Chapter5 ③
どこからか吹き込んだ風がサッと匂いを変える。
湿った雨の淀む灰色から、鮮やかな
風が変わった。
いつの間にか松明も消え、ただ薄青の光がまだらに照らす地下牢で、僕は寝転がったまま朝の訪れを知る。
あのセル・ヌーガなる〈
思うところ。考えるもの。
全てが大きすぎ、ありすぎる。
天井にじっと向き、どこかを滴る水の音を聞く。
ようやく感じ始めた眠気に目を閉じると、彼との会話が生々しく僕を
***
柔らかな態度を一変させ、怒りを隠そうともせずにセルが牙を剥く。
「争いがなくば平和という! 問うぞ、争いとはなんぞや!」
彼の背にする〈
しかし彼はそれを捉えて嘲笑を浮かべる。
「戦争! ああ、然り。戦争もまた争いなり。
しかしそれは目に見えるだけの、そして目に映るほどに肥大した争いの形に過ぎん!」
しかし、とセルが目を剥く。
「世にはなお争いが、目に見えぬ、見ようともせぬ争いが満ちておる!
それは悲劇と呼ぶべきか、人間が人間であるゆえ避けがたし闘争よ!
王が民を苦しめ、民が罪人を嗤い、罪人が弱者から奪い、弱者は動けぬものをいたぶる。
そして王は、責務に虐げられる」
彼の演説が役者のそれであるなら、背に燃え上がった〈邪神〉は怨嗟のバックコーラスか。
彼の声が熱を帯びるほどに、それは気配を増大させていく。
「人が人である事は、他者を傷つけずにはおれぬという事。
下は些細な口論から、上は数万人を焼く戦まで、己が欲望を
全ては人の人たる
「これを救済する手はただ一つ。
全ての人をして一つの心にまとめ、
そして万能たるその秩序が人をして人の
そこにこそ人類全ての探し求めたる平和が開かれようぞ!」
『彼らは人間を家畜と同じに思ってる。だから全滅しないように管理する。人間本来の生き方させてたらすぐ滅ぶと思ってるらしいね』
「そうやって……人の負の面ばかり見て、それで人を縛ろうというのか」
今にも気配に押しつぶされそうになりながら僕はセルに抗弁する。
聞きつけた黒衣の演説者は、我が意を得たりと口を開けて大笑した。
「負の面ばかりとな〈
いかにも〈
しかし
誰の視座でものを語るか」
誰の視座……誰から見て、人間のあるがままが貴いのか、だって?
「そうとも、それは〈神〉の視座なり。
地に這い、地を汚して生きる人の視座にあらず。
我らとて呪われた闘争から解き放たれたいのだ。願わくば誰も呪うことなく、誰を傷つける事もなく生きたいのだ。
我が身も人であるが故に、そしてレイ王子、それは貴様も同じであろう」
彼の〈邪神〉が急に影をひそめる。
同時にセルもあの穏やかな顔に戻り、僕に合わせて床に膝をつく。
「支配する事が目的ではないのである。
全ては救われねばならぬ。
今はまだ人は世界にたいして弱い、小さな存在に過ぎぬのである。
しかしいつかは人が増長し、取り返しのつかぬ蛮行を行う日が来るのである。
今ならまだ間に合う、いま救わねばならぬのである」
それは嘆願にも似た、おおよそ説得や演説とはかけ離れた弱い声だった。
「たとえ我らが邪道と、悪と
そして
レイ王子、今一度よく考えるのである。王子が抗った先に何が待つのかを。
そして願わくば、共に手を取り合って未来を築こうではないか」
セルがローブの裾をひるがえし、闇の中へと離れていく。
***
「何が待つか……」
夢の中と変わらぬ暗闇の中、僕はぼんやりと考える。
カルネと契り、母上に逆らい、エド翁に認められ、スウェリンに
そして敵に教えられ。
その先に待つものが、僕にもすこし見えてきた気がする。
それは戦。
この国を挙げた、いやもしかすると、それ以上の規模になる戦。
霧を晴らす。ただそれだけと思った事が、実はもっと大きな何かに繋がっている。
人をして欲望を
セルが言っていた。
カルネの見方は〈神〉の視座であり人のものではない。
あるがままを尊重する事が悪を許容するなら……
いや、そもそも善悪とは何なのだろう。
それこそ視座一つで変わる、単なる指標に過ぎないのではないだろうか。
僕は何をして善と思い、何をして悪と決めていたのだろう。
僕の善、僕から見た善。
僕の悪、僕から見た悪。
答えが出ない。
眠い……
***
『ながらうべきか、それともしするべきか』
僕の意識に
『我が
おはよう〈
『我は今、主と〈
双方からの求めに従い力を貸しおれば、我の心を呼び覚ます力、ようよう溜まらざりに』
不満げな気配が声にのって流れてくる。
この一ヶ月ほど何も言ってこないと思ったら、僕とカルネに力を取られていたらしい。
ごめんね、迷惑かけっぱなしで。
『構わぬ。これは我が選んだ道なり。
我が主が今も
闇を揺らして微笑む気配が伝わってくるが、すぐにそれがふっと
『汝の心に影が見える。何事か心砕く事ありや?』
ちょっとね、君が寝ていた間に色々とあって。
『今感じ得たり。我が主、迷うておるか』
うん。
僕自身が何を目指して、何を頼りに進んでいけばいいのか迷ってる。
さっき〈眷属〉に会ったよ。
僕の善も、僕の悪もすっかりぐちゃぐちゃしちゃった。
『ふむ、〈眷属〉の言葉にも感ずるところありか。
なれば我が助言もまた、偏りたる見方とならん……我が言葉も欲するか?』
気を使ってくれてありがと。
でもいいよ。
よく
『茶化すでないわ我が主! ふ、ふむ、そこまで言うのであれば、一つ話そうぞ』
何だかんだ言って〈騎士〉もカルネによく似てる。
話したがりというか聞いてほしたがりというか。
ひょっとして他の神衣も、例えば〈レディ・ドレス〉あたりもそうだったりして。
『聞こえおるぞ我が主……まぁよい。
我思うに、主の悩みは悩みそのものが答えなり』
悩みそのものが答え?
『
思うがままに欲を抱き、どこまでもその答えを欲する。
善も悪も、それを見いだしたきと願う人の欲が産み出したれば、確固たるもののなきはそれ当然の事なりに』
善も悪もない?
『否、善も悪も無数にある。
ただ絶対の善なく、絶対の悪なき。
信ずる善が崩れて道に
唯一の指標って。
『
主の望まぬは捨て、望むものにこそ専心すればよい』
でもそれが間違っていたらどうする。
僕のせいで誰か犠牲になったら。
『では我が主、汝は間違わぬ生き方を望みしか?
なれば何を持って間違いとするか』
何を持って……あっ。
『そう、正しきも間違いもまた善悪の顔なり。それを決むるのもまた主なりや。
犠牲有るか否かは、それは我には何ともいえぬ。
我は武の化身。
武の神話は犠牲を
〈騎士〉はしばらく沈黙する。
僕に考える時間をくれる。
迷う僕は、何に迷っているのか。
自らが正しくない事に? 自らが寄る辺ないことに?
霧を払いたいと願った事から、そう欲した事から全てが始まった。
もっと言えば、それは三年前から同じ。
〈騎士〉と出会ったそのときから変わらない。
そう、僕は守りたかったんだ。
あるがままでもいい、善でも悪でもいい、ただ守りたかった。
ただ
僕は単なる僕で、それ以上でも以下でもない。
救ってやるなどと
何もできないなど見下げている。
ただの僕として、できる事から一歩ずつ
守るべきものと共に、守りたいと願う者たちと共に。
「僕が何を守りたいのか、その答えを探しに行く」
『それが我が主の指標なりや?』
うん。
今はまだ分からない。でもそれでいいんだ。
いつか答えを導き出すまで、僕の旅は終わらない。
終わらなくていいのかも知れない。
見過ごせない悲劇があるなら、僕はそれに抗うだろう。
真実のひらめきを見るなら、僕はそれに従うだろう。
間違う事など何もない。
「全ては僕の、僕による、僕のための旅路なんだから」
『良く言うたぞ我が主。それでこそ我が
また認められた。
わかってはいても、つい嬉しくなっちゃうなぁ。
『当然の事なり。
認められれば嬉しく、拒まれれば悔しい。それも
それを無理に隠すも苦しく、さりとて吐き出すも辛い。
ほんに魂とは
夢の終わりが近い。
どこからか水の滴る音がする。
『
……何の話?
『はて?』
一滴。
また一滴。
僕は夢から抜け出すと、拳を振り上げてその名を呼んだ。
「
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