第十五話 終わらない夢

 青琥十四年七月。平真教軍はいよいよ関門海峡の間近にまで迫っていた。

「あぁ、あゆみ」

 この日の会議が終わったのは午後十時頃だった。

「後で地下に来てほしいんだけど……いいかな?」

「かしこまりました、陛下」


 帝都福岡の宮殿には皇帝や政府の重要機関が置かれている。その地下には、政府首脳を含む宮殿で働いていた人達のための遊技場があった。卓球やダーツバー、ボーリング場にビリヤード場、カラオケといった施設があった。お金にがめつかった美奈皇帝はもちろんこれらの施設を内輪だけのものにしていたわけではない。かつては帝都市民へ一般開放して、小金稼ぎをしていたこともある。かつてのローマ帝国でのサーカスや競馬のように、繁栄の象徴として誇示する狙いもあったのかもしれない。もっとも、美奈が病気がちになって以来一般公開をしなくなり、今では多くの市民達はその存在をくだらない無駄知識の一つとしか思っていないようである。


 地下室の扉を開けると、美奈がにこやかに微笑んでいた。薄暗い部屋では、頭の上の大きな赤いリボンがより目立っている。

「こんなところに呼びつけて……何?」

「えぇ。たまには遊んでみようかなぁ、と思って」

 おいおいこんな状況なのになにやってるの、とあゆみは心の中で突っ込んだ。

「実はここに来るの初めてでね。臣下や市民のために作ったけど、私はあんまり興味なかったから。……あゆみはあるでしょ?」

「えぇ、大臣同士の付き合いでね」

 しかし、何でよりによって今日なのか……? あゆみは不思議で仕方なかった。

「で、何やるの?」

「そうね……そう、あれ、一度やってみたかったの」

 美奈が指差したのはビリヤードのテーブルだった。


「美奈、キューの持ち方全然違う」

「……ちょっと待ってくれ。全部の球が一気に入るとかありえないから」

「あぁ違う違う。こういう場合はね、こんな風にスピンかけてね……」

 美奈は全くのビリヤード初心者で、あゆみはルールを教えるだけで一苦労。

 しかしそれでも。

「おぉ……今のなんか良い感じじゃないかしら?」

「全然良い感じじゃない」

 下手ながらも美奈は楽しんでいた。美奈の笑顔を見て、ここのところ緊迫した状況で疲れが溜まっていたあゆみの心も穏やかになったようだった。

 そういえば、美奈の笑顔を見たのは随分久しぶりのようにあゆみは思えた。

 そう。こんなくだらないことをして笑いあっているのは――戌亥榮太郎が生きていた頃のようで。


「ビリヤードはあんまり体力関係ないから、美奈でも練習したら上手くなれるよ」

「そうかなぁ」

「うん。あんたも引きこもってばかりいないで、たまにはこういう遊びもしなさいよね」

「そうだね……考えとく」

 笑顔を崩してはいなかったが、美奈の声のトーンが少し低くなった。

「……なるほどね。どんなに辛い、しんどい現実が目の前にあっても、こうやって遊んでいるうちに気が紛れるもんなんだね」

「そうそう。美奈ってさ、落ち込むときはとことん落ち込むでしょ? ちゃんと気分転換できる方法とか考えていった方が良いって」

 せっかく晴れ渡った空がまた曇っていくような気があゆみはした。

 あえて明るく振る舞っているのに。あえて前を向いているのに……。

「そうね」

 美奈はこつんと手球を押した。

「でも今こうやって楽しんでいる一時も、後から思うと夢にすぎないのかもね」

 美奈は微笑んだまま、そんな恐ろしいことを言ってのけた。

 あゆみには痛いほどわかっていたのに。今楽しかろうが、何も現実は変わらないこと。もしかしたらこの後、取り返しのつかないことになってしまうかもしれないこと。そして……きっと、この一瞬も夢になってしまうこと。

 あゆみは頭を横に振った。まだチャンスはある。まだ現実は変えられる。夢を続けることだって、まだできるはず……。

「ねぇ、美奈。ちょっと聞いておきたいことがあるんだけど?」

「……何?」

「何か変なこと企んでない?」

「私の考えてることってたいがいが変なことだと思うわ」

「まぁそうだけどさ……」

 やはりはぐらかされてしまった。

「私は私のやるべきことをやるだけよ。……えぇ、ほんとそれだけよ」

「やるべきことね……」

 大臣達の前で守るべきものはこの国なのか、と問い質したあの日以来、あゆみの胸中には不安がよぎっていた。

 この国を守るためには、この国以外のものは犠牲にしていいのかと。


「言うなれば」

 再び美奈の番になった。手球にキューを押し付ける。

「私はこのビリヤードの手球なのかもね」

 手球は的球に当たってからポケットの方をめがけ転がっていく――

 が。

 ――こつん。

 あゆみが弾いたある的球にぶつかって静止した。

「あんた、私が弾いてなきゃ、手球落としているところだったわよ」

「それは助かったわね。手球落としちゃだめじゃん」

「……そうよ。手球は最後までテーブルの上に残っているべきものだわ」

 本当はあゆみはこう言いたかった――「わざとでしょ?」って。

 でも。美奈の手球はテーブルから消えていない。あゆみの機転によって。

 だからまだ――。

「あんたが何を考えているか知らないけど、私にはね、この国よりも大事なものがあるから」

 じっとあゆみは美奈を見つめた。


「あんたをこの国を守るための捨て駒にはさせない。そんなこと他の大臣や市民や外国が許したとしても、私が許さない」


 そして告げた。

「きっと外国を巻き込んで、大戦争になる覚悟をあんたはしてたのよ。この島の人達の、いや全世界の人達の血を大量に流すことになってもね。そうなったら、あんたはのうのうと皇帝の地位に居られないから退位することを条件に、いえ――」

 一度息を吸い込んで、あゆみは毅然と言い放った。

「『帝衣は最高の死に装束なり』ってあなたは即位した頃言ってたよね。だからそのまま死ぬつもりだったんでしょ?」

「くっ……!?」

 美奈の表情が崩れた。

 

「もう心を閉ざすのはやめよう、美奈。あんたを必要としている人は大勢居る」

 あゆみは表情を変えずにじっと美奈を見つめ続けている。

「被害妄想に襲われるのはやめよう。確かに市民達はあなたを苦しめたかもしれない。けど、ここまでこの国を変えてくれたあなたを心から恨んでいる人なんて居ないはずよ」

「そんなこと……」

「だから裏切る人は裏切ればいい。領土が思いっきり狭くなってしまっても……福岡だけしか残らなくってもかまわない。あんたを慕ってくれる人の手で、せめてあなたとあなたが好きな人のための居場所は守り抜こう」

 間髪を入れずに、あゆみは言葉を続ける。

「大臣達とも話したわ。この国はね、たとえあなたが直接政治をやってなくてもあなたあっての国なんだよ。今の大臣達はあなたが夢見てた改革を推し進めている。あなたの理想を認めているからこそなのよ」

 そして。

「あなたとあなたの国がこの地上から消えてみなさいよ。戌亥さんが大事にしたかったものがみんな無くなっちゃうじゃないの」

 美奈の心の傷を作り出したであろう張本人の名前を出した。

「あんたこのまま死んでも、戌亥さんには絶対会えないね」

「あゆみ……」

 力が抜けてくず折れた美奈を間一髪であゆみは抱きとめた。

「戌亥さんや私が大好きな美奈はね、こんなことじゃ絶対諦めないから」

「うっ……うぅ……」

 ぎゅっと何かにすがるように、美奈はあゆみに抱きついた。目から大粒の涙を流しながら。

「だから、精一杯生きようよ。最後まで戦おうよ」

 あゆみは泣きじゃくる美奈の頭をそっと撫で続けた。

 ……かつて、即位して間もない頃に、美奈が泣きじゃくるあゆみの頭を撫でたように。


 翌日。

 帝都福岡の平和台公園で美奈皇帝が演説を行うということで、大勢の聴衆が集まった。皇帝が自らこの地で演説を行うのは十三年前の七夕でクーデターを成功させたとき以来であった。

「もしかして陛下の秘策って……いや、まさかな」

 突然の演説会開催とあって戸惑い気味の小林宰相ら政府首脳の横で、二人の女性は顔に笑みを浮かべながら壇上を見つめていた。

「あぁ、思い出すな。あいつの最初の演説はちょうど先帝が亡くなった時でな」

「それは聞いておきかったわね」

 兵庫を追われた元知事の永子と、広報大臣のあゆみ――美奈にとってかけがえのない親友二人だった。

「お、いよいよだな」

 静かに今日の主役は壇上へと上がった。その表情は生き甲斐を失った老女帝のものではなく、かつての意欲に満ちた若々しい女帝そのものだった。


「親愛なる帝都市民の、いえこの空の向こうにもいる我が帝国の市民の皆様。まずは私自身の不徳の致すところにより、このような亡国の危機を招いたことを深くお詫びします。全て為政者たる私の責任です」

 どこからか罵声のような声が聞こえた。しかしそれに怯まず、美奈は言葉を続ける。

「しかし愛すべきこの我が国は私だけのものではありません。かつて十三年前の七夕の日に、私がこの舞台に立って以来、我が国は輝かしい成長と栄光の歴史を刻んできました。時には挫折することもありました。しかし今日この日に至るまで、私達はこの神陽帝国の国民であることを心より恥じたことが果たしてあったでしょうか。私ははっきりと言いましょう。あなた方が我が国の市民であることを心より恥じたことなど無いと!」

 一呼吸置く間に拍手が起こった。

「この国の輝かしい歴史はあなた方の手によって作られてきたものです。今、私と私の国を否定し、蹂躙しようとする者がいます。その者達が否定しようとしているのは、あなた方が汗を流して作り上げてきた歴史そのものなのです。このようなことを果たして許していいのでしょうか。十三年の月日が過ぎてようやく得た自由と平和と経済的繁栄を、根拠の無い懐古主義によって壊そうとしているのはどちらなのでしょうか。私達はまた、あの圧制と困窮の時代に戻らなければいけないのでしょうか」

 この場に居る誰もが十三年前の七夕の光景が頭によぎっていた。その時も皇帝はこのように言っていた。

「朕、神陽皇帝たる美奈はあなた方市民の自由の擁護者たることを今一度ここに誓います。そして、あなた方市民は父たる帝国の栄光のためにもう一度自由を勝ち取ることを誓っていただきたい。錦の御旗を掲げ、我に反したる、平真教徒を打ち倒しましょう!」

 そして。

「市民の皆さん、今、我が神陽帝国の市民は誇りを持って自分の足で立てるのです。私はこの神陽帝国とその市民の持つ可能性を強く信じて疑いません。この国の未来はあなた方市民の手にあるのです!」

 割れんばかりの拍手喝采が平和台公園中で鳴り響いた。


「なぁ……」

 じっと演説を静聴していた永子は同じく美奈を見つめ続けていたあゆみに声をかけた。

「この広い世界にさ、もう皇帝って一人しかいないんだってな」

「そうらしいわね」

 強力な権力者は大勢居るだろう。だが今目の前に居る女帝ほどの権威をもつ人間は他にはいないのだ。

「でもね、美奈の場合は皇帝ってこともあるだろうけど、やっぱり人を惹きつける何かがあると思うの」

「……そうだな」

 戦況は不利であるにも関わらず、今この場に居る人間は皆確信していた。

 ――この国は滅びない。

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