第二十三回
いちもんめ
<雨>【初めての化粧】【ジビエ】【日常】
(<雨>は、文中に雨やレイン等そのものを示す言葉を使わないようにして雨という単語を表す、という縛りがあります)
可憐な梅の花が咲く蛤の貝殻を、手のひらに包み込む。
かぁ様から譲り受けたそれを開けば、内側は玉虫色に光り輝いていた。
紅だ。
水に濡らした薬指――紅差し指――でくるりと玉虫色を撫でれば、鮮やかな紅色へと変わった。
とくとくと、いつもより速く血が巡っている。
この紅は特別なときだけ使って良いと、かぁ様は言っていた。
だからきっと、許してくれるだろう。
紅く濡れた薬指で、唇を撫でる。
ああ、染まっていく。
初めてのその行為は、それだけで私を女へと変えていくように思えた。
きっと、きっと、それは思い過ごしではない。
こうして世の娘たちは、女に変わってゆくのだろう。
鏡の中の私をじっと見つめて、ほう、と息をついた。
子供の頃はあまりかぁ様に似ているとは言われなかったけれど、娘と呼ばれる歳になってこうして化粧を施せば、瓜二つではないか。
とくとくと、血が巡る。
淡く染まる頬が少し、緩んだ。
「かってうれしい……はないちもんめ」
目を閉じれば浮かんでくる、鏡台に向かうかぁ様の背中。
無意識に零れ落ちたわらべ唄、それをかぁ様はいつも歌っていた。
懐かしくて、そして、酷く切ない。
指を奇麗に拭う。
貝殻を閉じて立ち上がると、纏っている黒いワンピースに皺がないか確認をして、この日の為に揃えた黒いつば広帽子を被った。
黒いタイツ、黒い手袋、黒いハンドバッグと、黒いパンプス。
そして、真珠の首飾り。
「まけてくやしい……はないちもんめ」
喪服にでも見えるのかしら。
歌いながら頭の中に不意に浮かんだ疑問に、誰も応えることはない。
月を、厚い雲が隠してしまっている。
もう幾日も月を見ていない。
気鬱にさせる空模様は、けれど、私には随分と都合の良いものだ。
「あのこがほしい」
私の歌声は、誰にも届くことはない。
「あのこじゃわからん」
私の姿は、誰の目にも映ることはない。
街灯がちかちかと震えている。
きっと不気味な光景だろうとふと考えた。
足を竦ませるその様は、けれど、私には随分と気持ちの良いものだ。
「このこがほしい」
傘を差した男が、歩いている。
「このこじゃわからん」
黒い大きな傘は、さぞ視界が悪かろう。
ぴちゃん。
跳ねるように駆け出して、ハンドバッグを投げ捨てる。
私の手には、じっくりと研ぎ上げた果物ナイフ。
とくとくと、血が巡る。
紅を差した唇が吊り上がる。
「そうだんしましょ」
気付いた男が傘を持ち上げた。
目を見開いている。
血が巡る。
ひ、と唇が歪んだけれど、もう遅い。
目の高さで、思い切り横へ薙ぎ払う。
が、と、鳴き声にも似た息が、男の口から洩れた。
吹き出す紅。
ああ、と、嬌声にも似た息が、私の口から漏れた。
ばちゃん。
降りしきる紅が、私を濡らす。
あおむけに倒れた男はびくびくと痙攣していて、新鮮さを物語るようだ。
――ああ、早く、きちんと、血抜きをしなくっちゃ。
そう思うのに、何も手につかない。
心臓が痛いほどに鳴って、手が震えている。
初めての狩りは呆気なく、けれど、絶頂へ誘われるほどの快感を私へと齎した。
このまま余韻に浸っていたい。
そんな感傷を、どうにか振り払う。
何せ男は、事後に睦み合うことを本能で良しとしないらしい。
だから私は、それに応えてあげなければならないのだ。
濡れたナイフをワンピースで拭い、毛皮を剥ぐようにしてスーツを切り開く。
最後の力を振り絞るように暴れる男の腰を跨いで、腹へナイフを突き立てた。
縦に押し上げるけれど、皮と違って、軽くは開けないようだった。
狩りも、解体も、簡単ではないのだと、私はそのとき初めて知った。
かぁ様はもっと上手だったのに。
そう思うけれど、かぁ様は年季が入っていたからなのだろう。
私もきっと、回数を重ねれば。
「……そうしましょ」
呟いて、小さく切り取った新鮮な肉を、そっと口に運んだ。
喉を下る芳しい腥さと、腹の底から湧き上がる歓喜に、私は濡れながら、蕩けそうなほど熱い吐息を漏らしていた。
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