Chapter5 ④
素肌に風が気持ちいい。
〈
体が軽い。
女性としての体にも、長くなった手足にも戸惑いはない。
自在に体を操って僕は並ぶ屋根を駆け抜ける。
『すでに鎧は我が主の体に馴染みたり、存分に駆けるがよい』
ちょっと偉そうな助言に苦笑しながら、低い商家の屋根から神殿の尖塔へと飛び移った。
濃い宵闇を見通せない代わりに、肌に感じるわずかな予感を頼りにして尖塔の鐘楼へ滑り込む。
月明かりもなく、空を飛ぶ精霊もまばら。
ペンヴリオ市街をそれと判らせるのは、かん高い呼子の笛に揺れる少ない松明だけ。
僕が脱走した事はもう相手に知れている。
魚類めいた奇妙な軽装鎧の兵士たちが町を走り回ってるが、幸い上には目が行っていないようだ。
ま、上見たところで何も見えないけどね。
空に向けた目に映るのはベッタリした黒だけ。
月はおろか星や雲すら姿を隠している。
一帯を覆った黒い霧が、空の
そのまま息をひそめて下を観察していると、ウロコ模様の胴当てを付けた兵士の一団が神殿前で立ち止まり、何事かを相談し始める。
彼らの言葉に耳を向けてみるがまったく理解できない。
聞き馴染みが薄いどころか、それが言葉なのかさえ疑いたくなる。
せめて内容が分かれば方針が立てられるんだけど。
『手を貸そうぞ。
完璧とは言えんが、言葉に含まれる想いは我にも拾える
〈騎士〉がそう言うそばから、兵士たちの声に別の言葉が途切れがちに重なる。
「か? 見つけるした、何か」「否。だない、ネズミ海、も」
「か? 訊ねる、良い。我々、探すしている、何を」
「だ少年、か少女。誰、着るた、小さい背丈、赤い髪」
なんとか意味をつなぎ合わせて推理する。
それはどうやら僕の特徴についての会話らしいが、捜されてるのは断続的になる呼子の音ですでに確実だ。
他の情報がないか、僕はさらに耳をそばだてた。
「これだ、ナマコ尻尾。誰、捜すされる、確実、逃げる、た東」
「言う否。東だ、固い閉ざす。同じだ、北、と南」
ナマコの尻尾? ナマコに尻尾なんてあったっけ?
いや、それは置いとこう。
問題はそのあとの部分だ。
東は固く閉ざされた、北と南も同じだ。という意味に取れる。
もし兵士の配置を指しているとすれば、それはペンヴリオに三つある城門のうち北の大橋と、南と東にある大城門は封鎖したという内容だろう。
例え封鎖されていようが、今の僕なら逃げるのは難しくない。
ペンヴリオの城壁は低いから、このまま屋根づたいに行けば抜けられるだろう。
しかし腰を上げたところで、飛び込んできた兵士の言葉に僕は動きを止める。
「か? 良い、西、守るない」
「ない、心配。
吐く巨人、を霧。
目的語を後ろに回すらしい彼らの言葉だ。「霧を吐く巨人」と言ったのだろう。
それに強く引っかかる物を感じる。
霧とは〈黒い霧〉の事だろうか。
それを吐く巨人、つまり霧を発生させている機装があり、それを守るために大僧正、おそらくセルがそこに行った……
『逃げぬのか?』
〈騎士〉の問いかけに頭を振り、僕は向きを変えて海の音が聞こえる方角、西へと静かに踏み切った。
「逃げるのはいつだってできる。今は少しでもやれることをやるんだ」
『承知』
かすかなマントのはためきを残し、僕は再び屋根瓦を踏んで走りだした。
***
「とにかく
「はぁ、……
頭をこすりそうな低い廊下を走るアデルの後ろで、スウェリンと、彼を抱き上げたシンディが言葉を交わす。
アデルたちはウルナッハに協力を約束する書類を書かせたあと、急いでレティヒェンへの帰路についた。
途中から目的地はケルニュウに変更されたが。
何事かに気づいたシンディにいきなり抱えられ、アデルは早馬すら置き去りにする駆け足でグアレウス宮へ運ばれた。
理由をたずねようかとしたが、疾走するシンディの鬼気迫る顔に何も言えず、そして言わなくともだいたいの察しはついていた。
レイに何かの危機が迫っている。
はたしてグアレウス宮に飛び込んだ彼女たちを、スウェリンはすぐに客の寝室へと案内してくれた。
「カルネっ! レイに何が…………お前、それは……」
扉をもぎ取るようにして部屋に飛び込んだアデルは、しばし言葉を失う。
ベッドの脇にはジョンと医者のローブを着た数人の小人が立ち、うつぶせに伏せった人物を介抱している。
それはカルネだ、いやカルネだったと表現するべきか。
ベッドを染める鮮血の海に沈んだ少女は、その背中から臀部に至るまでのほとんどの肉を失っていた。
背筋に沿って白く突き出すのは骨か。
それも戦場で死体を見なれたアデルには、主立った骨のいくつかが欠けているとわかる。
にもかかわらず少女は生きていた。
苦しそうな呼吸に合わせて背骨や肋骨が動き、弱い鼓動に残った肉や血管が震えている。
「どう君たち、少しは何とかできた?」
小人の王がベッドをのぞき込んで医者たちに問いかけるが、誰もが首を横に振る。
「手の付け所が有りませんよ陛下。生きてるのだって信じられない」
「傷ぐらいふさげないの?」
「無茶言わんでください皮も肉もないのに。
それにこのご婦人、なぜか精霊が寄りつかんのですよ」
「そりゃ困ったねぇ」
そうつぶやいて白衣の王がアゴをかく横を、まるで夢遊病者のような頼りない足どりでジョンが過ぎる。
彼はアデルの前で椅子にどさっと腰かけると、親友でもある彼女に深く頭を下げた。
「申し訳ない、全て僕のせいだ。彼女は僕をかばって……」
「待て、待てまてジョン。
何が起こったんだ? 頼むから詳しく聞かせてくれ」
アデルがジョンに付く一方、ゆうに百マイルは走ったであろうシンディが荒すぎる息を噛み殺してカルネの横に行く。
「カルネ……さん……」
驚いた事に、カルネはその声に手を上げシンディに弱々しく笑った。
何か言いたいようだが、微かにその喉が鳴っただけ。
アデルは努めてカルネから目を離し、親友に事の次第を問う。
ジョンは憔悴していたものの、混乱せずに詳細を最初から聞かせてくれた。
黒い霧を見に行った先を敵が急襲し、黒い翼を持った巨人がレイを連れ去った。
巨人の吐息で砦が崩壊し、カルネはジョンをかばってこの傷を負った、と。
巨人とは機装であろうと当たりを付けるが、アデルは疲労困憊のジョンからそれ以上は聞き出せない。
彼はもう一昼夜、この状態のカルネに付き添ったのだという。
話し終わった終わったジョンを椅子に寝かしつけて、アデルは顔を上げた。
するとシンディがしきりに何かにうなずくのが見える。
「シンディ?」
「アデル様。ちょっと今、カルネさんと話しているので」
そう言って彼女がメイド服の襟をつまむのを見て、アデルは彼女が何をしているのかをすぐに理解する。
声は出せずとも、〈神衣〉を介して彼女と女神は意思を交わしている。
「はい、伝えます。
アデル様、カルネさんは心配いらないといってます。
体はあくまでも飾りだから大丈夫だって」
「大丈夫だと言われても、治せないのか?」
本人がそう言ったところで、いくら何でも重傷を放置するなんて。
もし戯れでやってるなら頭を叩いてやる。
そんなアデルに、シンディは再びカルネの声を届ける。
「いまはレイ様の捜索にできるだけ力を使いたいって。
だから体の方はほったらかしにしてごめんなさい。だそうです」
「捜索……そうだった、済まない」
カルネの惨状から頭を戻せば、レイがさらわれたという事実が重くのし掛かってくる。
カルネは自らの肉体を後回しにして、今もレイを捜してくれているのか。
「それで見つかったのか?」
「……まだだそうです。死んでないのは確かだけど、離れすぎてどうしてるか分からないって」
「死んでない、か。
しかし相手は〈邪神〉だろう?
お前と関係のあるレイをいつまでも放置しているとは思えんが」
「それについては同意、だから一刻も早く見つけ出さないと……そんなレイ様が!?」
カルネが何を言ったのかは、シンディの青ざめた顔を見れば見当がつく。
すでにレイが連れ去られて丸一日。
その命が刻一刻不確かな物になっていくのを、全員が手をこまねいて見ているだけとは。
アデルは自分が腹立たしかった。
武道には自信がある彼女も、あくまでただの人間に過ぎない。
砦を丸ごと砕くような機装に対し、彼女の出る幕はないのだ。
シンディは〈神衣〉を手に入れて奇跡をもたらした。
なら自分は?
こんな事を考えるべきではないが、今この中で最も役に立たないのは自分ではないのか?
しかし、そう責めた所で何か策が浮かぶでもない。
空を飛ぶ機装はカムリへと飛んだというが、では馬をカムリに向けた所で自分に何ができるというのか。
そのとき、ベッドの上でカルネの体が大きく跳ねる。
横ではシンディが、苦しそうに胸を押さえてうずくまった。
「どうした二人とも!」
「わからないです。アデル様、なにか、何か入りこんでくる……
これってカルネさん……これが、〈邪神〉? レイ様から?」
「〈邪神〉がレイを害しているのか?」
「いえ、この締め付けられる感じ、これは……」
カルネの手がほんの少し上がったのを、シンディが両手で取った。
「わかりましたカルネさん……
アデル様、レイ様が〈邪神〉と戦ってるそうです。
でも力がほんの少し足りないって」
「まさか負けるのか」
「いえ、今から私とカルネさんで力をレイ様まで届けます。
私は倒れるかも知れませんが――あと、お願いします」
アデルは無言で首肯し、親友の背に寄り添った。
「始めましょう、カルネさん」
カルネの大きく開いた背中の上で、シンディに同意するように微かな光がまたたく。
光は一瞬で展開し、部屋いっぱいに翼のような紋様となって満ちる。
あわてふためいて医者たちが部屋の隅に逃げ、スウェリンすら驚きに目を見張る。
光の翼は数秒ほど形を止めていたが、やがて崩壊し、細かい光の粉になって消えた。
気を失って倒れ込むシンディを支えたアデル。
その瞬間、彼女は信じられないものを二つ目の当たりにした。
一つは、見る間に滑らかな肌を取り戻していくカルネの背中。
そしてもう一つは、ほんの刹那だけ瞳に映ったもの。
巨大な機装を一刀のもとに叩き斬る、華奢な赤い髪の乙女。
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