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ハンカチで少し乱暴に顔を拭いて、頬を二回叩き、気合を入れ直す。高校入学からしばらく無気力だったけれど、今はもう、やる気に満ち溢れている。私の人生を、何のために使うべきなのか、わかった気がした。
「逃げましょう、先輩」
「え……」
「このままじゃだめです。先輩は、その、ひとの親を悪く言うのはいけないと思いますけど、先輩は先輩のお父さんと一緒にいるままだと、もっとずっとだめになっていくと思うんです。たぶん、絶対そうなります。だから私と逃げましょう。どこか、できるだけ遠くに」
一度家に帰れば、引き出しの中に隠しておいた少しのお金がある。たいした金額ではないけれど、高校合格祝い、入学祝いとしてもらったうちの残りである二万三千円。心もとないけれど、これで決行するしかない。
このときそんなことを思わないで、素直に周りの大人に相談していれば、あんなことにはならなかったのだと反省している。大人になった今の私から見れば、無謀にもほどがあるし、彼女も、のちに事情を知った大人たちも、そう思ったことだろう。けれど、このときの私には、それしかできることがなかったのだ。
彼女はためらいを見せた。ここまで来ても、父親を見捨てられないままで、私の手を取りかねているようだった。じれったくなって彼女の手を掴んで公園を出る。バスに飛び乗って私の家へ向かった。いつの間にか、彼女は泣き止んでいた。
お金はちゃんと引き出しに仕舞ってあった。引っ掴んでそのまま家を出ようとしたけれど、出る前に見た鏡で、制服のままだと目立ってしまうことに気付く。慌てて私服に着替えて、彼女にも私の服を着せた。私より背の低い彼女が着ると、少しだぼっとしていて、なんだかこんなときだというのにどきっとした。
靴もスニーカーに履き替えて、彼女のローファーは私の部屋に隠した。足の大きさは同じくらいだった。
「本当に、わたしと逃げてくれるの」
電車を待っている間に、彼女がそんなことを訊いてきた。
「当たり前じゃないですか。捕まらないくらい、遠くに逃げるんです」
「……ありがとう。ごめんね、わたし、巻き込んじゃったのに、今までで一番、しあわせな気分なの」
「……私もですよ」
昼が長くなってきた頃だったけれど、流石に電車に乗る頃には夜になっていた。最初の方はたくさんいた乗客は、時間が経つにつれまばらになっていく。目的の場所なんてない私たちは、とりあえず遠くを目指した。
泣いてそのままこんなところまで来てしまった彼女は、疲れて眠ってしまった。私の肩にもたれて、疲弊しきった顔をして、目を閉じている。二人きりで、まるで駆け落ちのような真似をしていることに幸福を感じていたけれど、こんなことをしても彼女を手に入れられない自分が悲しくもあった。
きっと彼女は、私のことが好きじゃない。嫌われてはいないだろうけれど、私みたいに、相手のことしか考えられなくなるような、すべてを投げ出していいと思えるほど好きではない。悲しくてどうにかなりそうだ。でも、少なくともはっきりと別れるまで、彼女は私の恋人だ。私のものなのだ。窓に映った自分の顔が、ひどく醜く見えた。
外はきらきらと輝いていた。光が溢れているのに、冷たい印象がある。私たちのいる車両に人はいなくて、何もかもから切り離されて、世界に私と彼女の二人しかいない、そんな感覚に陥る。
電車を降りて、寝床探しに街を歩く。今度は彼女が私の手を引いて、来たことのない街であるはずなのに、繁華街を探し当てた。
そこで彼女は、いかにも、といった建物に堂々と入って行こうとした。
「ちょっと待ってください、先輩、ここ」
「見ての通り、ラブホテルだけど」
「冗談じゃないですよっ。ここに入るんですか」
「遠くまで行くなら、安いところに泊まるべきでしょ。わたしなんか、お金、持ってないんだから。大丈夫だよ、わたし、慣れてるし」
「そういう問題じゃないんですっ」
少し寝たからか、彼女はちょっとだけ元気になっていた。
そうか、そうだな、彼女は売春なんてことをしていたんだ。いくら望んでやっていたわけではないとはいえ、慣れないわけではないのだろう。ラブホテルなんか、何回も入っているはずだ。
深呼吸をして、何か見えない境界線でも飛び越えるかのような気持ちで、彼女を追って建物の中に入っていく。明らかに未成年である私たちを入れてくれるのか不安だったけれど、拍子抜けするほどあっさり鍵を渡してくれた。
「未成年、だめじゃないんですかね」
「堂々として。誰が何と言おうとわたしは成人していますって顔をして」
小声で話しながら、部屋に向かう。写真を見て部屋を選ぶというのは不思議な感覚だったし、ラブホテルというのだから小汚いのかなとなんとなく思い込んでいたけれど、従業員の人たちに申し訳ないくらい綺麗な部屋だった。
移動と部屋代で一万円と少し。ホテルに割引があってよかった。明日からはどうしようと不安になったけれど、お風呂から上がった彼女が明るい顔をしていたから、これでよかったのだと思えた。
それから、二日間、私たちは逃げ続けた。確実に追われることはわかっていたけれど、私は馬鹿だから、絶対に捕まらないと根拠のない自信を持っていた。
逃げてきた翌日、今後のためにお金をどうするか、彼女と話し合った。考えがあると言った彼女は、ラブホテルを出てすぐ、コンビニで下着を四枚買った。朝ご飯の菓子パン二つと一緒に、私がお金を出した。
彼女は電源を切っていた私のスマホを使って、何やらネットの掲示板に書き込んでいるようだった。スマホには、着信履歴とメールが溜まっていた。家族の電話番号を着信拒否にして、一応はまた電源を切っておく。
世の中には私が知らないことがたくさんあるのだと思い知った。
彼女は私を連れて、近くの公園へ向かった。街にあった地図を見て辿り着いたそこで、彼女は待ち合わせをしていたらしい。そこで初めて会った根暗そうなおじさんと、死角になっているトイレの裏に行く。使用済みパンツを売買する現場を、初めて見た。まずお金を貰って、トイレで脱いできたパンツを平然とおじさんに手渡す彼女が、同じ高校生とは思えなかった。おじさんが私の分もほしいと言って、かなりの金額を言ってきたものだから、私も生まれて初めてひとに使用済みパンツを売った。もう二度とやりたくないと思った。
事件が起きたのは、二日目の夜だった。
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