1-3
一週間と少し、彼女を避けたのは覚えている。前とは違って、今度は彼女が私を正門で待ち伏せていた。
「ごめんなさい」
バッと頭を下げた彼女を見下ろす。何も言葉が出てこなかった。言いたいことはいくつかあったのに、ぼうっと彼女のうなじを眺めていた。
「どうしても用事があって、いけなかったの。本当にごめんなさい。本当に」
「用事って、なんですか」
謝る彼女に、酷なことを聞いてしまった。きっと彼女は見られているつもりはなかっただろうし、見せるつもりもなかっただろう。どちらかと言えば、何があっても見せたくなかったはずだ。彼女は優しいから、人を無意味に傷つけようとなんてしない。
でも、ぽろっと口から転がり出てきたそれは、私がどうしても聞きたかったことだった。
「そんなに大事な用事だったんですか。……私、待ってたんですよ。夜になるまで」
「……え」
「待ってて、傘持ってなかったから、濡れながらあそこにいたんですよ。――私、見たんですよ。あれが、どうしても外せない用事ですか。だったら言ってくれたらよかったのに」
彼女を責めている自分が信じられなかったのと同時に、それだけ傷ついていたのだと気付く。あのときは諦めたと思っていたのに、全然諦められていなかった。馬鹿だな、と思った。
「もういいです。最初から無理だったんですよ、初対面で恋人だなんて。なかったことにしましょう。今から私たち、他人ですからね」
「待ってっ。……お願い、待って。話をさせて」
「話ってなんですか。あんなところ見ちゃったら、話なんていりませんよ。あれがすべてじゃないですか。あんな人が好きなんですね、先輩は。びっくりしましたよ。でもよかったですね、少なくとも私より、気が利きそうじゃないですか」
「話をさせて。事情があるの。お願いだから、ねえ、聞いて、離れたくない……」
立ち去ろうとする私の腕を、彼女が掴んだ。それを振りほどけるほど私はまだ彼女のことを嫌いになりきれていなくて、思わず止まってしまう。
「……もう嫌なんですよ」
「お願い、説明させて。全部話すから、だから」
今にも泣きそうな彼女を見ると、今度こそ本当に何も言えなくなった。もう言葉も見つからないし、口が勝手に動くこともなかった。
学校から少し行ったところに、小さな公園がある。そこへ彼女に連れて行かれて、人がいないのを確認してから、彼女は震える声で言った。
「わたしね、売春してるの」
彼女が何を言っているのか、わかりたくなかった。言葉の意味は知っていた。違う意味を持っていたかと、考えてしまった。
けれど、私はそれを知らなければならないようにも思えたし、腹をくくった真剣な目をした彼女を見ると、今更聞かないなんて許されない気もして、彼女から目を逸らせなかった。
「もう、一年くらい、いろんな男の人からお金もらって、そういうことしてた。うちは母がいなくて、わたしと父との二人暮らしで、父は今、無職だから、わたしが稼ぐしかないの」
「……もっと、まともな方法、なかったんですか」
「はじめは普通にバイトしてた。でも、どうしても足りなくて、三日まともなものを食べられなくて、そうするしかなかった。一回で終わるつもりだった。けど、父に知られてしまって……。お酒に溺れてる父は、わたしにいろんな男の人を紹介してきたし、わたしはケータイなんて持ってないのに、勝手に出会い系なんかに登録したりしてた。さっさとお金を持って来いって、じゃなきゃ学校にやってることばらすって脅されて、それで、もう戻れなくなった」
彼女は泣いていた。辛いだろうに、それでも私に話そうとしてくれた。
その話は、私からはとても遠いところに感じる話で、現実味がなかったけれど、彼女の目がそれは紛れもなく事実だと告げていた。
ずきずきと頭が痛む。私は、彼女と共にいてもいいのだろうか。彼女を嫌いになんてなるわけがない。でも、あまりにも、彼女の背負うものは重すぎる。のんきに生きてきた私には、とうてい救えそうにないし、どうやって手を差し伸べればいいのかもわからなかった。
彼女は私に、あなたといると自分が汚れすぎていることを見せつけられてつらい、と言った。
父親にも、無理やりとはいえそういうことをやらされた。女として、人として、まだ十代なのに落ちるところまで落ちてしまった。こうなってしまった原因である父を呪う日もあった。自分と父を置いて出て行った母を憎む日もあった。それでも父を見捨てることはできなかった。母を嫌うことはできなかった。父は最後の家族だ。母が家を出ていくまでは、優しかった。その優しさを思い出すたびに、鎖で縛られるように動けなくなった。何より、もう疲れてしまった。逃げる希望も、もがく気力もないのだと、彼女は泣いた。
どう考えたって、私に彼女は救えなかった。
テレビで聞いているみたいに、それは私の中にすぐには染みこんで来なくて、でもどうすべきかだけはわかった。それは反射的なもので、好きな相手のために、馬鹿で無力な私ができる唯一のことだった。
「……一回だけで、いいです。好きって、言ってくれませんか」
あの雨の日を思い出しながら、私は彼女に頼んだ。
あのおじさんは、私の敵だった。だけど、彼女はおじさんの味方でもないし、私の敵でもなかった。ピンクの看板の建物に入って行った彼女とおじさんは、あのあと私が想像もできないことをした。彼女は、それを望んでしたわけではなかった。
もし彼女が私に好きだと言ってくれたら、私は彼女のためになんでもしよう。そのためにすべてを投げ出しても、構わないと思えた。
「好き、だよ。好きに決まってる」
どこか自分に言い聞かせるように、彼女は言った。大好きな彼女の声が、私の耳に届く。
「ありがとう、ございます。好きですよ、先輩」
彼女はずっと泣きっぱなしだった。私の視界も滲んできて、何かつめたいものが落ちる。
雨は降らなかったけれど、本格的に、私は失恋というものを味わった。
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