車窓モラトリアム
ジリリリ。
ん~っ。
カチッ。ふぅ。
ごちそうさま。
もう行くの?
うん。
じゃ、行ってくる。
行ってらっしゃい。どんな結果でも連絡するのよ。
わかってるよ。
バタン。
◆
—ピポパ、プルルルプルルル。ガチャ
「もしもし、親父?」
—プツッ。
大学受験に落ちた事を親父に電話で伝えると、大きな怒鳴り声と共に切れた。
……はぁ。
(二度と帰ってくるな。か)
家に帰ったら口論になるんだろう。負け組として罵倒される。それに我慢しなければいけないなんて考えるだけで億劫になる。
——だけど、事は思ってた以上に悪い状況だった。
家の前に着くと、庭に大量の粗大ごみが捨てられているのが見えた。それが自分の部屋のものとすぐに気づいた。一体何が起こったのかわからない。目の前にある現状に頭が混乱した。玄関を開けると母親が立っていて、「とりあえず、ほとぼりが治まるまで部屋に居て」と言ってきた。けれど、自分の部屋は無かった。今日の朝まであったものがもう何も無い。
大きめのセミダブルベッドも、
黒色に塗られた木製の机も、
中学の誕生日に母親に買って貰ったギターも、
幼稚園の先生から貰って大事にとっていた縫いぐるみも、
小学時代の卒業アルバムも。
何もかも綺麗さっぱり無くなっていた。18年間溜め込んだ想い出が他人に棄てられた気分だった。
というか棄てられた。
僕は忘却の部屋の心地に激しい拒否反応を示した。息が詰まって苦しかった。耐えきれなくなって咄嗟に玄関を飛び出した。
クソッタレ!
—ガッ
—コンッ
—カンッ
—カラカラ……
路上に落ちていた缶を思いきり蹴った。缶が静止すると同時にその場で立ち止まった。缶のおかげで僕は少し冷静さを取り戻した。
上を向くと夕焼け色に染まった空が美しい。己の見苦しさでコントラストをより強調させて映し出しているのか、と思うほどに目の前は真っ赤に燃えていた。
大きな溜息を吐いた。
(今は出来るだけその場所から遠ざかりたい)
その事だけしか頭に無かった。
あてもなく、何も考えず、
赴くがままに歩きはじめた。
◆
駅に着くと130円の切符を買って改札を抜ける。丁度電車がホームに入ってきた。
―プシュー
何人か人が降りる。
そして僕一人だけ乗る。
―プシューガタン
「次は丸丸駅ー」
普段とは反対方向の電車に乗っていた行き先などどうでも良かった。持ち物は家を出た時に肩に下げていた鞄だけだった。その中にあった音楽プレーヤーとヘッドホンを取り出し、音楽を再生した。ピアノの曲だ。
僕はゆっくり眼を閉じた。
聴覚はピアノの音に混じって電車の音をよく拾う。
—がたんごとん。
—がたんごとん。
—がたん。ごとん。
—がたん。
意識が次第に電車の音から離れていく。
僕はゆっくり眼を開いた。
夕日の陽射しが電車の中に入り込み、景色の動きに合わせて綺麗なかげろいを流す。そこは赤く染まった小さな箱の中の空間。僕から見える景色は限られていた。
幸せそうに手を繋いでいる高校生カップル。
その隣には親に抱っこされている赤ん坊。
ドアの隣にベビーカーが置いてある。
優先席にはマタニティの女性。
その奥に腰かけた老夫婦の二人。
その前に立っている禿げたサラリーマン。
吊り革を持ってゴルフ雑誌を読んでいる。
電車に揺られながら客観的に彼らを眺めると、この物語の重要人物がいないことに気づく。幾多の喜怒哀楽を経験して同じ箱の中に存在している人々は、苦労した人も幸せな人も統一化され、美化されて映り見えた。まるで街の風景画に描かれている人々のように、この空間に溶け込んでいた。彼らは皆、舞台設定上必要だから存在するただのエキストラになっている。
この中に主人公はいない。何故なら誰も心の描写が描かれていなかった。
——今、自分がこの物語の主人公だった。
そう思わせた最大の要因は目の前に見える風景だった。この日常的で見慣れた車窓からの景色に目を奪われ、電車と共に気持ちを揺るがしているのは自分以外には見当たらない。そう思うと世界の中心にいる様な気がしてくる。
心臓の鼓動が早くなるのを感じる。何故かわからないが、途端に勇気が沸いてくる。今なら何でも出来る錯覚に陥る。そのために無理な事も無駄な事も考えることができる。
無益で不必要だが、今の僕には大切な時間。この時間だけは自分に正直になれている気がする。
ほんのわずかの間、
車窓モラトリアム。
◆
真っ赤に燃えていた夕焼けが次第に青紫色に変わり暗くなる。電車内の蛍光灯の明かりが窓に反射して鏡になり、窓には僕の顔が映し出される。
それでも、外を眺め続ける。
時間の流れを景色で感じる程にまで気持ちに余裕が出て来た。さっきまで躍起になっていた事が馬鹿らしく思えるぐらいに。
ヘッドフォンから流れる音楽に、ガタンゴトンという効果音が心地良い。
—ガタンゴトンーッ
—ガタンゴトンッ
—ガタンゴトンーッ
—ガタンゴトンッ
もう少し眺めていよう。そう思いながら時を過ごしていた。
外はもうずっと暗い。この電車に乗って実家の最寄駅に向かう。もしかしたら僕が主人公でいられる場所はここだけなのかもしれない。
それならそれでいい。
でも……。
一分一秒を噛み締めながら、外の暗い景色を最期まで眺め続けた。この瞬間の結論はもう出ていた。
これからどうするのか。
僕は
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