第8話「運命」
あの日、英治は雑誌を夢中で二度読み返し、ほとんどトリップ状態になって、ふらふらと工場をあとにし、気づくと自宅の前まで戻っていた。遠くの空は白み始めていて夜明けが近かった。家に入ると、彼を心配して一晩中起きていた母親が奥の寝室から飛び出してきて、玄関先で泣かれた。当時英治はまだ携帯電話を持っておらず、母親は連絡を取ることができなかったのだ。
玄関のドアを開けるまで、彼の頭の中にはあの欲望が大きなかたまりとして確かにあった。
人を殺してみたい。
視界に入った誰でもいい、次にすれ違った人間を殺そうか、そういうことをぼんやりした頭で思い浮かべながらよろよろと家までの道を帰ったのだった。母親でもいいじゃないか。そんなことさえ考えた。
だが玄関で、化粧っ気がなくシワの多い顔で涙を流して怒る母親を前にすると、そんな考えはすっかり消えた。わめき疲れた母親が寝室に戻った後、自室のベッドに倒れ込んでそのまま眠った。
それ以来、英治は時々何かの拍子にあの工場と雑誌とその内容を思い出すことはあっても、雑誌の毒気に当てられてふと抱いたあの欲望を思い浮かべることはなかった。厳密には、少し違った。頭をもたげる欲望を意識的に無理に押さえ込んだ、そういう感じだった。ただ、そうしようと努めているうちに、いつの間にか、本当にあの時のどす黒い欲望は影を潜めた。だが無くなったわけではない。塊だったものが薄く延びていき、まるで絶対に落ちない汚れのように、頭の中を走るあらゆる管の内側にべったりとこびりついていただけだった。
その工場に、今、もう一度やってきた。本当に久しぶりだ。あの、刺激的な雑誌を読みふけって以来だった。英治は二階の小部屋の畳に腰かけながら思った。
考えてみるとおかしな話だな、英治はそう思った。あれほど夢中で読んだ雑誌にも、雑誌が落ちていたこの工場にも、自分はまったく執着しなかった。普通であれば、もう一回行こうと思うはずだ。だがそうしなかった。こういう疑問を持つこと自体が、はじめてのような気がする。
ああ、そうか。英治にはその理由がなんとなくわかった。抑圧していたのだ。これは何かやばい、このまま進んでしまうと俺はやばいことになる、直感が脳にそう告げて、自分で自分を押さえ込んだのだろう、英治はそう思った。その上で改めて振り返ると、あの時偶然この工場を見つけたのも、思いきって立ち入ったのも、二階のこの場所で危険な雑誌と出会ったのも、すべて決められていたのではないかと思えてきた。
全部、今日という日のためのもの。今日これからすることに、つながっていたのだと英治は信じて疑わなくなっていた。
もちろん小部屋の中はさっきひととおり見回した。だが雑誌は見つからなかった。前回来た時から四年ほど経っている。自分が侵入したのだから、他の誰かが入ってきていてもおかしくない。もう一度読むことができないのは残念だったが、それ以上に、あの雑誌を持ち帰った別の人間がどう感化されるのか、されたのか、そのことのほうが気になった。矢崎あたりが持ち帰ったのかもしれない。
矢崎がここに忍び込み、いつかの自分と同じようにあの雑誌を見つけて夢中で読んで、家に持ち帰るイメージがふいに頭の中に浮かんだ。案外当たってるかもしれないぞ、英治はそんなふうに思った。
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