Chapter2 ②


陽射しの色が黄色から白に変わって、小鳥たちが田園の空に鳴き交わす頃。

カルネとシンディ、そして僕は屋根のない二頭立ての馬車に乗っていた。


日焼けして色あせた粗布ばりの客席に女性が二人並んで座り、僕は彼女たちと向かい合わせに道具入れに腰かけていた。


乾いた松材にサビの浮いた金具と、見てくれからして貧相なボロ馬車だ。

当然のようにバネはほとんど利いてないから、砂利の混じる畑道に車輪を取られるたびに席はガタガタと揺れる。

そういうことを僕は気にしないが、カルネはそうでもないようだ。


『……何?』


狭いシートを大きく揺すられるたびに、彼女は制服の肩を上下させて、何か言いたげに僕にチラリと目を飛ばす。


『べつにぃ』

不満げにそう言って顔を背けるのも、もう何度目だろうか。


僕の名乗りからこっち、カルネはずっとこの調子だ。

あからさまな不機嫌とは違うけど、目元は涼しくも唇だけを尖らせ、明らかに何かに拗ねている様子だった。


別に見てるわけじゃないだろうけど、僕も彼女の向いた先に目を投げる。

一面に種まきを終えたばかりの畑が広がり、さらに遠くには〈学校〉全体を囲う城壁が顔を出している。


僕らを乗せた馬車は、田園を横切る幅広の道を進んでいた。

前後には他の馬車も走っている。


この道には毎朝かなりの馬車が通る。

というのも、僕らも住んでいる郊外の〈貴族寮〉と、街とをつなぐ道だからだ。

街の中心には〈学校〉の本体である〈学部群〉がある。


他の寮からの馬車が合流してくる街の手前あたりで、僕らの車は朝の馬車行列に捕まった。

ノロノロと進む列に合わせて僕らの馬車も速度を落とす。

さっきまでの小刻みな揺れは、すぐに揺りかごめいた静かな揺り返しにかわった。


横をゆったりと過ぎる、木と漆喰の街並み。白黒壁に小じゃれた赤屋根。

〈学校〉中心街を眺めるカルネのとなりで、シンディが長い棒にすがってこっくりこっくりと船をこぐ。

付き人といえば早起きが基本。でも、もとが貴族のシンディにはきついようだ。

歳だって僕と離れてない。

どんなに長身でも少女は少女、眠気には勝てないものだ。

とりあえず手にしたものを馬車から落とさなければ、居眠りぐらい何の問題ない。


彼女が手にしているのは単なる棒ではなく戦鎚ウォーハンマーであり、つまるところは正真正銘の武器だ。


メッキと彫刻でもって儀典ぎてん用にみせかけているが、鋼の詰まった鎚先つちさきの重さは正味10ポンド(4キログラム半)にもなる。

そんなものが通行人に落ちたら大怪我は確実だし、尖った先端から当たろうものなら、もはや怪我では済まない。


「メイドの持ち物にしちゃ物騒だね」

僕の心を読んだのか、カルネは小声でそう言うとシンディにジトっとした目を向ける。


『シンディはメイドと護衛を兼ねてくれてるからね。

 大丈夫、彼女は重い物の扱いには慣れてるよ』


「学校行くのに護衛が付くの?

 それって、やっぱりキミが王子だから?」

カルネが目を丸くして僕を見る。


『いや、そうじゃないって、ほら……』


僕は立ち上がって、馬車の横で歩いている生徒たちをカルネに示した。


学部学科によって多少の差はあるが、いずれもよく似た制服を着た少年少女たち。その誰もが腰や背に何かしらの武器を携帯している。


個性に乏しい灰色の制服と対照的に、ざっと見回しただけでも長剣ロングソード格闘剣ショートソード広刃剣ブロードソード戦斧バトルアクス短剣ダガー、小ぶりな鎚矛メイスなどさまざまな種類が目に映る。

さながら武器の見本市のようだ。


『護身用の武器や護衛を持つのは規則で許されてるんだ。

 僕もほら、荷物には馬上剣サーベルが入ってるし、シンディのハンマーも一緒だよ』


「武器持って登校オッケーって……キミの学校って危なくないの?」


『ううん、むしろその逆だよ』


僕の否定に、カルネは何を言ってるんだとばかりに眉をひそめる。


確かに、武器を持ってるのが安全とは言いづらい。

けれども、それでも安全だと言えるからには、ちゃんとした理由がある。


僕はかぶりを振って言葉を続けた。

『みんなが武器を持ってれば、一方的な展開にはならないよね。

 そんな人いないけど、ケンカで使ったとしても相手だって反撃してくるんだからタダじゃ済まないでしょ?』


「ふんふん。でもそれなら、最初から持ってなくてもいいじゃん」


『そこは〈学校〉の方針らしいよ。

 〈完全に護れ、されど侵すな〉っていうのが基本理念だから。

 武器も軍学も身を守るのに必要って事みたいだね。ほとんど無いけど決闘についても取り決めがあるし』


「じゃさ、闇討ちは? キミは昨日出くわしたんでしょ?」


興味が出てきたのか、カルネが薄く笑って首を傾ける。

彼女が持ち出して来たのは女暗殺者の事だ。


『それについては、犯人が分からないとどうにもならない。

 学部の中なら監視の目があるけど、演習中はどうしても目が甘くなるし』


「監視の目って、具体的にどのくらい?」


『ほぼ筒抜け、かな。

 スゴ腕の〈諜報学部〉が、実習をかねて〈学校〉全体を見張ってるんだ。

 まず隠し事はできないよ』


「となるとその暗殺者、〈諜報学部〉とやらより上手なわけだね」


『そうなんだ。生徒か、あるいは外部犯か……

 とにかく〈諜報〉が見逃すような相手なら、あとは自分で捕まえるぐらいしか手はないんだ』


「んー、こじれてきそうな話だねぇ。

 あ、でもでも、ボクがいる間は安心していいよ、ボクも死にたくないしね。

 武器も護衛もあるんだったら、次に来た時が賊の最期さ」


言葉になぜか含みを持たせ、鼻でフフンと笑って彼女は目を細める。


そのあとしばらく肘掛けをコツコツ叩いていた彼女だったが、不意に振り向いてひと言。

「で、いつになったら着くの?」


肩をすくめる僕らを乗せ、馬車は生徒たちに追い抜かれながら街を進み続けた。



***



「転ばないようにご注意くださいませ」

先に馬車から飛び降りたシンディがカルネに手を差し出し、彼女がそれを取って馬車を降りた。


僕も続くが、手を貸してくれる者はいない。

人から見えないのだから仕方ないか。


『あれ?』


勢いよく砂利の引かれた地面を踏んだのに、やっぱり感触もなければ踏んだ音もしない。

思い返せば馬車にしてもベッドにしても感触が曖昧だったし、幻だからそこら辺はいいかげんなのだろうか。


ともかく、気を取り直して周りを確かめる。

ここは〈学部群〉のほぼ中心にある〈陸士学部〉大講堂。

その馬寄せだ。


半円形の前庭をぐるりと囲む馬車道には、登校する生徒たちの馬車がひっきりなしに出入りしている。

ぎっちり詰まった馬車の間を縫うようにして、馬車捌きの少年たちが走り回っていた。路肩には幅広の縁石、生徒たちが互いに挨拶しながら一方向へ流れていく。


そんな光景を見下ろすように、敷地の中心に白い大理石の宮殿がそびえ建っていた。


かつては領主の館だったこの建物は、今は陸士学部の中心となる学舎の一部だ。

見あげれば古代の神殿を思わせるドーム屋根が朝日に白く輝き、キラキラと美しい。


僕らを乗せてきたボロ馬車が離れるのと入れ違いに、後ろから一台の馬車が入ってくる。

純白の去勢馬六頭立て。白塗りのゆったりしたゴンドラには金の縁取りが光る。

両開きの扉には大きな窓と、それにかかる紫絹のカーテン。

他とは明らかに格が違っている。


豪華を絵に描いたような馬車は僕の背後でピタッと音もなく停まった。

ドアが静かに開き、中から飛び出した人物が僕をすり抜ける。

そして勢いそのまま、後ろからカルネに抱きついた。


「誰っ!?」

カルネが突然のことに目を剥く。


ずいぶんと元気のいいその少女は、紫の〈魔導師学科〉制服の上に羽織ったショールをなびかせ、ハニーブロンドの豊かな巻き毛を揺らして笑った。


「レイ兄さま、おはようございますですの!」

少女はスカイブルーの目をパチパチさせて、甘い声でカルネに挨拶する。


ですの……ああ、言葉づかいが若干変なのは、どうか大目に見てほしい。

この子も僕と同じ留学生。〈学校〉公用のロマヌス語が苦手なだけだ。


『なにこの娘、まさかキミの妹!?』

泡を食って声をうわずらせるカルネに、僕は頭をかいて苦笑いを返す。


『いや、僕に妹はいないよ。

 大丈夫、ただ懐かれてるだけだよ。兄さまってのはただの愛称――だと思う。

 たぶん』


『なんで「たぶん」…………で、知ってる娘なんだね』


『うん。

 ヴェロニカ・アイレグニル殿下。

 〈ライツェン魔導帝国〉の第三帝位継承権者ていいけいしょうけんしゃ。つまり平たく言うと皇女おうじょさま。

 僕の友達なんだ。呼ぶときは愛称の〈ニカ〉で大丈夫だよ』


『は? この子も王族?

 ウソでしょ、こんなフワフワした頼りなさそうなのが?』

他人には見えない舌を出してカルネが毒づく。

『そういや、キミもパッと見カワイイというかなよっちいと言うか……

 とにかくそれっぽくないよね』


『僕の事はいいじゃないか。

 それよりほら、早く返事しないとニカが怪しむ』

僕の指す先で、すでにニカが変事がない事に怪訝な顔を見せている。


カルネは数瞬ばかり目を泳がせてから、当たり障りのない挨拶を返した。

「や、やあニカ、おはよう」


「……どうかしましたのレイ兄さま」

カルネからの返事にニカの顔は晴れない。

首はかしげたままに、彼女の視線はカルネの顔をあちらこちらと疑わしげに動き回っている。


「なんだか、雰囲気がいつもと違いますの」


「い、いやその……」

冷や汗かいてニカから目をそらしつつ、カルネは手を振って僕に助けを求める。

それはまぁ、僕自身ではないのだから言葉に迷うのも当然だ。


『とりあえずごまかそう。

 話題は……昨日の夜戦で疲れてるとか言えばどうにか――』


「あ、ご、ごめんねニカ。ちょっと疲れてるんだよ。ほら、ね、昨日夜戦があったじゃないか、穴埋め戻すのに夜中までかかったから、あんまり寝てないんだ……」


多少しどろもどろだったが、僕の声を途中から継いだカルネがどうにかそれらしい話題をニカに振った。


対するニカはそれでもなお、何か腑に落ちない様子でカルネを見つめている。


「おはようございます、ニカ様」


と、二人に割り込んでくるシンディ。

なぜだろう。顔に浮かんだいつもの笑顔が、心なしか怖く見える。


片眉を少し吊り上げ、メイドは失礼にならない程度に優しく、でも強引にニカをカルネから引き剥がす。

そして充分に礼儀をわきまえた所作で皇女に頭を下げる。


「お二人仲がよいのは結構ですけれど、長話は他の方々の迷惑になるかと」


そう言って彼女は白手袋でそれとなく周囲を示す。

それを受けた生徒たちは、三人を避けて通りつつも無音の苦笑いを漏らす。


うん、往来の途中で年若い男女がずっと抱き合ってたら、それはさすがにって思われるに決まってるよ。


「シンディ様、お気遣いどうも・・・ありがとうございますの。

 レイ兄さま、続きは講義室で聞くですの」


ニカが素速くカルネの手を取り、一瞬だけシンディに目をやってから、白い宮殿こと大講堂のロビーへと引っ張っていく。

シンディはハンマーを杖代わりに石畳を打ち、しずしずと、しかし明らかにむくれた顔でカルネに付き従う。


なんとか場が収まったことにホッとしつつ、僕もシンディの後ろから後を追った。



***



講堂の三階にある講義室。

扇形に机の並ぶやや広めの部屋に、始業前の生徒たちが連れだって入っていく。

落ちついた白漆喰の調度に、細い木組み梁の洒落た内装が目を引くここは、元は剣術の練習場だったとか。


講義室にカルネとニカが部屋に入る後ろで、シンディが静かに下がっていく。

彼女は付き人であって生徒ではない。講義にに参加できないので、講義の間はどこかで時間を潰す必要がある。


足どりが楽しそうに跳ねてるあたり、おそらく詩学自習室あたりに行く気だろう。彼女は詩に興味があるらしいし。


「西窓の席がよさそうですの」

出窓がついた壁沿いの席を目指し、ニカがカルネをぐいぐいと引っ張っていく。


僕はその後ろに付いていたが、ふと思い立ち彼女たちから離れた。


幽霊ならば遠慮も無用だろう。

僕は周囲の女生徒の顔をじっくりと確かめる。


これはもちろん、昨日の暗殺犯を探してのことだ。

もっとも、これで見つかれば世話はないし、そもそも見つかるとも思っていない。


相手は闇夜の森で覆面をしていた少女だ。

唯一はっきりした特徴は小柄であることだが、それが当てはまる生徒ならこの講義室にだってわんさかいる。


早々に下手人探しをあきらめ、カルネたちの所に戻ろうと踵を返す。


そのときだった。


『…………っ?』


ひどい目まいがする。光景がズンと暗くなり床が回り出す。

僕の腰が砕け、ヒザが我知らず折れる。


――なんだ、これ?


『レイ君戻って! 早く!』

カルネの叫ぶ声が耳元で響く。

と同時に、気づけば20フィート(6メートル)ほどの距離を飛ばして僕はカルネの隣りに立っていた。


あらゆる不調がウソのように消え、すっと身体が軽くなる。


『あんまり、離れ……ないでよ』

眉をハの字に歪め、カルネが荒い息をつく。

その右手は僕にまっすぐ向けられ、手にはうっすらと光が灯っていた。


彼女は「先に言うべきだった」と苦い顔になる。

『キミは、ボクの造った幻影なんだからさ……力の範囲外に出たら崩壊しちゃう。

 意識が、迷子になっちゃうよ』


『意識が迷子?』

その手を取りながら(すり抜けたけど)訊ねた僕に、ため息を漏らしてカルネが天井を見る。


『詳しくは省くよ。とりあえずキミは僕から離れちゃダメだ。

 最大でも今ぐらいの距離にいてよ』


「レイ兄さま、ちょっと具合が悪そうですの。

 そうだ、いま風を呼ぶので少し待つですの」


長いすにぐたっと座りこむカルネを見て、横からニカが心配そうに顔を覗きこむ。

そしてカルネに何も言わせぬまま、ニカは腰に下げた革のホルスターから1フィートほどの木の棒を取り出した。


両の先端には銀の飾り。

その片方にはウズラの卵に似た乳白色の石がはめ込まれた短杖。

魔杖ワンドと呼ばれる〈魔法〉の道具だ。

普通の人間にとってはただの棒だが、魔導師にとっては万能の道具であり、最強の武器となる。


ニカはワンドの中ほどをそっとにぎり、先端の石に唇を寄せると何かをつぶやく。

「…………」


白い石に内側からライム色の火が灯る。

間を置かず、開け放たれた出窓から心地よく涼風が吹き込みはじめた。


ニカが風を「呼んだ」。

速さ、手際の良さ、精霊の食いつき、どれも文句の付けようがない。

さすがはライツェンの皇女、二学位クラス飛び級での入学も納得の腕前だ。


『なにこいつら!?』

ニカの手腕に感心していた僕は、カルネのすっとんきょうな声に引き戻される。


彼女は風といっしょに舞い込んできた精霊たちに、山羊の角をもった薄灰色の小人たちに驚いて目をキョロキョロさせて驚く。

彼女に驚かれた精霊たちもまた、背に生えたトンボの羽をふわぱたと羽ばたかせて一斉に飛び上がり、あっという間に外へ逃げてしまう。


涼風は始まった時と同じように、スッと凪いでしまう。


「ちょっと待つですの、帰っちゃダメですの!」

ニカが異変に気づいてワンドを窓の外に向けるが後の祭り。

精霊たちは不愉快な顔もあらわに、流れる春風に乗って行ってしまった。


「もぅ、何なんですの! 灰の精霊たちが急に驚いて帰っちゃったですの!」

今度はニカが不愉快さに頬をふくらませる番だ。


『え、その、今のなに?……ちょっと、なに笑ってんのよレイ君!?』


『いや、だってほら、カルネ精霊に驚きすぎだったからさ、おかしくってつい』


『驚きすぎ!? そりゃ驚くよ! いきなり変な小人に絡まれたら誰だって驚くさ!』

笑いをこらえきれない僕に対し、カルネはあくまで真剣に怒っている。


まったく、精霊のことを知らない人なんて――


『まったく、なんなのあれ。あんなデタラメ初めて見たよ』


――あれ?


『カルネ、もしかして〈精霊〉のことを知らない?』


『〈精霊〉? あの不可思議生物、精霊っていう名前なの?』


話が噛み合ってないぞ?


『〈機装世界クライティ・ヴェルト〉には、ああいう……自然万物に宿る意思っていないの?』


『いや、むしろそんなのがいる方が驚きですけど?

 万物の意思なんて、古代神話やおとぎ話じゃあるまいしさぁ』


カルネは小馬鹿にしたように笑ったあと、ふいにもしかして、という驚きと疑いの顔で僕をマジマジと見る。


僕はそれにうなずき、ため息と共に指を額に添えた。


『……カルネ、僕らにはもっと情報交換が必要な気がする』


『…………完全に同意。キミとボクとでは世界が違いすぎるよ……えひゃっ!』


「レイ兄さま、ぼおっとしちゃって辛そうですの」

互いに気まずい顔をつきあわせたところで、だしぬけにニカがカルネの頬をつついた。


「に、ニカ……大丈夫だってホラ、心配ないさ」

元気そうに手を振ってみせるカルネに、ニカは下唇を尖らせて不満げな視線を送る。


「それはそうと、レイ兄さま今の精霊たちが何に驚いたのか見え・・ましたの?

 私にはまったく聞こえ・・・なかったですの」


強調するニカにとまどい、カルネがくくっと口ごもる。

僕はさっと彼女に耳打ちした。

『僕にも見えなかった。なんで驚いたのか分からない、と』


「さあ、なんで驚いたんだろうねぇ、ボクにも見えなかったよ、あははは……」

空々しいにもほどがあるカルネのごまかし笑いに、頭をかかえてうずくまる僕。

実際、ニカはバッチリ訝しんでるし。


もはやこれまでと僕が覚悟を決めたそこへ、幸いにもまったく別の方向から助け船が走り込んできた。

ドタバタと講義室に走ってきた少年が、イタズラにハンドベルを振り回したのだ。


鳴り響くけたたましい音にニカを含めた生徒たちのきつい目が集中し、それを受けた少年は、んべっと憎たらしげに舌を出して別の講義室へと退散していった。


そんな少年と入れ違いに入ってくる黒いローブ姿の女性。

彼女は、生徒たちの視線に気づき、眉を下げて困った笑いを浮かべると、素朴な顔によく合う大きな丸メガネをクイッと正した。


「あー、どうか怒らないで、彼はまだ駆け出しだから。

 まぁ実際に駆け出し・・・・ていったんですが……

 さあさあ紳士淑女のみなさん、本鈴はしっかり聞こえたんでしょう?

 席についてください」


ぞろっとしたローブをもたもたと動かし、女性はにこやかな顔で教壇に向かう。


『あれが先生?』


『うん、彼女はヒルデ・ハーケ。〈学校〉の講師だ。

 ちなみに先生じゃなくて講師だからね、呼ぶ時もつけること。

 ほら、カルネも前向いて道具とか出して』


『はいはい了解……にしても懐かしいねぇ。授業受けるのって何年ぶりかな……』

ぶつぶつ何かを言いながら、カルネが道具を準備する横で、僕も空いた席に着席する。見えないから必要ないとは思うけどね。


生徒全員が中央を向いているのを確認し、ヒルデ講師はおもむろに頭を上げた。

「〈軍師学科〉と〈魔導師学科〉のみなさん、おはようございます。

 昨日は〈春の夜戦〉お疲れ様でした。

 〈攻撃側〉も〈防御側〉も問題らしい問題もなく、講師一同ホッとしました。

 昨晩は、お酒が大変美味しゅうございましたよ?」


ヒルデの冗談に生徒がドッと湧くなか、カルネは鼻を鳴らして眉をひそめる。

『あんなホヤっとしたバカっぽいのが、戦争の何を教えようっての?』


『そんなこと言わない。ヒルデ講師は見かけどおりの人じゃないんだから』


クセのある黒髪にソバカスが浮く丸顔。

まことに純朴な外見にもかかわらず、彼女は〈諜報学部〉のナンバー2たる〈首席補佐〉を務めている。それは運やまぐれで就ける仕事ではない。


『あれが〈諜報〉のナンバー2?』

思考を読んだカルネがこっちを向く。


その途端、ヒルデ講師が演台をコツコツ叩いた。

「はいそこレイさん、気をそらさないでくださいね?」


「す、すみません」


首をすくめてあやまるカルネに軽くうなずいてから、ヒルデ講師は文字通り教鞭を取ると、黒板にバシリと打ち付ける。

「はい皆さん、ここからは私語、上の空は禁止で集中してくださいね。

 それでは〈諜報学〉の間者についてのページから、一昨日の続きからいきますよ。

 諜報活動における金銭の授受については……」


流れるように講義に入っていくヒルデ講師。


『ボク、なんかあの人嫌いだ……』


カルネの心底苦手そうなうめきに、僕はただただ苦笑するだけだった。

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