アッシュ

序章『h』

湖のほとりに屋敷がそびえたつ。赤レンガとフランス窓、くすんだ朱色の屋敷はまるでずっと昔からそうであったかのようにどっしりと構えていた。競うようだった来訪者たちもなりを潜め、今は静寂が辺りを支配している。

「ここは面白いところだね、ガトー。色々な人がいる」

さして面白くもなさそうな表情でアッシュは傍らを歩く小間使いに声をかけた。ガトーと呼ばれた少女は自分の主人に眉根を寄せたまま一瞥をくれると、返事もせずに立ち去った。それをさして気を悪くした様子もなく、アッシュは煙管を手に取った。火を着ける一瞬だけ恍惚とした表情になり、すぐ元の顔に戻る。煙管をひと吸い。燻らせた煙を舌で転がし、ふうっと吐き出す。白っぽい不透明の靄が膜のように広がっていく。アッシュは足を投げ出し、椅子にどさりともたれかかる、革のレースアップブーツの踵が床とぶつかって硬質な音を立てた。アッシュは煙を深く吸い込むと背もたれに頭を預け、肺から吐き出された煙の行方を目で追った。濃度を変えながら漂う化学物質の粒子達が均質に空気に溶けてからしばらくして、ようやくアッシュは緩慢な動作で結われた赤毛の長髪を椅子の背に流した。

「ねえガトー。あの黒髪の女性だけど」

「黒髪の女性……ああ、巫女か。ご主人、よくよく赤いものが好きだな」

ガトーは不機嫌そうな低い声を発した。アッシュの位置からは表情までは見えない。煙で視界が曇っている。靄の向こうにはガトーがいる。

「気にならない?」

「私はならない……そうだ、あのロザリーとかいう女のほうがよほど気になる。巫女にどことなく似ているが、あちらの方が骨がありそうだ」

「そう」

アッシュは白く棚引く煙を食んだ。

「僕は彼女を調べることにするよ。楽園の中で出会った誰より因果律の向こう側に近いような気がするんだ。それに、とても美しい」

「火よりも?」

うんざりした様子でチョコレート色の小間使いは尋ねた。その言葉に赤色の科学者は少し考えたようであった。ガトーは、おや、と思った。いつもならば、冷たく燻る白い煙と火の燃える一瞬の煌めきに勝るものなどないと至極簡単に答えているところだ。

「そうだね、火よりもだ」

ガトーは驚くべきものを見たとでも言うように、ぎょろりと館の主人を見た。

「ん……なに?」

「……いや、別に」

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