1-1

 彼女は一つ上の先輩だった。高校一年、入学前から毎日が楽しい生活を期待していた私は、見事に裏切られて無気力になっていた。楽しくないわけではない。ただ、さして中学と変わらない生活は、私を満足させるにはあまりにも日常的だったのだ。


 そんなときに出会った彼女は、私という人間の在り方を変えてしまうには充分すぎるほど、魅力的な人間だった。


 呼び止められた声にまず惹かれた。そして、その目に惹かれた。まっすぐ私を見つめる目には、思わず目を逸らしたくなるほど、吸い込まれそうなくらいの深い闇があった。今まで出会った人の誰も持っていないそれは少し不気味で、しかし鳥肌が立つほど綺麗で、運命を感じた。たった十数年生きてきただけの当時の私に、運命というものが何かわかっていたとはとても思えない。けれどそのときの私は、確かにそんなものを感じてしまったのだ。


 こちらからは見かけたことすらなかったのに、彼女は私の名前を知っていた。クラスも、番号までも知られていた。どこの中学から来たのかすら。不思議と、彼女に知られていることに、嫌な気持ちはしなかった。

 驚いた顔をしているであろう私をくすりと笑って、彼女は自己紹介を始めた。名前と、クラスと番号と、出身中学を言ったあと、すっとその白い手を差し出してきた。


「恋人に、なってくれませんか」


 彼女は、私が頷いてその手を取ると、絶対の自信を持っているようだった。急な展開に状況を飲み込めず、彼女の顔と手を交互に見る。たっぷり三分はそうしていただろう。彼女はそのままの体勢で私の返事を待った。放課後の正門横、帰宅する生徒が私たちを横目に通り過ぎた。


 悩んだのち、私は彼女の手を取った。よろしくお願いします、と小さな声で言えば、彼女は笑みを深めてありがとう、と返した。握った彼女の手は小さく、指先が冷たい。なんだか、長年の恋が実ったような、幸せな気持ちになった。


 あのときどうして彼女の手を取ったのか、今になってもわからない。私はどうして彼女の恋人になろうとしたのか、後に周りからどう見られるかわかっていて、何故それでも構わないと思えたのか。私自身、まったくわからない。ただ一つ確実なのは、彼女の手を取ったその瞬間、恋に落ちたということだけ。


 かくして恋人となった私たちは、けれど「それらしいこと」はほとんどしなかった。帰りに二人でバス停まで歩いたり、お昼に弁当を一緒に食べるくらいで、私は少し物足りなく感じていた。


 意を決して遊びに行かないかと誘ったときの彼女の表情は、嬉しそうな悲しそうな、複雑なものだった。まずいことを言ってしまったかとおろおろする私に、まず「ごめんね」と言って、場所はどこにしようかと無理に明るい声を出した。


「あの、やめましょう。無理に出かけなくていいです。すみません、わがままで」

「ううん、いいよ。ごめんね、何でもないから。わたしもそろそろ一緒に出掛けたりしたいなって、思ってたから」


 だから大丈夫だよ、という彼女は明らかに嘘を吐いていた。けれどここで私がなかったことにしたら、彼女を悲しませることになるだろう。わざと、気付かなかったふりをした。


 彼女の家は少しばかり遠いところに合って、もちろん私はそこまで迎えに行くつもりだった。私から誘うのだから当然私がそうするべきだし、もし彼女から誘われていたとしても、そうするつもりだった。けれど、他でもない彼女に断固として却下されてしまう。ゆるそうな見た目とは裏腹に、彼女は結構頑固な性質らしい。


 趣味と言えるものを私は持っていない。休日は基本的に寝てばかりいるし、暇だと思うばかりでそれを潰そうと行動することもなかった。だから、遊びに行こう、と言い出しはしたけれど、具体的なことは少しも考えていなくて、彼女の行きたいところに行こうと思っていた。しかし、優しい彼女は私の希望に沿おうとしてくれる。希望のない私は何も提案できない。結局、私の家の近くにある市立図書館へ出掛けることになった。


 私は本が読めない体質であり、授業以外で本と言えるものを開いたりもしない。そんな私とは正反対の彼女は、三度の飯より本が好きと言いきるほどの本好きだ。私立図書館は、私にとっては地獄で、彼女にとっては天国である。


 当日、私にしては気合の入った服で、彼女との待ち合わせの駅に、約束より一時間も早く到着した。初めてのことで緊張しすぎて、家に居られなかったのだ。彼女が来るまで一時間、馬鹿みたいにどきどきしながら待っていた。


 彼女の姿が見えたとき、私に尻尾があったなら、ちぎれそうなくらいにぶんぶん振っていたことだろう。彼女を見られただけで、とてつもなく幸せを感じた。


「ごめんね、待ったよね」


 申し訳なさそうに彼女が言う。時計を見ると、約束の時間を三十分ほど過ぎていた。

 こういうときはどう答えればいいんだっけ。人を待たせることばかりだった私は、上手い答えを見つけられず、結果、出てきたのは、


「い、今来ましたから、大丈夫です」


 ああ、救いようのない馬鹿だな私、と思った。


 目的の図書館は、駅から歩いて十分の場所にある。本の読めない私はもちろん行ったことがないし、違うところに住んでいた彼女も当然初めて入る。他のところより大きめだというその図書館に、彼女はきらきらと目を輝かせていた。


 ゆっくりと棚に並ぶ本を眺め、時々手に取ってページをめくる彼女は、騒ぎこそしないものの心から楽しんでいるのが見てわかる。ずっと見つめていたい表情だったけれど、他の利用者や彼女の邪魔にならないためにも、離れるしかなかった。


 フロアの端に机がいくつか並んでいて、ぽつぽつと読書をしている人や勉強をしている人が座っていた。その中に私も混ざる。空いている席に座り、持ってきた数学を広げ、無心になって解く。けれど集中はすぐに切れてしまった。今日の彼女はかわいかったな、とかそんなことばかり頭に浮かんできて、計算なんてとてもできなかった。彼女の私服は予想通り清楚な感じだった。梅雨明け間近の今日に長袖というのは少し奇妙に思えたけれど、前に日焼けはしたくないと言っていたから、そのためなのかもしれない。学校でも、シャツはいつも長袖だ。そんなことも気にならないほど、とにかくかわいくて、改めて私は彼女に心を奪われてしまった。


 しばらくして、彼女が本を持って私の向かいに座った。顔を上げた私に、にこりと笑いかけて、それから本を開く。真面目な顔をして読みだした彼女を、ずっと見ていたいと思った。

 あんまりじっと顔を見ているのも失礼だろうと思い、勉強の合間にちらちらと盗み見る。それはそれで失礼だったけれど、ころころ表情を変える彼女を見ないわけにはいかなかった。


 特に何をしたわけでもなく、本当に、私は勉強をして、彼女は本を読んでいただけだった。恋人同士としては味気ないもので、それらしい関係にも見られなかっただろう。けれど、私は充分幸せだった。今となっては信じられないほど、私は彼女のことを、純粋に好いていた。


 夕方になり、彼女を駅まで送って行った。行きはあった会話がなく、楽しくなかったか、何か気に障ることをしてしまったかと心配になる。


「今日はありがとう。とっても楽しかった。本当に、ありがとう」


 駅に着くと、彼女はそう言って、私の返事を待たずに人ごみへ消えて行った。どこか、急いでいるようだった。やっぱり私が何かしてしまったのではと不安が膨らむ。



 翌日の学校に、彼女は来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る