プレイハード

鈴界リコ

1.

「なあ、ここのレストルーム」

 本人は声をひそめたつもりなのだろう。だがマティアスの耳打ちは、高い天井と本人の闊達な喋り口のおかげで、客間の空気をぴんと震わせる。

「面積が俺のアパートの寝室くらいある」

「屋敷自体が広いからな」

「洗面台の代わりに小鳥の水浴び用水盤みたいなのが置いてあって……あれ、間違いなく純金だぞ」

「ギニー・ファニチャー(イタ公趣味)って訳か」

「君もとんだレイシストだな……まあ、それはいい。問題は、便器の上の絵。ジャクソン・ポロックの、複製かもしれないが」

 そこで一端言葉を切り、マティアスは娘が処女を失ったと知った父親の顔で目を閉じ、眉間に縦皺を刻んだ。


「逆さに掛かってるんだよ」


 カモミールティーをかき混ぜていたスプーンの動きを止め、ヘレは隣に腰掛ける相棒をまじまじと見つめた。そこから表情らしいものが一切窺えないと、自ら視界を塞いでしまったマティアスは気づかないらしい。先ほどからしきりに繰り返す、柔らかすぎるソファに尻の据え場所を探す為の身じろぎを再開する。

「指摘した方がいいかな。見上げて気付いた途端、小便も止まった」

「ジャクソン・ポロックって」

「抽象画家。キャンバスに色とりどりの射精をぶっかけたみたいな」

「それは知ってる」

 彼が詰め物をたわませれば、皺寄せはこちらにやってくる。緋色のビロードがぼこりと膨らむのを尻で感じるから、足を使って浅く腰掛け直した。この応接セットも、いわゆる執事という人間が恭しく淹れたハーブティーも、何もかも居心地が悪い。

「裏向きに掛かってたところで、あんな絵誰も分からないよ」

「けど、分かったら気になるんだ……信じられない、ポロックを逆さまに?」

「僕たちは芸術談義をしに来たんじゃない」

 カップの中へミルクを注ぎ足した後で、既にもう元の色が分からなくなるほど混入していたのだと気付く。それでも強烈な芳香は、部屋全体に焚きしめられた東洋の香と混じり、とても口を付けられたものではなかった。

「そんなくだらないことで機嫌を損ねさせるなんて」

「くだらなくない、画家への冒涜だし、後々恥を掻くのは本人だぜ」

「そりゃあ、自己責任さ」

 そもそも、この内装を目にした時点で、館の主に恥も外見もないのだと気付いていないのだろうか。

 集められているのは、全てが一級の品だった。チッペンデールの箪笥、ダマスク織りの絨毯、アール・デコ風の間接照明。壁に掛けられている絵はダリだろうか。オークションで一番値の張るものを手当たり次第に買い込んできたかのような統一感の無さは、部屋からくつろぎという言葉を根こそぎ奪っている。

「話に集中しろ。成功したら、しばらく遊んで暮らせるんだから」

「引き受ける気満々だな」

 ヘレが放棄したポットから、マティアスは二杯目を自らのカップに注いだ。

「ヤバいと思ったら、ちゃんと断れよ。幾ら大金だからって」

「生憎、お貴族さまと違って余裕がないからな」

 じろりと叩きつけた横目にも、堪えた様子は全くない。マティアスは後ろへ流した豊かな黒髪を軽く振り払い、涼しい顔で茶を啜った。

「ウェッジウッドか。プレミアものじゃないな」


 チューリッヒ中央駅で落ち合った時から、マティアスはどこか虫の居所が悪かった。曰く秘書がチケットを取り忘れ、リヨン駅から朝一番のTGVリリアに駆け込んだとのこと。予定外の早起きに目がしょぼつくんだ、とタクシーの中で一頻りぼやいていた。ヘレがロサンゼルスからこの国まで、エコノミークラスの狭い席に十時間も縛り付けられていたという事実は、当たり前だが彼の意識にない。

「灰皿取ってくれないか」

「二ヶ月前から禁煙中」

 マティアスの手はわざとらしい程ゆっくり伸ばされ、テーブルの上のガラス製灰皿を掴む。

「それに、高級な壁紙をタールでくすませちゃあ悪いだろう」

 振りかぶった腕が、掴んだものををまっすぐ投げ付ける。叩きつけるよう開けられたドアの隙間へ身をねじ込ませる前に、闖入者はまず身を竦ませた。


 ドアノブに当たった灰皿が砕け散るよりも早く、ヘレはテーブルを飛び越えていた。


 その男はほんの若造だった。出鼻を挫かれれば動揺し、手にしたベレッタの照準をぶれさせるような。

 いきがったガキをねじ伏せるのはたやすい。ヘレが棒の如くまっすぐ突き出された腕を左手で引っ掴み、右肘で思い切り頸動脈を打ちないだ時点で、男は既に全身から力を失っている。右膝を丸められた腹へ数発叩き込み、脚を払って引き倒すのに、5秒の時間も必要とはしない。

 マティアスはカップの中身を飲み干すまで、平静を一切崩さなかった。呼吸困難と痛みで芋虫のように身をくねらせる男を捕まえたままのヘレが、両脚で挟んだ腕を散々捻りあげる頃になってようやく立ち上がる。絨毯の上へ転がる銃を拾い上げたとき発した声は、呆れとハーブで今にも裏返りそうになっていた。

「嘘だろ。モデルガン?」

「知ってた」

 全身が総毛立つ感覚に流されるまま、ヘレは答えた。

「でもそれは、手加減する理由にならない」

 手首を可動域に逆らって折り曲げれば、窓ガラスを叩き割るような絶叫が脛のあたりで放たれる。


 鼓動が速まり、耳にまで熱が上っている様は、外見からでもはっきりと知れたのだろう。おもちゃの銃を弄くっていたマティアスの手が、ヘレの肘に触れた。

「どうどう、落ち着けよ」

 馬みたいな宥め方は止してくれ。食いしばっていた顎の力を緩めてそうぼやく前に、マティアスは天井へ顔を向けていた。

「試験は合格ですか、シニョーレ・サントロ。このままじゃ、相棒が本気でこの男の腕を砕きますよ」

「それは勘弁してやってくれ」

 突如降ってきた声は、状況に対してそこまで切迫した響きを感じ取れなかった。

「少なくとも、特殊部隊出身だって話は嘘じゃないみたいだな」

 ハンディスピーカーで話しながら近づいてきているのだろう。自らの手で地位と金を掴み取った男らしい叩くような足音を、ヘレは先ほどから耳で拾っていた。少なくとも、存在感のある男だという前情報に偽りはないらしい。


 転がるようにして部屋から逃げ出す噛ませ犬など一顧だにしない。ドアを潜ったテレンツィオ・サントロは、利口者によく見かけるせかせかとした歩みでソファへと向かった。握手など必要とする間柄ではないと、お互い承知の上。幅広のトラウザーズの中で、高慢さと中年太りの肉が今にもはちきれそうになっている。

「ヘレ・シュテーデルとマティアス・リアヒャー?」

「この度はわざわざお招き頂き感謝しますよ」

 「『フォン』と付けていただきたいものですね」とも「ジャクソン・ポロックなんか、遅れてきたヤッピーでもあるまいし」とも言わない、幸いなことに。マティアスはにこやかな表情と共にヘレの背を押し、元の席へ腰を下ろした。

「いい屋敷だ……スイス人には思いつかない、豪奢さで」

 当然だと言わんばかりに鼻が鳴らされ、不躾な眼差しが投げつけられる。サントロの体躯は軍隊で鍛え上げられたヘレやマティアスと比べれば、イタチと犬くらいの差を持っていた。それでも漲る自信が、ふんぞり返る姿を背もたれからはみ出しそうなほど大きく見せている。

 イタリア中の人間が食べているトマトの水煮で一財産築き、余生はただただ尊敬されるばかりの名士が国外へ移住した理由。口にされないものこそ、誰もが知っているものだ。税金逃れにもマフィアとの繋がりをごまかすためにも便利なスイス銀行。


 近頃の外国人締め付けで利率が下がったときも浮かべていただろう不機嫌が、切れ込みのような目尻に刻まれる。

「ドイツ軍特殊戦団出身? あんまり聞かねえな、要するにグリーンベレーみたいなもんか……大体おまえ等、30をちょっと越えたくらいがいいとこだろ」

「経歴書を持ってきた方が良かったですかね」

 男の目をまっすぐ見つめ返すマティアスは、仮面のように表情筋を一切動かさなかった。

「でも貴方がお仲間のごろつきから聞いた噂の八割は、本当だと保証できますよ。保険会社に電話してみればいい」

 そう、剽悍さは所詮ペルソナ(仮面)。自らと反比例するよう感情を高ぶらせるマティアスに、ヘレは横目を走らせた。攻守交代にはそれで十分。黒い瞳へ点った炎は、すぐさま下火になる。

「仕事の話を聞かせてもらえますか」

「普段はおまえがミスター・アイスで、奴がミスター・ファイアって訳か」

「ええ、まあ」

 へたくそな男のドイツ語へ、ヘレは殊更はっきりした発音で返した。

「ご心配なさらずとも、二人とも人を殺した経験があります」

 シガーボックスへ伸ばした手を一端止め、サントロは葉巻をくわえ慣れた分厚い唇に笑みを浮かべて見せた。

「気に入ったぜ、おまえら」

 コイーバの先端はシガーナイフではなく、歯で直接噛み切られる。吐き出した場所はテーブルの脇にある年代ものの真鍮製痰壷。お飾りのアンティークではなく、実用品だったのだ。

「ドイツ生まれだな。詳しいのか」

「一通りは」

 今はどちらも国外を根城にしているのだとは、勿論口にしない。そびやかされるマティアスの肩には無視を決め込んでおく。

「ミスター・ジョーンズの話だと、仕事の場所はフランクフルト。ありふれた案件だとか」

「そうだ」

 その一言を放つ以外、サントロの口はただ紫煙を丸く吐き出すためだけに使われている。けぶりに遮られたその先を、ヘレはじっと見つめ返した。

「ありふれた案件に、どうしてわざわざ外国から人を呼び寄せる?」

 撮影所のビュッフェテーブルで話を聞いたとき、ミスター・ジョーンズが冗談を言っているとしか思えなかった。本人が似ていると自負するエディ・マーフィーばりに早口でよく喋る男だ。出会った頃は、とんでもないガセネタを真に受けてしまったことも一度ばかりではない。

 ちげえよ、ブラザー。関係者でもないのに盛られたカナッペを貪りながら、ジョーンズは首を振った。今回はモノホン。ドン・コルレオーネが鳩時計睨みながら、救世主をお待ち申し上げている訳。



 ドン・コルレオーネにしては少し寛容さの足りない顔つきのまま、サントロはおもむろに口を開いた。

「7月12日が何の日か知ってるか」

 振り仰いだところで、マティアスも無言のまま首を振るだけだった。3ヶ月と少し後、夏が世界を支配し始める時期。カトリックの祭日が何かでもあったのかもしれない。それならば尚のこと、ヘレには無縁のものだった。

 沈黙が侮辱だと言わんばかりに、サントロの二重顎は持ち上げられる。

「初孫の誕生日だ、今年で3つになる」

 向けられる困惑など、全く堪えてもいないようだった。テーブルの上に乗せられたデキャンタからグラスへブランデーを注ぎ、掲げる顔はすっかり満ち足りている。客人に酒を勧める真似すらしてみせる程なのだ。

「いらない? ふん、クソマジメなクラウツ(ドイツ人)って訳か。まあとにかく、ガキは利口で活発でな。子守の脚を触るのが好きだって言うから、将来が楽しみなもんだ」

 マティアスの視線が、マントルピースに飾られた写真立てへ注がれている。アールデコに縁取られた憎たらしい顔のクソガキ。確かに、将来を不安がる必要はない。その顔同様、性格も祖父とうり二つになることは目に見えている。

「今年のプレゼントには、ちょっと値の張るものをやろうと思ってる」

 グラスの中身を半分煽った末のげっぷは、部屋いっぱいに響いて注意を促した。

「娘が言うことには、そろそろ屋敷に子供専用の遊び場を作りたいと。母屋とは別棟の、洒落たサンルームって奴をな」

 テーブルの上へ投げ出された写真を、ヘレは黙って手に取った。森の中にぽつりと佇む建物は地を這うように低く、四角い外観。ステンドグラスをはめ込んだ飾り窓。隠し撮りであるということは、不自然なアングルや覆い被さった木の枝から十分に見て取れた。

「フランク・ロイド・ライトかな」

 手元を覗き込んだマティアスの口調は、心底の好奇心に満ちている。

「年代ものだぞ、間違いない」

「ファン・デル・ローエならもう少し簡単に手にはいると言ったんだが、無機質過ぎて気に食わないとさ」

 まるで今日の夕飯を説明するような口調で、サントロは言ってのけた。

「金ならある。問題は、それが他人のものだってことだ。スーツケース3つ分のアメリカドルごと持ち主へ会いに行ったんだが、あのくそったれ頑として首を縦に振りやしねえ」

「まさか、この家をどうにかしろと言うつもりじゃないでしょうね」

 写真をマティアスに渡し、ヘレは顔を上げた。

「そういうことは、もう少し組織力のある暴力的な集団に頼んだ方がいい」

「まあ最後まで聞けや。弁護士に調べさせたら、登記に穴があってな。書類上、奴が以前の持ち主から譲り受けたのは土地だけ、あの建物は入っていない……所有の証になるのは、何十年も前に渡された手書きの権利書だけさ」

 ぽとりと葉巻の先端から落ちた灰が、磨き上げられた痰壷の縁を白く汚す。

「それさえ無くなっちまえば、建物を盗られようが何しようが文句は言えねえ」

「権利書の保管先は? 屋敷か、銀行か」

「弁護士に預けてる。フランクフルトの高層ビルに構えた事務所の金庫に突っ込んであることは調査済みだ」

 すっかり短くなった葉巻ごと、サントロはヘレたちを指さした。

「遅くとも誕生日の一ヶ月前には移築を開始したい。それまでに権利書を持って来い、3万ドルの報酬のうち、必要経費は今払う」

「3万ドル。ガキの使いじゃあるまいし」

 ふっと、マティアスは唇の端から息をこぼした。カモミールの向こうから立ち上る禁煙ガムのミント臭さが、張りつめた緊張の上を軽やかに滑る。

「鼻をかむにしてもしみったれた額だ。取りあえず今それだけ渡してくれれば、残りの20万ドルは完了後まで待って差し上げますよ。書類を盗んだ後の責任について、一切負わないという条件で」

 堅気を名乗ることなど許されない睨みつけにはしかし、否定の言葉が付いてこない。指二本分ほど中身の残ったグラスへ葉巻を放り込み、サントロは吐き捨てた。

「持ってけ、泥棒」

 罵りはそもそも事実なので、二人は特に否定をしなかった。




「孫へのプレゼントに歴史的建造物だって?」

 数時間前に降り立ったばかりのチューリッヒ・クローテン国際空港は、昼前で心なしか騒がしさも緩まっている。

 会談は滞りなく進行したので、フランクフルト行きルフトハンザ1190便の搭乗までに1時間半ほどの余裕が出来た。飛行機を待つために、これほど中途半端な時間もありはしない。

「頭おかしいんじゃないのか。そんな甘やかすと、ろくな大人にならないぜ」

 今日の「ハンデルスブラッド」紙と紙コップ二つを手に戻ってきたマティアスは、滑走路を臨むベンチで待っていたヘレの隣に腰を下ろした。

「眠そうだな、一等軍曹」

「放っといてください、大尉」

 受け取ったコーヒーは、アイスだったのかと勘違いしそうなほど冷めている。一口啜れば十分という代物だが、少なくとも覚醒の手助けになるくらいのカフェインは含まれていた。

「ヒヤヒヤさせないでくれよ。イタリア人は血の気が多いって言うだろう」

「オペラみたく、耳にでも噛みついてくるか?」

 コップに付けられたマティアスの唇も、案の定すぐさまひん曲がった。ガラスの向こうに見える滑走路と灰色の空。そして天井いっぱいに張り巡らされる装飾用の白いパイプ。この場にある全ての要因が重なり合い、不機嫌な彼の横顔を死人のような色に変える。

 この白面こそが、本来彼の持つべきものなのだろう。ヒトラーの死と共に没落した弱小貴族の末裔。太陽の街でTシャツを身につけ暮らすヘレと違い、ネクタイを締めビジネスマンと談笑する生活を送る人種。


「電話したとき。おまえがあんなあっさり、引き受けるとは思わなかった」

 ぽつりとこぼした呟きへ、マティアスは怪訝さも露わに振り向いた。

「この時期は仕事が忙しいって聞いたから」

「アナリストが一人いなくなっただけで回らなくなる事務所なんて、俺が詰めててもいつかは潰れるさ。それに、息抜きがしたいと思ってた」

 転回するSWISSのエアバスが、焦れったいほどゆっくりと目の前を通り過ぎていく。分厚いガラスの振動に対抗するかの如く、マティアスの口振りは普段にも増して明朗だった。

「どうしたんだ。本当に眠いのか」

「飛行機の中では寝たんだけれどな」

 伸ばした爪先が、立てかけられていたギャラリー・ラファイエットの紙袋を蹴飛ばす。自らの方に引き寄せるときも、マティアスのぎょろりと大きな目はこちらから引き剥がされることがない。まるでヘレが無謀すぎる突入作戦を提案して、既に準備まで整えてしまったと気づいたかのように。

「この前の仕事は四ヶ月前。預金残高が目減りしたわけでもないし、エージェントはちゃんと仕事を割り振ってくれてる。自分でも何故引き受けたか分からないんだが」

 取り出したキャメルは今朝買ったばかりなのに、半分しか残っていない。手首で叩いているとき、嫌にじっとりした視線を感じたが、気にせず唇へくわえる。

「普通なら、ジョーンズの持ってきた、しかもこんな臭い話、無視するんだけどな」

「普通だって。君に一番縁のない言葉だな」

 鼻を鳴らし、マティアスは肩を竦めた。

「あれだ。禁断症状って奴だろう」

「ニコチン?」

「違うよ。アドレナリン、スリル」

 顔がしかめられるのは、手で仰ぎ払う紫煙のせいではなく、さも嫌々と言った風に啜られるコーヒーでもないのだろう。

「童貞を捨てたばかりな発情期の猫みたいに、とにかく突撃したくてたまらなくなるんだ」

「僕はPTSDの検査に引っかかったことなんか無い」

「そりゃそうだろう。生まれついてのものなんだから」

 マティアスは笑った、声だけで。微笑んだり、あざ笑ったり、とにかくマティアスは昔からよく笑う。だが彼の瞳が笑みの形に細められるのを、ヘレはこれまで殆ど見たことがなかった。

「これは君の病気。そして俺の病気。違うか」

 フィルターに触れさせた唇で深々と息を吸い込んだ途端、中途半端な興奮域にあった神経が潮のように引いていくのを感じる。ヘレは無言のまま、鈍く輝く旅客機のボディへ目を向けた。もしもあれを掌握しようと思えば、二人で可能だろうか。


 この仕事を引き受けた時と同じく、当たり前のようにマティアスを頭数へ組み込んでいることに、ヘレは今更ながら驚いた。

「それじゃあ、地獄の果てとまでは言わないけど、せいぜい付き合ってくれよ。とりあえずは飯を食いに」

 このフロアから道を隔てた場所にある巨大なモールを思い出し、ヘレは紙コップをベンチの肘掛けに乗せた。

「腹が減って仕方ない」

「あっちで食おうぜ。ミリーとフランクフルターホフで待ち合わせしてる」

「彼女、ウィーンに住んでるんだろう」

 思わず手挟んでいた紙巻きをへし折りそうになる。マティアスはしれっとしたもので、立ち上がるどころか悠々と脚を組み直してみせた。

「最近会ってないし、せっかくの機会だからってことになって。君も来るって言ったら、楽しみにしてたよ」


 最後に会ったのは彼女が離婚した直後だったから、二年ほど前になるだろうか。あの時は、二人でコーヒーを飲んだ--カフェ・イム・リテラトゥーアハウスの、温室を思わせるガラス張りの店で。争議のやつれを湛えていてもなお、木漏れ日の下で輝く金髪は信じられないほど美しかった。


「ミリーは君のこと、好きなんだ」

 跳ね上がる心臓と共に首を捻れば、さも愉快そうな含み笑いが喉で転がされる。

「紳士だって。あんなクソ野郎に惚れる位だ、やっぱり姉貴の審美眼は狂ってる」

「彼女、元気にしてるのか」

「みたいだな。夜間学校の仕事にも慣れて、少しずつ元に戻ってる。大丈夫、男を部屋に引き込んでる様子はないよ」

「そんなこと、彼女の自由だろう」

 咥え直したから煙草を、いつの間に揉み潰していたのだろう。一口吸い込んでから先端の捻れに気づき、目を瞬かせるヘレを見て、マティアスは今度こそはしゃいだ声を上げた。

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