝手に決められたことを事後報告されて、ふてくされたゆめは応えなかった。

(割れる、別れる、破れる、壊れる……)

 友人代表のスピーチをすることを予測して、ゆめは今から、不吉な言葉を集めておこうと決めた。



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