第十二話 残されたのは約束だけ

 既に歴史の表舞台を去っていた皇帝に再登板のきっかけを与える事件が起こったのは青琥十二年一月のことであった。

 東神陽帝国の兵庫県知事選挙で当選した人物が、周辺の県と共に東帝国からの離脱と西帝国への参入を表明したのだ。

 その人物、新兵庫県知事の名は、塚口永子といった。


 もちろんその一報は西神陽帝国帝都の福岡にも届けられた。

「神戸が我が国のものとなったら経済効果は計り知れませんなぁ」

「しかし東は黙っちゃいないぞ。もし戦争にでもなったら不味いのじゃないか」

「うちがボロボロの東に負けるわけないだろう」

「いやしかし、地位保障問題の時の経緯から考えても……」

 政府首脳の間で様々な意見が交わされる中、

「ごめんなさい、少し遅れました」

この国の皇帝が秘密会議の場に姿を現した。

 美奈皇帝、二十九歳。ただでさえ華著だった体は痩せ、若々しかった顔もくすんでいて、かつて目の内にあった力強さも消えていた。しかしながら、のほほんとした笑顔と和やかさだけは消え失せていなかった。

 あるマスコミはこの頃の美奈皇帝についてこう評した。「病気とはかくも恐ろしいものか。穏やかさこそ変わらずといえ、五年で若き女帝を老女帝に変えてしまったのだから」。

 東園内閣退陣以降、美奈は病気がちになったため彼女抜きで国政は運営されていた。しかしここのところ、ようやく体調も上向き、御前会議が開かれるようになり、いくらか国政に介入することも増えてきていた。

 この日の議題はこの塚口知事の西帝国への参入表明についてどのような態度をとるかということ。そしてもし受け入れるとしても、東帝国からの軍事的な反発が予想されるが、それにどう対応するのか、ということであった。

「だいたい一通り、意見は伺いました」

「その上、なにより国の統帥権は陛下にございます。我々の間でも議会でも意見は五分五分に分かれておりまするゆえ、なにゆえ陛下のご聖断を仰ぎたく」

「私? そうね――」

 美奈は一呼吸置いた。

「万一東帝国が神戸へ軍事侵攻するような事態が起こった場合、我が国も介入しましょう」

 この瞬間、大きなどよめきが起こった。今までの実績からすると、美奈皇帝は武力行使を好まない平和主義者と見られていたため、あまりにも予想外の返答であったからだ。

「しかしながら陛下、あからさまに東に宣戦布告しては国際社会から非難を浴びるのでは?」

 とある大臣からの意見を、美奈は軽く受け流した。

「そのことは承知済みよ。ですから向こうが先制攻撃してから対応するの。東帝国は今なお困窮状態であると聞くわ。一方我が国の国庫はまだまだ余裕がある。そこで、東帝国が困窮のあまりとち狂って我が国を攻め、攻めきれずにさらに危機的状況に陥ることでしょうね。これで友邦を救うことになり、東に対しても優位に立てる……何の問題もないわ」

「なるほど」

 各大臣が頷く中、一人だけ苦笑いをしていた大臣がいた。この時には広報大臣として政府のスポークスマンを担っていた秋田あゆみである。


「何たくらんでんのさ?」

 その晩、例によって美奈とあゆみによる夜のお茶会が開かれていた。

「理由は四つ。一つ目は、皇帝の権威が低下しているのを立て直すため。自由には市民も慣れちゃったから、対外的な栄光が必要でしょう?」

「冗談でしょ。それは大臣達を説得させるための理由じゃない。あんたならもっと別の形で、栄光を掴むことができるはず」

「鋭いわね」

 美奈は苦笑した。

「二つ目も似たようなものだけど、我が国の自由主義体制が、東の独裁体制より正しいことを示すため。これも私が名皇帝たることを示すためよ」

「あなたは名誉を求めるタイプじゃなかったはずだけどねえ……」

 今度はあゆみが苦笑した。

「それも建前でしょ。うちが東より優れてることなんか、戦わなくても分かり切ってること。……第一、今滅茶苦茶の東の県を横取りなんかしたら、お荷物になる危険がある。美奈皇帝という人は、そんなリスクの高い手段は取らないはずよ」

「さすがね」

「わかったから、本当の目的を言いなよ」

「三つ目。あの兵庫県知事はね、友達なの」

 美奈はあゆみに一枚の写真を見せた。

「この子」

 いかにも勝気な性格をしてそうな少女が若き日の美奈の横で笑っていた。

「塚口永子はね、私の中高時代の親友なの。見捨てることはできないわ」

 しばらくあゆみは黙っていた。が、

「美奈。あのね、親友かもしれないけど、そんな個人的なことで――」

「まぁ最後まで聞いてよ……その最後の四つ目。最終的に東帝国をも合併して、妹の沙織と、幼なじみの綿谷を救い出すため」

 あゆみは凍りついた。

 幼い頃、沙織と綿谷、そしてあゆみは良い遊び友達であった。美奈は勉強ばかりして引きこもりがちであったとはいえ、彼らのことはあゆみからよく聞かされていた。

 いつごろであろうか。彼らの関係が上手くいかなくなりだしたのは。一つは博喜が沙織に「帝王学」を施すために、一般市民の綿谷や使用人のあゆみから遠ざけたこと。そしてもう一つは、あゆみが淡い恋心を抱いていた綿谷が自分ではなく沙織のことをずっと見つめていたことに気付いてしまったことであった。

 時は流れ、沙織は混迷を極める国の皇帝として幽閉されたような状況で、綿谷の行方も知れない。いずれも彼らが思い望んだ未来ではない……。

「まさか……私への償いって……本当は父に償わせたかったけど、できなかったことって……」

 美奈は静かにこくんと頷いた。

「あなた……わかってるの? これはもの凄く危険な賭けなのよ。悪く転べば、今まであなたがやってきたことが台無しになりかねない、危険な計画なのよ。それなのに、どうして、そんな……」

「私の唯一の生きている理由だから」

「ちょ……、どういうこと!」

 あゆみは声を荒げた。しかしそれ以上に美奈は声を荒らげて叫んだ。

「そのままよ! 私は市民に愛され尊敬される皇帝になろうと思った。でも、もう疲れたの。気まぐれで、何も分かっちゃいなくて、自分達の都合のいいことだけ受け入れて、掌返しをすぐするような市民に、へこへこ頭を下げて身を削られるのはもう嫌なのよ……。このままじゃ私は私でなくなっていく。私は市民にとって都合のいいただの兵器になってしまう……」

 市民の反発によって、自らの目指した改革が頓挫したことが、美奈は今なおトラウマになっていたのだ。

 民衆の力を旗印に民主化を推し進めた美奈。しかしだからこそ、民衆というものの恐ろしさを誰よりも知っていた。

 権力の正統原理を民衆に求めたこと自体が間違いだったと言う者もいるだろうが、それは間違いである。だって彼女の場合、即位した時点で白色革命を起こさない限り、命すら危うかったのだから。そしてその革命は民衆の力無しではなしえなかった。

 彼女の元来の臆病さとお人好しが、このような結果を生んだ全てであろう。もし策略を弄するに相応しい狡猾さ・残酷さをもう少し持っていたのであれば、それこそ彼女はナポレオンになれたかもしれない。

 彼女に君主は向いていなかったのかもしれない。しかし最後まで君主たることを彼女は選んだ。

「皇帝としての私に残されているのはね、こんな私と仲良くなってくれた、こんな私を守ってくれた人達を助けることしかできないの。あの日の約束――あの子との友情を守る、とか、あなたへの償いをする、とかそういうことだけなの。だからそれが唯一の生きがい」

「…………」

「協力してくれるよね? 異論はないわよね?」

 あゆみがやっとの思いで首を縦に振るまで、長い時間を要した。


 三月に入って案の定、東帝国軍は兵庫県の県都・神戸へ侵攻した。それを受け西帝国からも主に海軍を派遣。後に「乙酉戦争」と呼ばれた東西帝国の衝突事件が勃発したのである。


 夢を見ていた。

 薄暗い夜道を美奈は歩いていた。あてもなく歩いていると、いつの間にか人気のない公園へとやってきていた。

 誰も居ないし、この場を離れようと思ったその瞬間、

「――姉さん」

聞き覚えのある、懐かしい声が背後からかけられた。

「……さ、おり?」

 彼女のたった一人の妹であった。おそらく十数年前の姿の。

「久しぶりだね、姉さん」

 彼女の感情を美奈は読み取れなかった。が、美奈が呆然としている間に、少しずつ彼女は間合いを詰めてくる。

「会いたかったよ姉さん。私ね、姉さんに話したいことがあったんだ」

 彼女は平然としていた。だからこそ感情が読み取れない。

 ――怖い。

 美奈は足を後ろへやろうとしたが動かない。

「怖がらなくてもいいよ。あのね、姉さん」

 そして……

「死んで」

 笑みを浮かべながら彼女は言ってくる。

「ねぇ、私の幸せを奪った姉さん。私のできないことができる姉さん。私なんかより全然皇帝として立派な姉さん。……死んで」

 言い返えそうにも口が動かない。

「ねぇ、どうして死なないの?」

「あなたのせいで、どれだけ私が苦しんだと思ってるの?」

「私だけじゃない。あなたのせいで大勢の人が苦しんでるっていうのに」

「あなたはそれでも生きていようだなんて、ほんと我侭だね」

「だから――死んで。いや、」

「……私が、コロして、あ、げ、る」


「ひゃっ!」

 何かを打ち付けられたかのような痛みで、美奈は目が覚めた。

 心臓の異常に速い鼓動が収まらず、息苦しさを感じていた。

 ――そうよね。

 夢の中の妹に向かって、美奈は思う。

 私なんか生きていても、と。

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