愛恋の青

【パラダイス・ロスト】【二度目のキセキは】【NGシーン】【紋切型】

(例に漏れず、これも第何回か忘れてしまいました)




 “私”と言う存在は、果たして“どれ”に宿っているのだろうか。

 例えば伸びた髪を切り落としたとき、きっと床へ散らばる髪は私とは呼べない。

 切り落とした爪も私とは呼べず、では、指ごと落としたならば。

 腕ごと落としたならば。


 そう、例えば上下に私を切り分けたとき。

 上と下の、どちらを私と呼ぶべきなのか。

 前後なら、左右ならどうだろう。

 首から分けたときは、どちらが私なのだろう。


 片側の視界を失って、手足を失って、それでも私を――“アタシ”という自己を保ち続けられたのは、もしかしたら、キセキだったのかも知れない。

 いや、本当に、悪夢でしかないけれど。


 ――きっとあの右目には、アタシの狂気が宿っていたのだ。


 虚になった右の眼窩へ青い硝子を填めて喜ぶあの男――マエストロ――は、二人分の狂気に飲まれているに違いない。

 微笑むことしか出来なくなったアタシは、そう考えながらアンダンテのワルツを踊るのだ。


 リードはない。

 マエストロは蓄音機のそばの椅子に座っている。

 その手足は最早枯れ枝のようにやせ細り、声は嗄れて背筋を震わせるような張りはない。


 ――老いたのだ。いつまでも変われない私を置いて。


「嗚呼、私の愛しい人」


 マエストロはもう、そうとしか喋らなくなった。

 型で切り抜かれた紋であるかのように。

 もしくは、NGを出されて何度も同じシーンを演じ続ける俳優のように。


 アタシは――私は、マエストロの初恋の人に、かのステンドグラスで作られた微笑みの聖女に、な たのだろうか。


「嗚呼、私の愛しい人」


 ひとりきりのダンスフロア。

 なぞるのはライン・オブ・ダンス反時計回り

 残されたのは右目以外の首から上で、機械の身体は老いることなく、生身の首は弄られて、私は微笑むだけのお人形。


「嗚呼、私の、愛しい人」


 弄られた私の首は、相変わらず私で――アタシであるのだろうか。

 ワルツを踊りながら思考をしているアタシは、はたして本当に、いつかどこかに、存在していたのだろうか。


 妄想かも知れない。

 いや、妄想ではないかも知れない。

 そう、きっとこれは、アタシにとっての二度目のキセキだ。


 ――左目に、狂気以外のアタシが詰まっているに違いない。


「嗚呼、私の……」


 鈍い音が、ワルツに混じる。


 ライン・オブ・ダンスを辿るアタシの左目に映ったのは、椅子から転げ落ちたマエストロの姿だ。

 ぴくりとも動かない。

 わずかにも動かない。

 動かない。

 動かない。

 動かない。


「嗚呼、私の、    」


 その声は、誰のものだったのだろう。


 疲れを知らない両腕を下ろして、限界を知らない足を動かして、マエストロの前に立つ。

 柔らかさを失った膝を折って、温かさを失った手を差し込んで、マエストロを裏返した。


「嗚呼、私の    」


 機械の腕では、温もりが分からない。

 微かな動きを感じられない。


 マエストロの頬へ赤が落ちた。

 動かないと思っていた表情も、まだ少しは動くらしい。

 そんなことを今更知ったところで、アタシのすることは決まっていた。


「嗚呼」


 抉り出したのは私の右目――青い硝子だ。

 白いドレスで赤を拭って、そして、


「マエストロ」


 緑色をした彼の右目を抉り出した。


「あぁぁああぁあ」


 マエストロが飲み込んだアタシの右目に、狂気が宿っていたとして。

 マエストロが、二人分の狂気に飲まれていたとして。


 では、マエストロの右目に詰まっているのはなにかしら。


 それはまるで禁断の果実だ。

 ずっと、ずっと、惹かれていた――あの緑色。

 いつからか分からない。

 何を失ったとき、代わりに与えられたのか分からない。

 けれどもずっと、思っていた。


「私も、マエストロの右目が欲しい」


 唇に緑を押し当てて、ゆっくりと飲み込んでいく。

 感覚はないはずなのに、全身が満たされていく心地がする。


「マエストロ……嗚呼、私のアダム」


 左目が、歓喜に震えた気がした。

 私の、アタシの中を愛憎が駆け巡る。


「ねぇ、アタシも、そっちへいくよ。待っていて。そうしたら、ねぇ、呼んで欲しい」


 アタシの名前を――――エヴァという名前を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る