第5話 良心の壁
ゴブリンの耳が十八個。
オレンジが十個。
それぞれを入れる麻袋が一枚ずつ。
これが今の俺が持っている全財産。
ゴブリンの耳はどうでもよろしいが、オレンジの方は貴重な命綱だ。絶対に失うわけにはいかない。
もし持ち歩いていて、また襲われたらたまんないので、路地に隠しておくことにした。
建物同士の細い隙間に、袋ごと押し込む。いい
身軽になった俺は、袋小路を出て歩き始める。
強く生きるにあたり、まずは根本から考え方を改めることにした。今までは盲目的に善し悪しにとらわれていたが、これからは可不可を判断基準にすえようと思うのだ。
一見どん詰まりに見える現状でも、倫理観をドブに捨てれば、それなりに光明を見いだすことができる。
元本ゼロ、信用ゼロ、技能もゼロ。
そんな俺がまともに就ける職業なんて皆無な訳で、正攻法がダメなら、犯罪者になるしかない。かっぱらいなら奪って逃げるだけだから、今の俺でもすぐに始められる。やったね。
身売りして奴隷になり、主人に養ってもらうという選択肢もあったけど、さすがにナンセンスだから除外した。
くねくね蛇行する細い裏路地を、網膜に焼きつけるように、ゆっくりと歩く。
逃走経路を確保するためにも、マッピングは欠かせない。
もはやチートとスラングがトレードマークと化していた、某FPSをプレイする時も、マップが頭にあるのとないのとでは、明らかに
開幕ロケランこそ飛んでこないものの、こっちのリアルはゲーム以上にデンジャラスだ。
逃走を念頭に行動するのは自然なことで、別に俺がチキってる訳じゃないのです。はい。
市場に出ると、俺は浮浪者たちに混じって地べたに座り込んだ。抱えた膝に頭をうずめ、顔を隠しながら市場の様子を探る。
ぶっつけ本番で仕事をする気はなかった。まずは
忙しなく行き交う人たちの足を眺める。浮浪者たちを気にかけ、足を止めるような奴は誰もいない。
まあ、かつての俺も同じようなものだったので、文句は言うまい。
公園に寝ころぶホームレスたちを見ても、背景の一部としてしか認識していなかった。駅前で募金を募っていても、華麗にスルーしていた。
そのくせ会社で行われる献血やボランティアには進んで参加した。
いまにして思えば、とんだ偽善だ。
いや、利己的と言うべきかもしれない。もっと言えば醜い保身のためだった。
前世じゃ、周りの目ばかりを気にしていた。少しでも自分をよく見せることが、当時の至上命題だった。
求心力のある奴がいればそいつに取り入り、グループの外にいる奴らを、心のどこかで見下していた。ファッション雑誌を読み漁って、似合いもしない流行の服で身を固めていた。
強迫観念みたいなものに駆られて、色々と必死で
結局、中身は空っぽのままで、虚しいくらいにスカスカだった。
すべての行動は見栄を張るためだけのもの。
電車で老人に席を譲るのも、そうすることで「気遣いのできる自分」をアピールできるから。
そこに本当の意味での「気遣い」はない。「気遣いのできる人間」の上辺をなぞって真似ているだけだ。
やらない善よりやる偽善、なんて名言があるが、俺の場合はそもそも自分の意志自体がなかった。
世の中のマニュアルとでもいうべきテンプレートに従っているだけの人形。その情けない事実に気づいた時は、途方もない恐怖と恥辱に
これは今だから言えることだが、俺は隣の芝生を羨むのではなく、もっと自分の芝生を大切にすべきだった。
ブレない拠り所となる「自分」というものを持っていれば、強要されるがままに酒を飲んで、アルハラなんかで死ぬこともなかったんじゃないかと思う。
二時間ほど経ったところで、別の場所に移動した。それを日が落ちるまで何度も繰り返した。
午前中は奥まった路地やわき道を散策し、午後になると、市場で定期的に場所を変えながら人々を観察をする。そんな生活を四日も送った。
例の袋小路で寝起きし、オレンジを一日に朝夕の二回、一個ずつ食べた。少しでも腹の足しにするために、皮ごと丸かじり。昼間は水を飲んだ。
今朝もオレンジを食ったので、残りは一つきりだ。心許ないにもほどがあるが、おかげで分かったこともたくさんある。
まず、フューネンの町にはいくつかの非合法な犯罪組織があった。中でも有名なのは、以前にも耳にした「
この二つは縄張りが隣接していることもあって、しばしば衝突し、互いに敵対しているらしい。
ならず者たちは、屋台や店舗からショバ代を徴収する代わりに、用心棒としてにらみを利かせている。
物騒な庇護を受けた店主たちは、市場でも客のよく集まる一等地を、常にキープできるようだった。
他のしょっぱい店は、花見の場所取りみたく早い者勝ちで、辻に立つ娼婦たちにも同じことが言えた。
盗人は珍しくもないようで、一日中街を歩いていれば、三、四回はスタンダードに見かけた。
やり方にも色々あって、突き飛ばしながら奪ったり、急に走り出して不意を突いたり、人気のないところで待ち伏せしたり、と十人十色。
どいつもこいつも容赦なんてなかったが、犯罪組織の構成員と、その庇護下にある店は避けていた。報復されるが怖かったのでせう。
俺もドラム缶にコンクリ詰めの刑は御免なので、先人たちに倣うつもりだ。
一度だけ、スリを見かけたことがあった。
酔っぱらい風の男が通行人とぶつかった際、さりげなく相手の懐に手を伸ばして、財布を抜き取っているところを目撃した。
それに気づけたのは本当に偶然だった。そのぐらい自然で、素早い動きだった。
慌てて男を追いかけたが、すぐに姿を見失った。別にGメンを気取った訳じゃない。教えを請いたかったのだ。
その後もスリを探したものの、やってる人間自体が少ないのか、ひとりも見つからなかった。あるいは技術が高すぎて、近くにいても分からなかっただけかもしれん。
一度でも犯行の瞬間をとらえられたのは、幸運だったんだろう。機会さえあれば、是非ともあの超絶スキルを身につけたい。
ワザマシンでもあれば良いのにと、つくづく思った。
マッピングの方も順調に終わり、一通りは頭に入った。富裕層の住む中心区画だけ空白だが、今後もご
ひとまず俺は、東門近くの下町で活動する予定だった。東の区画は西のそれよりも
その上、北東には昔の戦争で焼けたまま放置されているスラムがあって、緊急避難先にも困らない。
けっこー治安が悪いので、警備兵たちでも独りでは立ち入ろうとしない危険地域だ。盗んだ相手がたとえ冒険者だろうと、スラムまでは追いかけてこないはず。
準備は整った。
完璧とは言い
人の流れに乗って、東門前の市場を歩く。
まだ冬にはいくらか早いが、気の早い
やけに
すでに一度、盗みを働いているが、あれはとっさの犯行だった。今回からは自分の意志で手を汚すのだ。
怪しまれてないよな?
そこらの人間みんなが俺を見ているような気がしてきてならない。いや、実際に警戒されているんだろう。俺の自意識過剰というわけではあるまい。
俺が手頃な獲物に狙いを付けると、商人や客がそれとなく遠ざけてしまうのだ。中にはあからさまに舌打ちしたり、小石を投げてくる奴もいる。
十五分ほど市場を歩いてみたが、収穫はゼロだった。あまり長いこと留まっていても、顔を覚えられるばかりで良いことはない。
そろそろ今日は諦めようかと思ったところで、挙動不審な浮浪児を見つけた。
そいつはダンゴムシみたいに肩を丸めながら、きょろきょろと視線をさまよわせていた。
食い物の屋台を見つけては立ち止まって、物欲しげに指をくわえている。盗もうか止めようか逡巡しているのが、はっきりと分かった。
俺も他人から見たらあんな感じなんだろうか? そう思ったら、泣きたくなってきた。
俺が軽く自己嫌悪に陥っていると、急に浮浪児が悲鳴を上げた。
屋台から干し肉をかっぱらおうとして、店主に棒で打ち据えられたのだ。
「バレバレなんだよ! こんのクソガキがっ!」
店主はツバを飛ばしながら、怒りにまかせて、何度も棒を振り下ろした。
哀れ。うつ伏せに倒れた浮浪児は、背中を殴られる度に甲高い悲鳴を上げる。
騒ぎを聞きつけ、すぐに巡回中の警備兵もやってきた。市場中の注目が二人に集まっている。
「・・・」
俺は浮浪児の今後に考えを巡らせ、やるせなくなって顔を背けた。
そして運良く、それに気づいた。
目の前で
その足下に、小さな包みが置かれている。俺に気づいた様子はない。
チャンスだ、と思った。
ある意味で、犠牲になった浮浪児には悪いが、明日は我が身だ。許せ。心の中で南無南無と手の平を合わせる。
俺は夢中で包みに飛びつくと、脱兎のごとく駆けだした。
「あ、おいコラ!」
男が慌てて追いかけてくるが、俺はすぐに路地へ逃げ込んだ。
わざと入り組んだ方に向かい、二、三度角を曲がったところで、横転した空き樽の中に飛び込む。
「はしっこいガキめ!」
すぐに男がやってきて、樽の前を通り過ぎていった。俺が隠れているとは思わなかったらしい。そのまま独り鬼ごっこでも続けてくれたまえ。
俺は樽の中から這い出ると、男とは反対に向かって歩き出した。
戦利品を横取りされないよう気を配りながら、路地を伝って袋小路に戻る。
「ふふふ」
思わず笑いがこみ上げてくる。
「ふははははっ!」
やったぞ。ついにやった。やってること自体は最低だが、四日間の努力が実ったのだと思うと、嬉しくて笑いが止まらない。
いや、ここは緊急避難ということで、一つ見逃してもらおう。
俺は顔をニヤつかせたまま、さっそく戦利品の検分を始める。中身は何やろな?
割と綺麗な布をほどいて、出てきた箱の
「おっふ・・・」
笑顔が引っ込んだ。
中身は愛情たっぷりの、砂糖をぶちまけたような愛妻弁当だった。部外者なら見ただけで胃がもたれるくらい、思いが重かった。
罪悪感でいっぱいだ。
何かごめんなさい・・・。
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