Chapter5 ②


一滴。

また一滴。


どこかで水滴が落ちる。


一滴。

また一滴。


僕は、どこにいる?


『――…………――……』

やはりここ・・は変えられない……?


そう言ったのは誰?

あなたは、誰?



 ***



石に跳ねる水の音。


僕は見知らぬ天井を見ていた。

カビが点々と生えた木の梁と染みだらけの天井板。


目の前を青の精霊が跳ねていく。水が近い。


手で探ればワラの束だろうか、僕の下に敷かれた粗いものが触れる。


ここはどこだ。


思い出す。いや思い出そうとする。

ちらつくのは海辺の景色、黒いローブ、眠気。

そしてジョンの元へと飛んでいくカルネ。


そう、か……いや、それでいい。

僕はただ偶然、彼女の伴侶になっただけだ。

救うべき人が他にいたっていいんだ。


身を起こすとあたりは薄暗かった。

離れたところにぽつんと松明が燃え、壁は一面コケの生えた丸石。


青の精霊光が僕と松明の間に何かがある事を教えてくれる。

黒く立ち上がった縦縞。それは鉄格子だ。


「地下牢、か……?」


暗さに目が慣れていくにしたがい、周りの様子がはっきりしてくる。

狭い地下室、いや、やはり地下牢か。


僕が寝ていたワラの寝床以外、目立ったものは置かれていない。

カビと微かに海の香り。

地下牢に付きものの血と汚物の臭いがしないのは、ここが普段は使われていないからだろうか。


もう一度松明に目を投げ、そして僕は気づく。


誰かが座っている。

最初に見逃したのは、その人物の服があまりにも黒かった事と、眠っているのか微動だにしなかったせいだ。


手に本を持った灰色の髪の人物。

松明の明かりに反り返った長い山羊ヒゲがちらりと照らされる。

一度見たら忘れそうもない特徴的なヒゲ、まさか……


「ん、ふはわぁ、寝てしまったのである……

 おぉ? これは失礼した。目覚めたのであるか?」


やにわに目を覚ましたその男は、悠然たる伸びを上げると、まるで客人を迎えるように親しげな笑みを浮かべた。


しかしその友好的な表情も、死人より不健康な血色の悪さと落ちくぼんだ目、何より滑稽すぎるほど滑稽な山羊ヒゲのせいで台無しだ。


一つだけその顔に効果があったとすれば、あまり怖くないという事ぐらいか。


「わ、吾輩の顔に何か付いているのであるか? まさか涎であるか!?」

あわてて袖で口をぬぐう仕草もどこか滑稽だ。


僕は鉄格子に歩み寄る。

「ここは? あなたは?」


「うむ、ここはそう……貴殿らの言うところのペンヴリオという町である。

 もっと詳しく言えば、その海辺に立つ寂しげな館の地下であるが、我が輩はこの何ともいえぬ風情にいたく感動してな、そこでこちらに我が書斎と…………」


古い書物から抜き出してきたような仰々しく古くさい言葉づかいで、その人物は延々と語り出す。

いかに自分がこの侘びた雰囲気を愛しているか、この家の蔵書には大変助けられた云々。


鉄格子を握ったまま、僕は呆然とその話を右から左に聞き流した。


だが最初の地名、聞き間違えでなければペンヴリオと言っていた。

それは黒い霧に飲まれた城砦都市の名。

目の前の人物が黒騎士と行動していた事実と合わせるなら、僕はつまり……


「……しかるわけで、貴殿を捕虜にするに当たってここしかあるまいと思い、その牢へ寝かせたのであるが寝心地はどうであったか?

 どこか痛いところはないのであるか?」


「ああ、いえ……特には」


「それは重畳である。

 ああそうそう、吾輩の名をお尋ねであったな?」


その人物、いや老人といっていいだろう。

老人はわざとらしく黒い杖を地に打ち、胸を張ってその名を宣言した。


「吾輩の名はセル・ヌーガ。

 栄えある〈アトラテア帝国神王しんのう王朝〉の忠実なる臣下にして、ウヴ神王陛下の〈大僧正だいそうじょう〉である!」


「……………………はい」


「わかったのであるか?」


「いえ、まったく」


言葉自体は理解できたが、出てきた固有名詞に心当たりが全然ない。

なので反応に困り、僕は素直に首を振った。

前にカルネが初めて名乗った時もこんな感じだった気がする。


彼、セルが名なのだろうか、ともかくセルはちょっと考えてはポンと手を打ち、それを三度ほど繰り返してから僕に向き直る。


「うむ、まぁ、なんだ。

 我が国が〈西方大陸エウロペイア〉にて無名なのも仕方なしなのである。

 よく考えみれば、未だ我らは名乗らずおったからな。

 うん、では、もう少しわかりやすい名乗りをして進ぜよう」


セルは咳を一つ打つと、再び芝居がかった仕草で胸を張る。

「吾輩の名はセル・ヌーガ」

「そこから?」


「ええいまあ聞け、吾輩の名はセル・ヌーガ。

 栄えある〈アトラテア帝国神王しんのう王朝〉の忠実なる臣下にして、ウヴ神王陛下の〈大僧正だいそうじょう〉。

 そして、王朝軍イニス・プリダイン侵攻の全てを取り仕切る〈軍観ぐんかん〉である!」


「はぁ…………はぁ!?」


「今度こそわかったのであるか?」


「あなたが……いやお前が黒い霧の……」


「左様!」

セルが意味もなく杖を振り回し、音高く床石に打ち付ける。

「我こそが、イニス・プリダインを狙う……〈邪神トイフェル〉の信徒にして貴殿の忌むべき敵というわけなのである。

 プリダインの可憐なる王子。

 〈反抗者シュトロイベロ〉の〈御使いアポストニゾ〉たるレイ・アルプソークよ」


「そ……れはともかく、その振りはちょっと」


「どこか滑稽であったか?」

拍子を刻むように杖を振るセルに、驚きより先に笑いを噛み殺すので必死だ。


僕は無理やり彼の仕草を意識の外に追いやると、頭の中で発言を整理する。


つまりセルと名乗るこの老人はどこかの国の臣下、おそらく重鎮であり、黒い霧に紛れてプリダインを襲った軍を指揮している。

そしてもう一つ、この男は僕の事もカルネの事も、さらに〈邪神〉のことも知っている。


彼の言うとおり、僕にとっては敵以外の何者でもない。

そう認識した途端、総身を戦慄が駆け抜けた。


「お前が姉さんを!」


鉄格子の間から伸ばした手はセルに届かず、僕の指先はむなしく空を切った。

対したセルは軽く後ずさると、フム、と首を傾げる。


「はて、姉君あねぎみとな? いや、吾輩には何の事かわからんのであるが」


「とぼけるな! 三年前だ! お前たちの霧に姉さんは殺されたんだ!」


「三年……となれば吾輩が〈軍観〉に着する前の事であるか…………おお、そう言えば耳に覚えがあるのである!」


「そうだ、お前たちが殺したんだ!」


猛る僕に、しかしセルは「いやいや、それは思い違いである」と首を振る。


「確かにイニス・プリダインの王族を一人捕虜にしたとは聞くが、処刑してはおらなんだはずである。

 そう、確か本国へ移送したか……うむ、確かにそのように聞いているのである」


処刑していない?


膝から力が受ける。姉さんは死んでない……

なら助けなくては、今度こそ、今度こそ助けなくては。


「ふむふむ、偶然とはいえ重畳重畳ちょうじょうちょうじょう、話す切っ掛けができたというものである。

 どうであるか? 貴殿さえ良ければ吾輩が力になれるかもしれん。

 お互い歩み寄れば、無事に姉君と再び会う事もできるのであるぞ?」


「歩み寄るだって?」


「左様。何のために貴殿を生かして捕らえたか。そう、全ては……」


セルは大見得を切って杖を音高く打ち鳴らした。


「平和のためである!」


その言葉に僕は耳を疑った。


イニス・プリダインにへの侵攻が平和のため?

そのために僕を生かして捕らえた?


「信じられないという顔をしているのであるな。

 しかし信じて欲しいのである。我々は無駄な争いを望んではいないのである」


彼は先ほど腰かけていた小さな椅子に再び腰を下ろし、諭すように優しく言葉を続ける。


「貴殿には、ぜひ女王陛下との交渉役になって欲しいのである。

 話し合いのテーブルが用意されれば喜んで参加するものであり、その結果国交が樹立されれば、本国に送った捕虜の返還も約束するのである」


その優しい口調に、しかし僕の頭の中で小さな警鐘が鳴る。


そう思っているならなぜ三年前に事変を起こしたのか。

なぜ今になって僕を生かして交渉役にしようとするのか。


今だからそうせねばならない理由があるはず。それはおそらく……

「カルネが僕と組んでいるから?」


「うむ、隠し立てはせぬ。

 貴殿と〈反抗者〉が組み、プリダインを動かそうとしているのは存じているのである。

 だがその結果待つのは戦争、それも機装を持つ我々との大戦争!

 例え〈反抗者〉がいたとしても我々の勝利は必定だが、貴国も我が国も痛手を負わねばならんのである」


だからこそ、とセルは言う。


「民草のため平和のためを思えば、双方歩み寄るのが最善なのである。

 貴殿の力添えがあれば、必ずや和平が成し遂げられると吾輩は信じているのである」


尊敬すらにじませてそう語るセル。


そのときあのぞわりが、〈邪神〉や〈眷属〉の気配が僕の神経を微かに撫でた。

危うく忘れるところだった。

この男は〈眷属〉、それは数日前の襲撃で明らかだ。

迂闊に耳を貸すわけにはいかない。


「なぜ僕の国を狙う? 〈邪神〉がそうさせているのか?」


「狙うとは人聞きの悪い言葉である。

 我々はただ〈邪神〉、いや大いなる〈神〉の下に〈西方大陸〉を平和に導きたいだけである。

 そのために、少々の土地が必要なだけである」


セルの言葉に、僕の中でひらめくものがあった。

僕はこれでも軍学、それも軍師学を学んでいる。

彼の言う平和が仮に侵略であるとすれば、それに必要な土地とはすなわち一つ。


「隠し立てはしないと言ったね?

 なら聞くけど、欲しがっている土地というのは〈橋頭堡きょうとうほ〉。つまり〈西方大陸〉を攻め落とすための中継地として、この島を使いたいんじゃないか?」


「ふむふむ、なかなか頭が切れるのである。左様、その通りなのである」


「なら、おあいにく様だね」


僕はセルを、その背中にわだかまる気配をにらみ付けた。


「平和というけれどこの国は、いや〈西方大陸〉は充分平和だ。

 どんな意図にせよ僕らは侵略に荷担しない。身勝手の押し売りは――」


「笑――止ッ!!」


今まで微笑みさえ浮かべていたセルが、枯れた顔に憤怒を刻み立ち上がる。

彼は僕に杖頭を突きつけ、薄い唇を引きつらせて吠えた。


「戦争がないのが平和だという。

 貴殿もそんな愚かな人間の一人に過ぎぬか!

 仮にも〈神〉に見初められておきながらその世迷い言!

 よろしい、貴殿の認識を吾輩が正してくれようぞ!」


彼の背に、紅蓮と燃える二本の角と一つの目の影が被さる。

それが僕が〈邪神〉を初めて見た瞬間だった。

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