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 いよいよ不安が爆発して、家に帰って泣きわめいた。

 私は意識していないところで、彼女に嫌な思いをさせてしまったのだろう。もしかしたら、彼女に嫌われてしまったのかもしれない。


 そう思うともうだめだった。出会ってそう長くはないけれど、私は彼女のことがどうしようもなく好きになってしまっていた。

 しかし私は、私が彼女を好きなほど、彼女に好かれている自信がない。恋人になろうと言ったのは彼女だった。でも、何のとりえもない私を好きになる人なんて、そうそういないはずだ。まして彼女と私はつい最近まで、会話すらしたことがなかった。そもそも、彼女は一度も、私のことが好きだと言ったことはない。


 その次の日、落ち込んでいた私は、彼女を避けた。面と向かって嫌いになったとは言われたくなかったのだ。彼女も私に話しかけることはなく、言葉を交わさないで一週間が過ぎた。


 このままでは駄目だと勇気を振り絞ったのは、一週間と二日が過ぎたときのことだ。私は別れるつもりなんて毛頭なかったし、私が何かしてしまったのなら謝りたかった。話をして、その結果が望んだものではなかったとしても、このままよりはましだ。そう考えて、彼女を変えるために、正門前で待ち伏せた。


 学校から出てきた彼女は、私を見て、少し安心したように眉を八の字にした。そして、もうだめかと思った、といった。


「もう、嫌われちゃったかと思ってた。ごめんね、あんな態度、とっちゃって」

「こちらこそ、すみません。何か悪いことをしたんじゃないかと思って、嫌いだって言われるかもしれないと思うと、怖くて、避けてしまいました」

「ううん、わたしが悪いんだよ、嫌いになんかならないよ」


 お互い、悪いことをしたと思って、なかなか近づけなかったらしい。彼女は全面的に自分が悪くて、私は何も悪くないと言った。それをそのあま受け入れるわけにもいかなかったけれど、彼女が必死にそういうものだから、とりあえず飲み込むことにした。


 翌週の土曜日、仲直りにとあの図書館へ行くことになった。

 二回目ともなると前回より落ち着いていたけれど、緊張がなくなったわけでもなかった。前回と同じ場所、同じ時間に待ち合わせの約束をしてある。私は、約束の三十分前に、その場所に到着していた。


 結果から言えば、彼女はそこに来なかった。お昼頃の待ち合わせから、夜の七時まで、私はそこで待っていた。我ながら、良く待てたものだと思う。


 彼女は携帯電話を持っていない。だから、連絡を取り合うことができない。それでも心配になって、でもすれ違うことがないよう、そこから動くこともできなかった。何時間も待った。雨が降ってきたけれど、傘を持ってくるのを忘れていて、濡れたままそこに座っていた。道行く傘をさした人々が、私に奇妙なものを見るような目を少しだけ向けて、すぐに通り過ぎて行った。


 ああ、やっぱり彼女は、本当は怒っていたんだ。本当は私が何かしてしまっていて、彼女はそれに怒っていて、仲直りなんてする気はなかったんだ。だから、この場所に、来ないんだ。

 目がじわりと、熱くなっていく。確かに頬を伝って落ちていくものがあるのに、それが雨なのか涙なのかはっきりしない。とても悲しい気持ちになったあの日の、雨の冷たさすら鮮明に思い出せる。よく通報されなかったものだと、呆れてしまう。


 もう帰ろう。そう思ったときのことだった。


「――ごめんなさい、待たせてしまって」


 それは、聞きたかった彼女の声だった。

 ハッと顔を上げる。きょろきょろと辺りを見回しても、すぐには彼女の姿を見つけられはしなかった。幻聴かとがっかりした。でも、彼女はいた。最悪な光景ではあったけれど、ちゃんと、いた。


 私の目が見つけたのは、彼女と、知らないおじさんが相合傘をしているところだった。少し無理した笑顔で、前回の私とのお出掛けと同じ服を着た彼女。雨が降っていて距離もあったから、見えにくかったけれど、それは確かに彼女だった。

 彼女は腹の突き出たおじさんの腕に絡みつき、濡れないようにきゅっと身を寄せて歩いていた。おじさんは、そんな彼女に、欲を丸出しにした目を向けていた。


 何が起こっているのか、わからなかった。

 とにかくその場にいても、彼女がこちらに来ないことだけはわかった。それだけは、はっきりとわかってしまった。彼女は私ではなく、不細工なおじさんと一緒にいることを選んだのだ。裏切られた気分だった。それまで、彼女を疑いはしていたけれど、なんだかんだ信じていた。それが裏切られて、湧き上がって来たのは怒りでも悲しみでもなかった。


 不思議なことに、私はすぐ、彼女を諦めた。彼女がそれを選んだなら、仕方ない。どこからどう見ても、おじさんと一緒にいる彼女は楽しそうでも幸せそうでもないけれど、何かしら理由があって、おじさんを選んだはずだ。ならば、私はいなくなったほうがいいと、思った。


 もう夜だし、雨は止まないし、服はこれ以上ないほど水を吸って重たい。もう帰ろう。そう思うのに、彼女とおじさんから目が離せなかった。充分に距離を取って、彼女たちの後を追った。


 傘もささない私が尾行するのは、とても奇妙な光景だっただろう。運よく変な目で見られても誰かに声をかけられることはなかった。


 親と学校に行くなと言われている地区に、彼女たちは進んでいった。そして、目が痛くなりそうなピンクの看板の建物に入っていく。


 私は二人が建物に消えたのを見て、必死になってそこから逃げ出した。人生で一番速く走れたのではと思うほど、死に物狂いで走った。重い服で、雨に濡れながら、時々滑って転びながら、走って走って家を目指した。もう涙すら出なかった。


 そこからしばらくの間、私の記憶はぼんやりとしていて、よく思い出せない。あんなに濡れて体も冷え切っていたのに、私は風邪をひかなかったのは、覚えている。

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