9章 4話

「…なんで」

 視界がにじむ。

「なんだよそれ」

 困ったように笑うマサトから返らぬ答えこそが、何よりも真実を突きつける。

「お前は何も悪くない」

 けれど、それでも。

「だって俺、お前たちに…」

 顔に力を入れすぎて、さぞかし歪んで不細工になってるだろう俺に目を向け、マサトは気にすんな、と呟いた。

「自信持てよ。オレたちはお前と旅して救われたんだ」

「…初めはあんなに文句言ってたくせに」

「あれはまあ、少しの苛立ちと…やっかみかな」

 どこか懐かしげな表情で応える。

「…オレたちはそれぞれ、自分に足りないものを手に入れなければいけなかった」

「足りないもの?」

 鼻をすすりあげる俺に頷く。

「アイリには、愛」

 望まれて生まれながらも、愛を知らなかったアイリ。

 この旅で、ほんの少しでも得られたのだろうか。

「カエには、恵み」

 丈夫な体と、もう嘘をついて自分も相手も苦しめることのない強さを。

 彼女の救いにはなれなかったけれど。

「お前は?」

 ためらいに似た間を開け、マサトが笑う。

「正しさも、そうでないものも、等しく受け入れる寛容さ」

 いつだって俺にとって、マサトはその名の通りまっすぐで正しいものを持っているように見えていたけれど。

「手に、入れられた?」

「ああ」

 マサトの目が、俺に向いた。

「アイリとカエと…ヒロキのおかげだ」

 嬉しくて、痛くて、俺はもうぐちゃぐちゃだった。言いたいことはたくさんあるのに、喉につかえて何一つ出てこない。

「マサト?」

「…うん?」

「マサト」

「何だよ」

 なだめるような響きに思わず口走る。

「お前、俺の子どもに生まれてこい!!」

「…はあ?」

 目を見張ったマサトは俺の顔をまじまじと見つめ、声を上げて笑い出した。

「そもそもお前、彼女と別れたばっかりじゃなかったっけ?」

 こんな時までも冷静な突っ込みに、恥ずかしいやら悔しいやら。

 でも。

 俺は皆のことを知らないのに、そんな風に一言も口にしなかったことさえ、やっぱりお前たちは知っていたんだな。

「それは…けど、なんとか頑張るから」

 何を頑張るのかもわからないけど、とにかく俺は思いつくままの言葉を吐き出し続ける。

「ヒロキ、お前バカだろ」

「バカでいい」

「…はいはい」

 虚勢や、意味のない言葉でもすがっていなければ、顔すら上げていられなかった。

「ちなみにオレ、頭いいんだって何度も言ったよな?」

「なんとかする」

 相手が頭良ければいいんだろ。苦心の末絞り出した声に苦笑を浮かべ肩をすくめる仕草。

 それがあまりにもマサトらしくて。

 子どもらしくないなんてどうでもいい。

 そいつらしければ、どんなものも似合うんだって、今更ながら思った。

 そう考えた途端に滝のように頬にあふれだす雫を慌てて拭い、嗚咽おえつを飲み込んだ。

 建設的じゃないなあ。ささやきに含まれたいたわり。

 つい数日前に俺がマサトに対して言った言葉と重なり、優しい思い出に胸が痛んだ。

 楽しかった。

 楽しかった。

 皆に会って、長くて短い旅をして。

 本当に楽しかったんだ。

 歯を食いしばるほど、意思に反してぼろぼろと頬を熱が伝い落ちる。

 ガキじゃないんだからそんなに泣くことじゃないだろなんて、いつもと変わらない様子で言うもんだから、俺は慌てて顔をこする。

 いやだ、いやだ、いやだ!

 行かないでくれ。

 俺、リーダーなのに。

 リーダーだったのに。

 結局は誰も、何も救えないなんてあんまりじゃないか。

「なあ、ヒロキ」

 マサトが笑う。

「オレ、今度生まれる時は普通がいいな。外国語が好きな、フツーのガキ」

「…それ、全然普通じゃない」

 もう目をこらしても、マサトの表情さえ見えなかった。

「頼むよ」

 懇願する俺に、囁くような声が届く。

「旅の途中から、ずっと考えてたんだ。叶うかわかんないけど、これから先で会う王様に、ひとつだけわがままを言ってみようと思う」

 やめてくれ、そんなこと言わないでくれ。

 だってお前には…俺たちにはまだまだ、たくさんの世界がひらけているはずだろう?

 首を振る度に喉よりももっと奥の深いところかられそうになる声を必死に押さえ、目の奥の痛みをこらえるたびに鼻水が垂れそうになり、慌ててすすりあげる。

 …なあ。

 一生懸命生きてきただけなのに、それの一体何が罪になるんだよ?

 あの世って確か、殺生しちゃいけない、親より早く死んじゃいけない、欲を抱いちゃいけない、みたいな決まりがあるって聞いたことがあるけど、俺たちは肉も魚も食べるし、アイリみたいに本人が望んだわけでなくとも、失われてしまうことだってあるのに。

 自分に足りないものを欲しがったり、ちょっとそういうのいいなって誰かを羨んでみたり…泥棒とかそんな大それたことじゃなくても、一般的に悪いと言われることの何一つせずに、まっさらで生きられる奴なんているの?

 それとも、生まれ落ちた瞬間から誰もが、試練を越える旅を目指して時を生きるのか?

 なあ。一体、俺たちの何が違っていたんだ?

 どうして、お前たちだったんだ。

 どうして…俺だけが許されていたんだろう。

「ヒロキに教えといてやる。お前がじーさんって呼んでたあの人は十王の最後の一人、転輪てんりん王だ」

「十王?王様って十人もいるのか?てんりん王って何する人?」

 本当はそんなことどうでもいいし、聞きたかったわけじゃない。

「お前が教えてくんなきゃ、どんな字書くのかもわかんねぇよ」

 俺はマサトを少しでも引きとめたくて、ひたすら言葉を連ねた。

「あのじーさんはな」

 言いさした瞬間、マサトは光の粒に変わった。

「なんだよ…なんだよ、なんなんだよマサト!!」

 うっすらとその輪郭しか残さない顔の辺りから、微かな笑みを含んだ声とともに、またお前と旅したいな…と聞こえたような気がした。

「答えになってねえって」

 跳ねる狼。

 一つ、また一つと舞い散る光とともに上を目指していく。

 マサトが、行ってしまう。

「ダメだ、行くな!」

 肩が抜けそうなほど腕を伸ばした俺の指先は空を切り、辺りをただかき回すだけだった。

 コロコロと駆ける小さな狼を引き連れた光が、空の頂へとのぼって行くのを、しゃくりあげながら見上げる。

 俺にはもう、それくらいしかできなかったから。

 輝きの最後のひとつが消えるまで、滲み、揺らぐ視界の中で必死に目を見張り、俺はただ見つめ続けた。

「なんだよ…」

 後にはマサトが残した世界のビジョンと、静寂だけが残った。

 髪を揺らす風の音。

 草のにおい。

 空。

「なんなんだよ…」

 倒れ込んだ背中には、ごつごつした石の感触。

 確かにそこにあるものさえ、すべてが色褪せてしまったように、何も感じられなかった。

 だってここがどんなに綺麗な世界でも、彼らの時が俺と交わることはもう、決してない。

「どうしてだよ」

 どうしようもなく悔しくて、俺は声を上げた。

 アイリ。

 カエ。

 マサト。

 みんな一生懸命に生きていただけで、きっととがめられるほど悪いことなんてしていない。

 それとも昔からわれているみたいに、親よりも先に旅立つこと自体が罪だとかって、裁きの王様たちは言うのだろうか。

「なんで…」

 共に旅をした三人がここにいないことが、どうしようもなく痛かった。

誰もいない世界にひとり取り残された俺は、両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。

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