キヲク書庫

小林マコト

『彼女』

1-0

 夜の電車はどこか不気味だった。私と彼女のいる車両に人はおらず、まるで私たちだけが世界から隔離されているように感じた。窓の外の景色はきらきらと輝いているのに、私の肩にもたれかかる彼女の寝顔はただただ暗く、何かに耐えている。手を伸ばせない自分に腹が立った。


 このとき、私は決して彼女を救えないのだと思い知らされた。彼女を抱きしめても、薄い膜があるようで、どうしても一つにはなれない。心臓を握りしめられたみたいに苦しくなったのを、今でも思い出せる。



  *



 仕事の合間を縫って書いたものが、ようやく昨夜できあがった。すぐにでもあの人に読んでもらいたくて、営業開始時間ぴったりに着くように、家から出た。


 駅前の人が多く行き交う大通りから、細い道に入ってしばらく行くと、立ち並ぶ店とは明らかに雰囲気の違う、よく土地を確保できたなと感心するほど大きな洋館風の店がある。上手く営業開始ぴったりに来ることができたようで、そこの若い女店主の方が、店の前に腰ほどの高さのイーゼルと黒板を置いているのが見えた。


「綴さん、おはようございます」

「ああ、おはようございます。早いですね」


 成人したてらしい彼女、綴さんは、声をかけた私ににっこりと笑いかけてくれた。いつもと同じ紺のエプロンを着ている。



 百年先に、残したい記憶はありませんか。 ――キヲク書庫



 綴さんがたった今立てかけた黒板には、教科書のお手本のように整った字で、そう書かれていた。イラストも何もなく、ただそれだけが書かれた黒板は、不思議な魅力がある。かく言う私も、それに惹かれてこの店に入った客の一人だ。


 綴さんに促され、中へ入る。外装と同じく、内装も洋館風で、広々とした空間にたくさんの本棚が並んでいる。二階建てで、吹き抜けになっていて、下から見上げて上にも本棚があることが見てわかる。その三分の二ほどは、まだ空の本棚だ。奥の方には綴さんのお兄さんがやっているコーヒーショップがあって、そこで買ったコーヒーなら、店内で飲んでもいいことになっている。


 キヲク書庫、という名のこの店は、綴さんとお兄さんがやっている、ブックカフェのようなお店だ。ただし、ここに置いてある本はすべて、私のような客が書いたものばかり。置いてある本は自由に読めるけれど、買うことはできない。


 ここに置いてある本は、すべて客の残したい記憶なのだと、初めて訪れたときに綴さんから説明を受けた。ここで売っているのは白紙の本だけで、それを買って自分の残したい記憶を書き、五千円を払って綴さんに渡せば、百年先までここの本棚で保管されるという仕組みだ。百年経ったら、著者に返却するか、燃やして処分するらしい。五千円で本を百年も保管するなんて、とてもではないがやっていけないと思ったのだけれど、綴さんは利益を求めていないらしい。


 私は本の読めない体質だけれど、よくここに通っている。コーヒーを買って、壁際の席に座ってぼうっとすると落ち着くのだ。何をするでもなく、落ち着いた空間にいるだけ。綴さんはそんな客である私に嫌な顔一つ見せず、むしろよく話に付き合ってくれる。そう賑わうような店でもなく、客の入りも少ないので許されることだろう。


「綴さん、これ、書いてきました。私が百年先に、残したい記憶です」


 タイトルの書かれていない、落ち着いたダークブラウンの本を差し出すと、彼女は大切そうに受け取って、また笑った。

 本の読めない私が、自分の話を書いてみようと思ったのは、ほんの数日前のことだ。色々と拙いところはあるだろうけれど、なんとか書き上げられた。


「わあ、ありがとうございます」

「文章がおかしいとか、そういうところは見逃してくださいね」

「わかってますよ。本、読めないんですよね」

「はい、だから、学生のとき国語で習ったことしかできなくて。あと、綴さんが期待しているような楽しい記憶じゃないって断言できます。すごく暗いんです」

「どんな記憶を書くかは、お客様次第です。決まりなので読ませていただきますよ」


 もちろんだ。むしろ、綴さんに読んでもらいたくて、一生懸命書いたのだ。思い出すのもつらい記憶だけれど、私という人間を創り上げた、一番大きな出来事なのだから。

 少し恥ずかしい気がして、それは言わなかった。お願いします、と言って、私はコーヒーを買いに行く。戻って来たら、綴さんはカウンターの中で私の書いた本を読んでいた。


 苦いブラックコーヒーを飲み、その姿を眺めながら、私も本に書いた出来事を思い出す。



 あれは、高校一年の、夏の直前のことだった。

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