第二十四回
野中の紅い薔薇
【大盛りつゆだく】【アンサンブル】【愛の対義語】【教条主義】
(前作いちもんめの続きです)
初めて彼女を見かけたのはいつのことだったろうかと、頼りない月光に照らされながら考える。
今日のような、深い夜だった。
いつもならぐっすりと眠っている頃合いで、けれども僕は何故だか目を覚ました。
窓の外から祖母に教えて貰ったばかりのわらべ唄が聞こえて、それにつられたのだった。
ふらふらと男が歩いている。
母親がたまに連れて来る男だった。
僕はその男のことを、あまり好きではない。
ともかくもそれが歩いていて、幼いながらも不愉快な気持ちになったことを覚えている。
けれども僕が気を取られたのは男ではなかった。
その後ろへ、黒い着物の女性がいたのだ。
そして彼女は片手に何か光るものを持って、反対側は、女の子と繋いでいた。
僕よりも幾つか下の歳だろうと思う。
「かってうれしいはないちもんめ……まけてくやしいはないちもんめ」
女性の唇が動いている。
男が、ふらふらと歩いている。
月光。
男が、赤い。
道路に赤い筋が引かれている。
「あのこがほしい……あのこじゃわからん」
女性の視線が、女の子へと向けられた。
女の子は硝子玉のような目を女性に向けて、そうしてから口を開く。
「このこがほしい、このこじゃわからんっ」
楽しげな歌声が、酷く歪だった。
上手であるのに、女性の歌よりも恐ろしく思えた。
満足そうに頷いた女性は、女の子の手を離して反対の手に持った光るものを振りかぶる。
ころりころりと可愛らしい足音を立てながら、飛びかかるように男の背へ肉薄した女性。
女の子はじっと、その眼に光景を焼け付ける。
そうして、カーテンの隙間から覗いている僕も、三者三様の活劇を眼に、脳裡にと、強く強く焼き付けた。
「そうだんしましょ、そうしましょ」
男がもんどり打つ。
噴き出す赤と、切り裂く女性、見つめる女の子と僕の眼。
「ちゃあんと見ておいで、お前もきっと、こうなるのだから」
その女性の声は、女の子へ向けたものだったのだろうか。
それとも、僕へ向けられたものだったのだろうか。
未だに分からないけれど、僕が未だ生きていることだけは、純然たる事実だ。
一時だけ止んだ連続殺人事件はその期間を鑑みるに、犯人が年老いたかして犯行が不可能になったのではなかろうかという話になっていた。
けれども、事件は再び起こった。
模倣犯か。
いやしかし。
そう紛糾する捜査会議に参加していた僕は、僕だけは、きっと答えを知っている。
確信があるのだ。
あのときの着物の女性は、もう、この世にはいない。
だから、そう。
模倣犯、確かに模倣犯といえるだろう。
けれどもそれは――彼女は、幼い頃教え込まれた教義を貫いているに過ぎない。
そして僕にはもうひとつ、確信がある。
いや、自信がある。
この連続殺人事件は、模倣犯による事件は、次から様相を変えることだろう。
そう、例えば、これからの被害者は、全てが女性である、だとか。
「童は見たり、野中の薔薇」
今日は丁度非番だった。
そして彼女が次に事件を起こす日でもあった。
捜査本部の誰も知ることはない。
行動分析でもしたらば分かるのかも知れないけれども、とにかく、僕だけが純然たる事実としてそれを知っている。
「清らに咲ける、その色愛でつ」
あの女性に、彼女に捧げるために僕はどうすべきだろう。
そんなことを考えているときに思い出したのは、あの歌だった。
はないちもんめ。
はじめは僕もそれに倣おうかと思ったのだけれども、少し違うな、と思った。
「飽かずながむ、紅におう」
僕が欲しいのは、相談して選ばれるいちもんめの花でなく、あのときの、あのときだけの花なのだ。
「野中の薔薇」
――なぁ、この曲は君に、ぴったりだろう?
「手折りて往かん、野中の薔薇……手折らば手折れ、思い出ぐさに」
黒に包まれたその姿。
真珠の首飾りと握り締めた果物ナイフが、月光を照り返す。
「君を刺さん……紅におう……野中の薔薇」
僕の手にも、ナイフがある。
彼女と目が合った。
その硝子玉のような瞳は変わっていないのだねと、そう伝えたいと思ったけれども、やめた。
彼女があのとき僕を認知したかは知らないし、認知していたとしても覚えているかは分からない。
「童は折りぬ、野中の薔薇」
「あのこがほしい、あのこじゃわからん」
歪な重唱が夜の道にひっそりと響いている。
彼女の唇がやんわりと笑みを象れば、僕も知らず知らず目を細めていた。
「折られてあわれ、清らの色香」
「このこがほしい、このこじゃわからん」
同じ教えの元に、生きる僕たち。
そうして生まれた君と、君に染め上げられた僕。
エロースとプシュケーに喩えるのは、ナルシスト過ぎるだろうか。
「永久にあせぬ」
「そうだんしましょ、そうしましょ」
同時に駆け出した僕たちは、同じタイミングでナイフを振り抜いた。
僕たちは同じなのに、哀しいほどに違う。
例えば、腕力。
例えば、リーチ。
例えば。
彼女の赤が――紅が降りしきる。
噎せ返るほどのそれの中、僕は倒れた彼女の腰を跨いで、胸を貫いた。
「紅におう」
抉るようにして手折る、その愛おしさ。
ぐちゃぐちゃに濡れたナイフを引き抜いて、そうしてまた振り下ろす――もっと、もっと、深く、激しく。
溢れ出す。
滴り落ちる。
なんてもったいないのだろう。僕はその全てを掬い上げて、飲み干した。
――
告白であり、断罪だった。
そして教えに染まった僕が、新たな祖となった瞬間だった。
僕は紅が滴る唇へ口付けて、そっと最後のフレーズを口ずさむ。
「野中の薔薇」
思い出の中の美しい薔薇は、彼女の母親と同じ味がした。
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