しあわせなはなし

白樺セツ

しあわせなはなし

一瞬のことでございました。

白い閃光がほとばしったかと思うと、わたくしはいつの間にか花畑に立っていたのでございます。

 

見渡す限り一面の花、花、花。

ふわふわと甘そうな桃色。

切なさのにじむ夕焼け色。

哀しげだけれども凛とした空色。

全てを包み込んでくれそうな暖かい黄色。

気難しげな紫色。

全てを言い表すには言葉が足りません。

その景色は、この世のものとは思えない美しさなのでした。

 

わたくしはやせっぽちのこどもでした。おくびょうでひくつな性格でした。

だからすぐに足をふみ出すことができずにおりました。

立ちつくしている間、花をじいっと見つめるばかりだったのです。


あの気位の高そうな青い花に、そっちの華奢な白い花を添えて編む。

そしたらきっと、上品で、気品ただようすてきな花冠になるはずでした。あの黄色の花も、紫の花も、きっと。

わたくしはもう、何をどうしたって絶対にそれらを摘みたくなりました。


わたくしはあのギクシャクと折り曲げることのできるながい定規のように、体を折り曲げました。そしてあしもとにある花へと手をのばしたのでございます。


そうしてやっと気づきました。

ふしぎなことに、わたくしはなんの植物もふんではいませんでした。あしの下には運動場にあるような、白っぽい黄色の地面しかなかったのです。


はてはてこれはどうもいやなよかんがする。


わたくしの背はじんわりとつめたい汗でしめりました。

のばした手をひっこめようとしました。そのひょうしに、ちかくにあった花に触れてしまいました。


今度こそ、ぞっとしました。


わたくしが触ったのは黄色い花だったのですが、そのやわらかそうな花弁に中指の腹が触れた途端、ぶよぶよとした感触がしたのです。

羽を一まいのこらず抜かれた鳥の皮が、張りをなくしたような、ぶきみな感触でした。

なにやら、花弁は弾力のあるやわらかいものでできているようでした。

耳たぶほどの厚みがあり、ガクは赤く、茎は地面にのびるほどに白くなっていくのでした。


はたと、これはもしや人ではないかと思いました。

花弁をよくよく見れば、その表面はきめ細かく、たまにぷつぷつとした毛穴のようなものがうかがえるのです。

他の花も同様でした。

紫、赤、青……まさしくそれは変色した肌だったのです。

いよいよ体の震えは大きくなりました。


いったいここはどこなのでしょう。

あの世なのか、それとも狐に化かされているのか。

はたまた、ただたちの悪い夢を見ているだけなのか。

夢ならばさめてほしいと、せつに、せつに思いました。


わたくしは確かにおくびょうでひくつなこどもです。

誇れるような良いことなど、ましてや親孝行などしたこともありません。いつも誰かの背に守られていたのです。

わたくしはいつもいつも自分が助かり、幸せになることだけを願っておりました。

誰かが不幸になろうとも、知ったことではないと考えていたのです。


善行をひとつもつまなかったから、バチが当たったのだ。

恐ろしくて恐ろしくて、わたくしは両の手で頭を抱え、しゃがみこんだままがたがたと震えました。

そうしていると、なんだか自分もこの花たちと同じものになった気がしました。

きっと、だからわたくしのあしの下にだけ地面が露出しているのだと思いました。

 

――顔をおあげ。


突然声がしました。

わたくしは驚いて、ぱっとあたりをみまわしました。


――大丈夫。こわがらずともよい。


声の主はみあたりませんでした。

ここにいる人間はわたくし一人でございました。ほかにいるとしたら、一面に広がる花だけ。


――おまえは自分のことを、ひどくげびた人間だと考えている。

  だけども、そうではないの。

  こどもとは、まず自分のことを一番に考えなくてはならないの。

  自己中心的でなくてはならないの。

   

  あなたはその花の花弁に気付いたわ。

  そしてそれに対して気味悪く思ったのだ。

  それでいい。

  あなたはあなたのためにあなたが全てを判断すればいい。

  正しさはそなたの中にある。

  世界は間違っていて君だけが正しいわ。

  だから貴様がわたくしを善き者の声とするか、悪しき者の声としてしまうかは汝の判断になるの。

  おまえはおまえであり、わたしはわたしだ。

  君は今から選ぶことになる。

  この世界を幸せな終点と考えるか、行き止まりの穴と考えるか。

  はたまた最初から自分は花であったのだと考えるか。 

  おまえは今から選びなさい。


  選びなさい。


  選ぶのです。

 

  選ぶのだ。


  選べ。

 

  選択しろ。


  そなたはいまからなにをきめるのか。





気がつけば、私は汗をかいて布団の上で横になっていました。


ああ、先程あったことはただの夢だったのです。

ここにあの花畑はありません。

ここは心穏やかでいられる私の部屋なのです。

いっぱいいっぱいになった心は途端に余裕を取り戻し、ホコリの混じった部屋の空気を吸うことができました。

私は手元のソレをかきよせました。太古の生物の死骸が溶け込んだ、地中奥底からくみ上げた液体を精製して作られた繊維が編み込まれた布団はとてもとても柔らかくて、ふわりとわたしの全てを包んでくれました。ぎゅうっと顔を押しつければ、何か清々しく古臭い何かが鼻孔を通り抜けました。

生に満ちた細かな命がひしめき合っているのでしょうから、それは当然のことです。

それでも近いうちに太陽の光に照らして彼らをコンクリートの地面へと叩き落としてやらねばなりません。


起きたのね。


声が聞こえました。

母が木製のおぼんにコップと蓋をしたお椀を乗せてやってくるところでした。

木製のおぼんには、粉のような何かがまんべんなく蠢いていました。

母が渡してくれたコップの底にはそれらがほんの少し付いていて、私はコップの真ん中あたりをしっかりと持ちました。

中には透明な液体などが主に波紋を広げていました。


私はそれを一息に飲み干しました。

空気と共にのどを通って何かが強引に通り過ぎていきました。

とたんに胸から何かこみ上げてくるような気がしましたが、ぐっとそれをこらえました。

コップが割れそうなことに気付いた母は、私からコップを取り上げました。

それから背中をなでてくれました。

とても、とても……申し訳なく思いました。

背中を撫でてくれたのは嬉しかったです。

その気遣いは良いものなのです。

なのに、ひと撫でされるごとに吐き気がもよおされました。

私の外側から内側へと、何かが干渉する。内臓を撫でられているような気にさせました。


大丈夫、となるべく何でもないように、傷つかないように、母を離れさせました。

母はいたく心配しておりました。

私は学校の朝礼で倒れたあと、保健室でずっと眠っていたのだそうです。

幸い今日は始業式。

授業は無く、朝礼の後にあったオリエンテーションの内容はまた教えていただけるとのことでした。

とてもありがたいことです。


保健室の先生の見立てによれば、これは貧血だろうということでした。

確かに、最近あまり食事がのどを通らず体調を崩し気味でありました。

追い打ちをかけたのは、恐らく月のものでしょう。

体が耐えられなくなったのです。


母がお椀の蓋を外すと途端に良い香りがしました。お椀につがれた真っ白なお粥でありました。

白いお米の一粒一粒がふやけていて、うわずみは白く濁っておりました。

母はそれを私に食べさせてくれようとしましたが、大丈夫、と私は断りました。

だって、恥ずかしかったのです。仕方がない。

私は陶器製のれんげで粥の表面に割れ目を入れると、そのまますくいあげて口に運びました。

舌の小さな突起が熱い白さにちぢこまりました。それからチリチリした痛みが走りました。

だけども私はそのままそれをのどの奥へと追いやって胃の中へと落とし込みました。

のどは熱く焼けて痛みがありました。

まるで削られたような痛さです。

はて。私はのどを削られた経験などありません。この言い方は不適切です。


「慌てなくてもいいのよ」


ぎゅっと目を閉じて痛みに耐えると、母が慌てて言いました。

慌てているのは、あなたです。女性。

わたくしはどうもない。

ただ口の感覚を麻痺させたかっただけ。

私は。わたくしは。


一人になりたいと思いました。

唐突に思いました。

どうしてと言われても仕方がありません。

私は先ほど見た夢をもう一度吟味してみようと思いました。


寝ます。寝ますから出て行ってください。

そう言ったわたくしを、女性は目を伏せて「分かったわ」と言いました。木と樹脂で出来た白い扉の向こうへと消えていきました。

 

私は起こした体をまた横たえました。首元でシャリ、シャリ、と音がしました。

顎骨が砕けるような音でございます。

もしくはリンパ液が流れるような。


シャリシャリ、という音はわたくしに赤い林檎を思い出させます。

私はその味が好きなのですが果肉を噛む感触がどうも苦手でした。歯で咀嚼しているのに歯自体をシャリシャリと砕いていくような感覚になるのです。


でもそんなこと、関係ありません。

どうでもよいことです。

どうでもよくあるべきなのです。

本当に。

これはそば殻の枕です。

だからこんな音がします。


焦げ茶色の小さな殻の一つ一つが重なり合って、その隙間を風が通る。

押しつぶされた殻の空気は枕から出てきてわたくしの頭を包み込む。

それがどうしたの、と人は言うでしょうが、わたくしはとりとめもなくそんなことを考えてしまうのです。

いつもいつも。

 

手で手元の布団を首元まで引き上げました。


それから、私は、あのきれいな花畑の夢を、思い出し始めました。

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