第10話「捕捉」
「やあ、こんにちは」
フェンス越しに英治がそう笑いかけると、少女はぴたりと立ち止まった。目をまん丸くし、小首を傾げて英治を見返してくる。植え込みからいきなり姿を見せた英治に驚いているみたいだが、警戒や怯えはなさそうだった。他の子供たちはずんずん先へ行ってしまった。少女は一人そこに残って、英治を見つめている。
「こんにちは。君、かわいいね」
もう一度呼びかけても少女は黙ったままだ。その顔には、年相応なのか、何かぼんやりした、つかみどころのない雰囲気があった。だが目鼻立ちははっきりしていて可愛らしい。ねぇー、と先に行った子供たちの集団から一人が少女を呼んだ。ずいぶん遠くから声が聞こえた。少女はそちらを向いて一度手を振った。それから声は聞こえなくなった。集団は少女を残して帰ったらしい。あっさりしてるんだな、と英治は小学生たちの距離感に驚いた。
少女は英治に視線を戻して、また見つめてきた。まっすぐな眼差しに、英治は恥ずかしさを覚える。きっとまだ小学校一年か二年くらいなのだろうが、そんな子供でも、じっと見つめ合っているうちに、英治は「異性」を感じてしまった。自分は変態かもしれない、そんな風には考えなかった。純粋に高揚していた。
英治は少女に笑顔を向けながら、フェンスを端に移動した。角のあたりが破れてめくれ上がっているのをさっき見つけたのだ。そこから手招きしたが、少女は、顔だけは彼を追ってくるものの、子供なりに何かを感じ取ったのかその場から動こうとはしない。
少女の意外な慎重さに英治は苛立ったが、笑顔を崩さずに手招きを続けた。だが内心、誰か通らないかと気が気でなかった。その時、彼がさっきまで隠れていた植え込みがガサガサと揺れた。痩せて毛並みの乱れた野良猫だった。
猫を見て少女の目が輝いた。英治は少女の笑顔を見た。思わず引き込まれるような、屈託のない笑みだった。
野良にしか見えないのに、よほど人に馴れているみたいで、猫はまっすぐ英治のほうへ歩いてきた。足元まで来て、彼のスネに腹や尻をこすりつける。猫は英治がそっと手を伸ばして尻に触れると、尻尾を立てて喜んだ。
フェンスの向こうの少女は、猫が英治に体をすり寄せるたびに、わあ、とか、きゃあ、と言いながら手を叩いた。英治は、今だ、と思った。
「かわいい猫ちゃんだろ、君も、なでてあげなよ」
少女は何も答えない。だが英治と猫を交互に見た後いちど頷くと、小さく走って彼の前まで来てしゃがみ込んだ。そして困ったような顔をした。フェンス越しの猫にどう触ればいいのかわからないらしい。英治はそれまでで一番の笑顔をして、言った。
「大丈夫、ほら」
足元のフェンスの破れ目をつかんで、手前にたくし上げた。そこにぽっかり、ちょうど少女がしゃがんで通れるくらいの穴が現れた。最初目を見開いていた少女は、すぐに笑顔になって英治に向かって頷いた。
四つん這いになった少女が、フェンスの穴ぼこに片手を差し入れた時、英治はフェンスをめくり上げているのとは反対の手でそれをつかんで、力まかせに引き寄せた。
少女は小さく悲鳴を上げたがすぐに彼から口を塞がれた。顔いっぱいに怯えが広がった。英治のすぐ脇にいた猫は驚いてその場から姿を消してしまった。
英治は片手を振りかぶり、思いきり振り下ろした。こぶしは少女のこめかみと頬骨の間を打った。全身を一度びくんと震わせた後、少女は気を失って脱力した。その間、前の通りを通る人は誰もいなかった。
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