第4話 柑橘泥棒
「泥棒!」
ふいに広場の方から怒鳴り声が聞こえてきた。
路面の溝を見るともなしに眺めていた俺は、つられるように声のした方を向いた。ひどく緩慢な動作で首だけをひねる。
すると薄汚れた子供が、こっちに向かって、疾走してくる姿が見えた。その細い両腕には、大きなズダ袋が抱えられており、どうやら路地に逃げ込むつもりらしいことが分かる。
「誰かそいつを捕まえてくれ!」
後から子供を追いかけてきた禿頭の男が、大声で通行人たちに呼びかけた。
どこかで見たような男だ。じっと目を凝らすと、それがベグノーだと分かった。以前、給金をピンハネしてきた、屋台の青果売りだった。
ベグノーの呼びかけに答え、幾人かが子供をとらえようとするが、するりと身軽にかわされてしまう。しなやかで柔らかいその動きは、どことなく猫科の動物を連想させた。
子供は器用に雑踏の隙間をすり抜け、俺の前方に飛び出してきた。きっと逃げ切ったと確信したのだろう。その黒ずんだ顔には安堵の表情が浮かんでいる。
しかしあと少しというところで、唐突に体勢を崩した。
「あっ・・・!」
子供はとっさに手を突いていたが、それでもゴロゴロと勢いよく地面を転がった。
たぶん、本人には何が起こったか分からなかっただろう。でも端から見ていた俺は、しっかりと一部始終をとらえていた。
子供が気を抜いた一瞬の隙をついて、そばにいた柄の悪い男が、そっと足を引っかけたのだ。その男は倒れた子供を見下ろしながら、ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべている。
・・・お世辞にも良い奴とは思えない。ベグノーのために助力したというわけでもなさそうだ。
麻袋は子供が転んだ拍子に放り出され、俺の目の前に落っこちた。縛り口がゆるみ、中のオレンジが顔をのぞかせた。
「そこの坊主、そいつは俺んだ。返してくれ」
まだ人混みの中で揉まれているベグノーが、息を弾ませながら大声を上げた。
俺は言われた通りに麻袋を拾い上げる。
「・・・」
色鮮やかなオレンジは、日の光を浴びて、艶々と輝いていた。
カサカサの口の中に、じゅるっと唾が溢れるのを感じる。
「おい、どこへ行く気だ? ・・・ま、待て! この泥棒!」
後ろからベグノーの怒鳴り声が聞こえてくる。
気がつくと俺は、背中を向けて走り出していた。まったく無意識下の行動だった。
どこにこんな力が残されていたのか、自分でも驚くくらいのスピードで路地を走る。親の骨壺でも運ぶみたいに、麻袋を胸にかき
やがて奥まった袋小路にたどり着くと、俺はようやく足を止めた。誰もいないのを確認し、フラフラとその場に座り込む。
もうこれ以上は走れない。限界を押して身体を酷使した反動が、今更になってやってくる。
俺は鉛のように重い腕を持ち上げ、麻袋からオレンジをつかみ上げた。皮を剥く時間さえもどかしく、そのままオレンジを丸かじりする。
「ーー!」
じゅわぁっ、と果汁が口の中で迸った。
脳内に広がる多幸感。
ビタミンが細胞の隅々まで染み渡っていくような気がした。
夢中で一つを平らげると、続けて両手にオレンジを持って、代わる代わるにかぶりつく。
オレンジは酸味が強く、果肉は水分に乏しかった。種は多く、皮も分厚い。それでも無二のご馳走だった。
いまは皮のエグ味すらも愛おしく感じられる。舌触りを楽しみながら種をかみ砕く。
「うっ・・・ふぐっ・・・」
胃の底から嗚咽がこみ上げてきた。視界が滲み、鼻水が止まらない。それでも手を休めることなく、オレンジを咀嚼する。久方ぶりの人間らしい食事が、五臓六腑に染み渡るようだった。
あっという間に五つをやっつけたところで、ようやく人心地つくことができた。手足をだらしなく地面に放り出し、ぼうっと雲の流れる青空を見上げる。
ーー生き返った。
しみじみと胸の中で呟く。
こうして冷静さを取り戻してみると、自分のした行いが、泥棒以外の何ものでもないことに気がついた。
生まれて初めて、盗みを働いた。
前世じゃ万引き一つやったことのなかったこの俺が、真っ昼間の往来で他人の物を盗んだ。
そう考えた途端、動悸が激しくなるのを感じた。心臓が肋骨を打ち付けるように、荒々しく脈打ち始める。アドレナリンでも分泌されたみたいに、興奮して気持ちが高ぶってくる。
顔を覚えられただろうか?
警備隊に人相書きが出回っていたら、もう表通りは歩けない。もし捕まったら、最悪、遊び半分に殺されるかもしれない。
考え出したらきりがない。むくむくと不安が膨らんでいく。
でも、不思議と罪悪感はなかった。
俺の中の酷く冷静な部分が、こうしなければ死んでいた、と
案外、人間の道徳心やモラルなんて、吹けば飛ぶ程度のものでしかないのかもしれない。少なくとも、俺に限っていえばそうだったのだろう。
自分の非道さに愕然とする一方、心のどこかでは妙に納得していた。何かが吹っ切れたような、清々しさすら感じる。
ノーマスは弱肉強食の世界だ。
地球だって同じだったかもしれないけど、こっちは特にそれが顕著だ。だから生き残るためには綺麗事なんて言ってられない。手段を選ばず、他人を蹴落とすくらいの覚悟が必要だ。
諦めた奴から死んでいくのだ。じっとしてたって救いの手なんて差し伸べられやしない。
我武者羅に、理不尽にも屈せず、泥水を
強く生きよう、と思った。
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