天国の門

ロセ

かくして門は開かれた

 建物の外で市民が自分の名前を叫ぶ姿を彼はぼんやりと眺めていた。私はいつものように彼の後ろに付き、何らかのアクションが起きるのを犬のように待っていた。

「やることは?」

 彼が振り返って尋ねる。私はスケジュール帖を開くことすらなくありませんと答えた。その返答に彼は瞼を伏せながら、そうかと呟いた。ズボンのポケットに突っこんでいた片手を彼は出すと、私の方まで歩み寄り肩を叩いた。

「今までご苦労様」

 私は彼をまじまじと見て、深く頭を下げた。

「お疲れ様でした」

 彼ははにかみ、風のように私の横を過ぎて行った。

 私が一緒に仕事をしていた人は英雄だった。この国を変えた英雄だった。けれどそれも今日で終わりだった。何もかも変えてしまったから、やることがなくなったのだ。

 彼は今日、英雄から人に戻ることにした。

 止める人もいた。まだ彼が英雄であり続けることを望んだ人もいた。多くの辞めないで、という声が届けられた。だけどそうしても彼の意思は変えられなかった。

 これから彼は市民に考えていることを伝えるために喉を傷めることも、恋人に渡す為に書いたラブレターのように巧妙な演説を考えることも、人の目を気にしてファッションに気を使うこともしなくて良くなった。

 自由を彼は謳歌する。でも私はそれが長く続かないことを知っている。

 私は、彼とずっと仕事をしてきたからだ。

 だから知っている。

 もう出会うことはきっとない、と。持っていたスケジュール帖をデスクに置いて、私は背広の中に隠していた翼を広げた。手首に巻いた腕時計を見ると、ちょうどお昼だった。腹は空かない。空いたことなど一度もない。私は部屋の外へと出て、窓の枠をあっさりと踏み越えて翼をはばたいた。


  ・

  ・


 灰色に淀んだ空、緑色の煙を吐き出す煙突に、浮かない顔をした人々を見下ろして、昔の彼は手を叩いていた。ブラボー、ブラボー、と笑っていた。

 それは彼のお別れのことばだった。だって彼は屋上の縁に立っていたのだ。一歩、足を踏み出せばそこには何もなく、彼は重力に従って落ちる。そんな未来が簡単に思い浮かべられる場所に彼は立っていた。

 私はそんな彼を見下ろしていた。ぼんやりと、しかし目を離すことなく。

 くすんだ金色の髪が毒された空気に遊ばれている。彼は粗末な身なりのまま、悠然とした役者を彷彿とさせる態度で足を前に進めた。

 ああ、なんてこと。

 飛べる鳥のように大きく腕を広げ、飛べない鳥のように飛び方を知らないまま落ちる彼の腕を私は掴んだ。薄汚れた故郷を見渡していた灰色の瞳が私に向けられる。その瞳の奥で、ゆらゆら青い炎が揺れていた。

「きみはだれ」

 体を空中に留まらせた彼は私を見て、問うた。

「ただのビジネスマンです」

 彼は目を点にし、「最近のビジネスマンは翼もあるのかい」と聞いた。

「さあ、他社のことは存じ上げません。でもあると便利でしょう」

「違いないね」

 私は彼を建物の上に戻した。足が地に着くのは妙な感覚で尻餅をついた。彼が瞬きを繰り返す。

「すみません、慣れていなくて」

 取り繕った言葉に、彼はそうなんだと素直に私の嘘を信じた。私はドブ鼠のように薄汚くて、いいことなんか一つも無くて、最近着いた仕事も同僚の妬みからあらぬことを立てられてクビにされた人のいい彼に尋ねる。

「あなた、暇ですか?」

「……暇、といえば暇だけど」

「では、宜しければ仕事をしませんか」

「仕事、どんな?」

「クリーンビジネスです」

「クリーンビジネス」

「しかし一口にクリーンビジネスといっても、単純ではありません。プロフェッショナルな志向と向上心、そしてやるからには諦めないネバーギブアップ精神と…………、小さじいっぱいの情熱が必要不可欠です」

 私は彼に問うた。

「どうです、一緒に仕事をしませんか?」

 息を吸い込む。鉄のような香りと、舌の上にしつこい苦味が走った。きみは、という言葉を飲み込んで、彼は私を見返した。

「時給はいくら?」


  ・

  ・


 無骨な階段をのぼり終えると、屋上へ繋ぐ扉は開かれていた。昔と同じく、彼は建物の縁に立って出会った頃から生まれ変わった街を眺めていた。

 カツ、と靴のつま先が音を立てた。彼が振り返る。

「やあ」

「ごきげんよう」

 たった何十分か前に交わした言葉など忘れて、私は彼の後ろに立った。彼は私を見て、「そこが君の定位置だな」と笑う。そして頭上を指さす。

「それかここ」

 私は背広の内ポケットから一枚の紙きれを取り出し彼に渡した。

「給料の明細表をお渡しするのを忘れていました」

「別にいいのに、使わないし。そうだな、慈善団体に寄付してよ」

「では、筆跡を」

 今度は万年筆を取り出して渡すと、彼は驚きもせずに明細表の下の部分に自分の筆跡と文言を添えた。全てを書き終えたかチェックをし、私に莫大な金額が書かれた紙と万年筆を寄越す。

「確かに、ではこの街に存在する慈善団体に平等に分配致します」

「そうして。金額が割りきれなかったらそうだな、チャリティー事業をしてさ、少しずつ減らして行くといい」

「かしこまりました」

 紙切れを内ポケットに、万年筆を胸のポケットに収める。彼は私が一つずつ仕舞って行く様子を横目で確認しながら、「ところでさ、きみは結局、このビジネスでどれくらい儲けたの?」と聞く。

「どれくらいかは私もよく覚えておりません」

「そこは覚えておいた方が良いところなんじゃないの? じゃないとさ、ほら、ビジネスパートナーとしてどうだったか気になるじゃないか」

「それは心配には及びません。あなたは十分に素晴らしいビジネスパートナーでした」

「本当に?」

「本当に。すこし注文を付けるとすれば、終わり方にもこだわりたいところですが……。先ほど、契約を解除してしまったのでもう私は口を挟む権利がありません」

「そうだね……、そうだろう」

 彼は二回頷く。私はもう彼に変わる心はないのだと悟った。これからはまた上から見る生活だ。

「では、私はそろそろ次の仕事がありますので」

「そう。じゃあ、握手をしてお別れにしよう」

「いいですね」

 私は手を差し出す。彼は私の手を取る。何度かのシェイクハンドを終えて、手を離そうとした。その瞬間に、彼は私の手を握ったまま体を後ろへと落とした。法則は関係なく、ただ手が握られているという事実によって私もまた落ちた。いや、落ちている最中だった。意図が見えないでいると、彼は背中から落ちながら私に言った。

「さあ、お行き。もう僕を助けるんじゃないよ」

 ぱっ、と握っていた手の指が一本ずつ解けていく。私は慌てて離れた手を掴もうとした。が背中の翼が安全装置のように広がり、ビルディングの間にある不規則な風を受けて私の体をそれよりも深く落ちることを禁止させた。

 ぐしゃっ、と生ごみが投げ捨てられたかのような音が足元からした。そろそろと視線を下に向けると、私の足元に見慣れた人と赤が広がっていた。

 私はその瞬間に私の仕事を終えた。その終わりに、友達をひとり失った。空から降り注ぐ光が彼の赤に触れた時、私はブラボーと彼が叫んでいた言葉を口にして彼を見送った。

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天国の門 ロセ @rose_kawata

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