第2話青春入門その2
俺は薬品と何かが入り混じった匂いで目を覚ました。小中学校ではあまり世話にならなかった保健室の香りだろう。ベッドのある部屋と保健室は隣合っているということをこの時に初めて知った。
保健室への扉を開けると目の前に金髪の女性が座って居た。思わずたじろぐ。同じ学校の生徒だと言うことに気づくことすら一瞬遅れた。
「やあやあ目が覚めたみたいだね。と言っても30分程度か。君が寝てたのも」
「はあ」
よく言ってることが呑み込めず生返事しかでない。
「無事そうで何より。それよりきみきみ、なんか言うことあるんじゃないかな?」
無茶を言うな。最後の記憶は「たかがメインカメラをやられただけだ」を英文にしてた記憶だぞどうやって学校来たかも覚えてないんだ。
「すんません。自分でも良くわかってないんです。僕は何故ここにいるんでしょうか?」
「ふーん……」
訝しげにこちらを見てくる女生徒。よく見たらというかよく見なくてもその容姿は端麗と表現する以外相応しい言葉が見つからなかった。
「ま、そこら辺はおいおい話すとして、まずここに座って欲しいな。立っているのも何かと負担だろう」
女生徒は座っていたソファを立ち俺をそこに促した。そして勝手知ったるかの如く利用者名簿を取りだす。
「矢継ぎ早で申し訳ないが名前とクラスそして今回君がこうなった理由について思い当たることを話してくれるかな? 一応保健室を利用したら書かなきゃいけないんだ」
こちらが意識し始めたことを理解してる様子もなく話し続ける。とりあえず聞かれたことに答えることにした。
「1年2組の水野タダクニです。理由は……多分寝不足です」
他に考えられる理由もなかったので素直に伝える。
「水野クン、ね。きみ軽いからもっとご飯食べなよー」
すごく嫌な予感がした。
「んじゃあ一応寝不足になったわけってのも差し支えなければ教えて欲しいなあ」
しかしトントン拍子で話を進められていく。
「えっと……前日英語の宿題を出されてそれが結構難しかったので……」
それを言った瞬間目を輝かせながら女生徒はこちらに顔を近づけて話をしてきた。近い。
「それってさ! アニメのシーンを英語に訳すって奴でしょ!」
近い。
「そうですそうですそうです」
もう顔を振りながら後ろに引くしかなかった。
「あははごめんごめん懐かしくなっちゃってさぁ。この時期になると1年に出すらしいんだよねえ毎年」
どうやらこのはた迷惑な宿題はこの学校の伝統行事らしい。もっとあるだろ残すもの。
「あれは確かに困るねえ。私も去年答えたからわかるよぉ。そんで徹夜から寝坊して集会のコンボってわけだ。災難だったねえ。でも無理はいかんな無理は」
不思議な喋り方してるなあ。
「以後気を付けます」
しかし口に出すわけにもいかないのでこんな返事しかできなかった。
「じゃあ今度は何故きみがここにいるのかを私が語ろう。端折って言えば気絶した君を私がおんぶして連れてきた」
さっきの会話で大体予想できてたがいざ言われると辛い。多分その姿は大勢の人に見られただろう。気絶した男が女におんぶされている姿なんて……。思春期に恥という感情は弱点と言うほかない。
「あ、ありがとうござい……ます」
しかし助けてもらった礼はしなくてはならない。一刻も早くこの場を離れたかったがなんとか堪えた。
「っていうのもさあ。きみがいきなり私の前でフニャって気絶するもんだからさ。何事かと思ったよほんとに。なんとか受け止めたけど怪我はない?」
「えっと…その辺は大丈夫みたいです」
捻挫もタンコブもない。階段を踏み外した瞬間に気絶したのか。この人が受け止めてくれなかったらと思うと少し怖くなった。
「僥倖僥倖。きみにも恥ずかしい思いさせちゃったかもしれないけど許してくれたまえ」
さっきとは違う意味で恥ずかしい。赤の他人同然の自分をここまで気遣ってくれているのに卑屈な考えしか持てなかった。事実この人はいなかったら自分は今どうなってたかもわからないのだ。
「いえこちらこそほんとによくしてもらって、ありがとうございました」
次は本心から言えた。
「それに集会もサボらせてしまってすみません」
「いいよ。私保健委員だし当たり前の仕事しただけだからさ」
埋め終わった名簿を元に戻しながらこちらに近づいてくる。
「もう大丈夫そうだから私は教室戻るよ。保健の先生ももうそろ帰ってくる頃だろうし、なんか異常感じたら素直に伝えなね」
同年代では感じたことのない大人びた笑顔でそう言われ少し見惚れてしまった。そうして去って行こうとしている後姿に向かって勇気を出す。
「あ、あの今度お礼させてください! なのでな、な、なまえ」
上手く言葉を発せない自分に不甲斐なさを感じていると女生徒は振り向き
「東雲クリス! 2年3組!」
それだけ言って出てった。
彼女が通り過ぎた後に気付いた。目が覚めた時の入り混じっていた香りが彼女のものだったということに。しかし自分が感じているこの鼓動の高鳴りは寝不足と全く無関係であり、人生で初めて抱いた恋愛という感情だと気付くのには少し時間が必要だった。
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