第四回

ぱったんぺったん

第四回にごたん

【ロールシャッハ】【揺れる天秤】【貧者の一灯】【焦がれた日々】




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「ぱったんぺったんっぱったーんぺたんっ」


 夜道にこだまする、妙な節がついた歌。街灯に集る虫の羽音や、かさにぶつかる音が不規則なリズムを刻み、余計におかしな調子をつけていた。ただ誰も聞くものはなく、声の主がそれを指摘されることもなかった。


「ぱったんぺったん、ぱッターんぺたァン」


 一瞬のノイズが混じる。街灯が何度か明滅して、帰宅途中であったらしい会社員が足早に通り過ぎた。


「先輩喜んでくれるカナ? かな? ふふっ」


 どこか楽しげ呟きに、ぱったんぺったん、そんな妙な歌と共に夜は更けていく。




 俺の元にその妙な手紙が届くようになったのは、一年ほど前のことだ。いや、手紙というと語弊があるだろう。正確にいうなら、絵のようなもの、だ。

 何が近いかと言えば、皆一度は見たことがあるだろうロールシャッハテストに使うインクの染みだった。紙にインクを垂らし、真ん中から折ってまた開いたところへ出来た、左右対称の染み。それに何を見えるのかという、テストで使うあれのような紙が封筒に一枚だけ入っている。

 例えば、これが何に見えるのか答えろだとか、そんな文言が書き添えられているのなら、俺にも対処のしようもあった。けれども、ただただ、インク染みのある紙だけしか入っていないのだ。

 月に一度だけ届くそれに何か実害があるわけでもなく、警察に届け出ることも、誰かに相談することもむしろ面倒だと思う程度。多少の気味の悪さを月に一度我慢すれば、どうというものでもなかった。


 ――いや。


 正直に、本当のことを言おう。俺は、それが届けられる度に、抑えきれない苛立ちと、苦しみと、恐怖――そんな言葉だけでは表せられない汚泥に飲まれたような気持ちに苛まれた。

 だけれども、それを、誰かに告げるわけにはいかない。家族にも、友人にも、まして警察になど、馬鹿正直に言えるはずがなかった。

 事故だった、あれは事故だったのだ――そうやって自分に言い聞かせることが、唯一自分に出来ることなのだ。




『先輩って、それすきですねー、なんだっけ、ロールキャベツ?』

『ロールシャッハだ、食うなアホ』

『えー、ロールキャベツおいしいし』

『俺が言いたいのはそこじゃない』


 そんな馬鹿らしい会話が脳裏に蘇る。もう二度と戻ることのないあの青き日々――なんて、安っぽい青春小説みたいな言葉が似合ってしまうような、高校生だった俺と、後輩の少女の会話。


『ぱったんぺったん、ぱったーんぺたんっ』

『何だよその変な歌』

『ひっどい先輩! 先輩がだいすきなロールキャベツのうたですよーだっ』

『だからロールシャッハだって言ってんだろうがアホポチ』

『アホっていうなーっ』


 ポチというのは勿論あだ名だ。俺に飼い犬の如くつきまといじゃれついて、俺に褒められれば喜び、叱られればしょげる、犬みたいだったアイツの。


『ほらほら、こうやって、ぱったん、って紙を折ってー、ぺったん、って絵の具をやるとーっ、できたー、ロールキャベツ!』

『お前それわざとだろ』

『なにがですか先輩?』

『……え』

『え?』


 ポチはどうやってあの高校に入ったのか分からないくらいのアホで、運動神経はまあまあ、美的感覚に至っては恐ろしいほどに貧しい奴だった。ロールシャッハテストで言うなら、多くの人が蝶と答えそうな染みを、自信満々にデカい声でパンツと叫ぶ。本当にアホで美的感覚がない奴だと、俺はいつも思っていた。


『じゃあこれは?』

『えー、何だろ』

『何でも良いから答えろよ』

『ううん、ぐちゃぐちゃに丸めたテスト用紙とかですかね』


 真剣な顔をして言う姿は、姿だけは、まだ良いのに。あんまりな答えにどうにも頭を抱えることしか出来ない。


『ポチ……お前本当に発想力が貧困だな』

『ひっどい先輩! ほら、あれ、あれ、ええと、貧困ないっとう?』

『え、貧者の一灯って言いたいのお前、何急に頭良さそうなこと言おうとしてんの』

『う、うるさーい! とにかくあれです! 先輩がぽんぽん答えるより、あたしが頑張って考えた答えの方がすてきなの!』

『拡大解釈しすぎだろポチ意味分かんねえ』


 ――あの頃は、まだ。


 まだ、楽しかった。何せ今でも焦がれることがあるのだ。あの平穏だった日々に。




 俺が高校を卒業し大学生になって、毎日のようにまとわりついていたポチとは当然、会うことはなくなった。ほっとしたような、何となく物足りないような気持ちでいた俺は、それでも大学生活を楽しんでいた。

 ポチも俺を忘れて――記憶から投げ出してという意味でなく、ただの思い出にしただろうという意味だ――楽しくやっているのだろうと思っていた。いや、そうやって、考えることすら別に、俺はしていなかったのだ。

 けれども、ポチは違ったらしい。

 ポチが本物の犬と違うところは、当たり前だけれども、人間であるところだ。人間は、物理的に繋がれたりしていない。人間は、好きに出歩くことが出来る。


 人間は、人間は――好意を煮詰めて、悪意に変えることが出来る。


 メールが来た。電話が来た。ラインも来たし、フェイスブックも見られていた。俺が家を出るとポチは大通りの向こうでじっと俺を見つめ、俺が家に帰ると窓の下で俺をじっと見つめていた。家に帰らなければ、スマートフォンが鳴り続けた。

 ポストには毎日のように手紙が入っている。ロールシャッハテストに使うような染みが、赤茶けたような、赤黒いような染みがついていて、これは何に見えるとか、これは何だとか。ここにいるときの先輩だ、とか、この時の先輩だとか、そんな文言を添えて。


 限界だった。


 もう、何もかもが限界だった。いつか焦がれた日々のあの輝かしい思い出を滅茶苦茶に穢されているようで、堪えられなかったのだ。まともな俺と、怒りに震え正気を無くす俺――二つの俺を載せて揺れた天秤は、完全に、後者の方へ傾いた。




 誰にも秘密だと呼び出した、夜の公園。正直な話を言えば、あまり覚えていない。ただ俺はあいつを酷く詰って、何度も何度も――シンジマエと――そして――そして――あいつは高台から、俺の目の前で落ちた。

 ロールシャッハテストのような染みを、地面に、作ったのだ。

 それからだ。俺にその手紙が届くようになったのは。あいつの、ポチの、言葉だけがない手紙。月命日の日に届くそれは、少しずつ形を変えていく。


 ――ただの染みが、ポチの顔に。


「もう……もう、いい加減にしてくれよ! お前がっ、お前が勝手に死んだんだろ!?」


 限界だった。


「俺はただの被害者じゃねえか! ストーカーしてたお前が悪いんだろ! ふざけんな!」


 堪えられなかった。


「こんな手紙寄越して、何がしてえんだよ! おい! 何とか言えよポチ!」


 手紙をバラバラに破り捨てる。赤茶けたような、赤黒いような染みが、散り散りに床に舞い落ちた。

 狂いそうだ。いや――もう、狂っているかも知れない。

 だって。


「ぱったんぺったんっぱったーんぺたんっ」


 妙な歌が聞こえてくる。あいつの声だ。あいつの、死んだはずの、ポチの声だ。


「だってだっテ、あたし、先輩、イないの、さみシかったのに」


 ノイズが混じっている。あの日聞いたポチの声が、楽しげな声が、ぐずぐずに腐っていく。腐臭が鼻を突く。


「先輩、先パい、さみしい、さみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしい――イッショニ、イコ?」

「うぁぁあぁぁああぁあぁあああぁあ」


 耳の奥で、ぶちん、と、正気を載せていた天秤の皿が、腐り落ちた音がした。




――――――――――……




「先輩先輩、あの患者さん……いつもポチって言ってますけど、犬でも飼ってたんですか?」

「私達はね、知らなくても良いの」

「ええー、でも、私の顔を見てポチって言うんですよ? しかもいつもぱったんぺったんって歌ってるし……気になるじゃないですか」

「……分かったわ、配置変えして貰いましょう」

「え? ちょちょちょ、何かあるんですかっ?」


 先輩と呼ばれた看護師は、少しだけ瞳を揺らしてから後輩看護師を奥に引っ張った。そこには幸いというべきか、誰もいない。


「あの患者さんが毎月決まった日に描く絵、アナタ知ってる?」

「ああ、えっと、ロールキャベツ?」

「ロールシャッハテスト」

「そうでしたそうでした」


 そんな状態で良く看護師になれたわねと呆れた顔をする先輩看護師に、曖昧に笑ってみせる。溜め息混じりに頭を振った先輩看護師は、また神妙に口を開いた。


「高校時代にポチってあだ名の後輩がいてね、その人が自分に毎月寄越してる手紙だと思ってるらしいのよ。あの患者さんの学生時代なんてもう随分前の話だけど、忘れられないのね」

「それだけですか?」

「はぁ……そのポチさんって人がね、亡くなってるらしいんだけど」


 そのポチにストーカーをされていたこと、呼び出したその場でもみ合いになり共に高台から転落し、件の患者の下敷きになる形でポチという後輩が亡くなったこと、それから一年ほどしてなってしまったこと――先輩看護師は、そう事細かに後輩へと教えた。何故そんなことを知っているのかと言えば、一時期フリーライターを名乗る人間がしつこく調べに来たのだという。


「とにかくね、アナタがそのポチだと思われてるなら、あんまり良くないと思うわ。相談して配置を」

「ああっと、先輩っ、ごめんなさいっ」

「え? 何よ」

「そう言ったら教えて貰えるかなぁ、なんて、思って言ってみただけ……だったりして」

「はぁ!? っ、もう! 今度そんな嘘ついたら許さないわよ、仕事に戻りなさい!」

「はぁい」


 気の抜けた返事を背に、先輩看護師がその場を離れていく。その姿をじっと見送ってから、後輩は患者の部屋を振り返った。


「ぱったんぺったん、ぱったーんぺたんっ……ふふっ」


 弧を描く唇は、いやに赤く艶めく。


「色々ばれちゃってるんですねー、先輩。でもでも、あたし、今も、先輩のそばにいるのにね? ふふっ」


 ――ずっとずっと、一緒にいようね、先輩。

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