9章 3話

「…終わったな」

 マサトの吐いた、長い長い息。

 気がつけば『影』の姿はどこにもなかった。

「終わったのか」

 声に出してみたものの、喜びや感慨はなく、漠とした空虚感に包まれていた。安堵というよりも、放心と表現する方が近かったかもしれない。

 切先を地に向ければ、つかを握っていた指から解き放たれたように俺の短剣は石畳に落ち、えぐれもしない石に当たってガラァンと音を立てた。

 目の奥に残像を残す、小さな輝きが踊っている。

 …綺麗だな。

 本当に綺麗だ。

 昔、田舎のばあちゃんのところで見た、川面を飛び交う蛍みたいだ。

 俺はゆっくりと振り返る。

 足を投げ出すようにして座り込んだマサトは、慈愛のほほえみが見おろす石段に寄りかかった姿で笑った。

「悪いな。これでも結構粘ったんだ」

「…いいよ。わかってたから」

 ほんの少し暮れかけたアンコールの遺跡を満たす、マサトの輝き。

 …俺は笑えているだろうか。

「俺はリーダーだから。ずっと、リーダーとしてできることを考えてた」

 それは、皆に『時』が訪れるのを、最後まで見届けること。

 不安だし、一人取り残されるのは辛いけれど、きっとそう時間はかからない。

 誰にも見送ってもらえなくても、皆で旅した道を思いながら『時』を迎えるのも多分悪くない。

 悪いな。再びマサトが呟いた。

「…なあ、ヒロキ。一つだけ頼みがある」

「なんだ?」

 頼みがあると言ったものの、何かを迷うように言葉を探る。

「なんだよ、言えよ」

「オレ…あれ、あの絵をもう一度見たい」

「あれ?」

「日本狼の、あの絵」

 不安げに曇らせた目を向けるマサトなんて、初めて見た気がする。

 そんなに気に入ってくれたのか。

「やってみる」

 請け負ってはみたものの、己のものでありながらもままならない想像の創造は、存外難しかった。

「…これでいいか?」

 頷いて目の前に現れた絵をじっと見つめるマサトの傍らに、柔らかな毛並みがむくむくと輪郭を形取かたちどった。

「うん、うまくできた」

「え、イメージってそんな使い道もあるんだ!?」

 体を震わせて立ち上がった小さな狼が、きらきらした目を向けて俺の手の甲に一瞬擦り寄ると、短い毛の毛の感触を手に残し、マサトが伸ばした腕へと飛び込んでゆく。

 自分の描いた絵をベースにしているとはいえ、その姿はまるで本物のようだった。

「ヒロキ、こいつ連れてっていいかな」

「え、連れてくって?」

「寂しいのは嫌いだ」

「そりゃあ構わないけど。寂しいは大げさだろ」

 呆れる俺の言葉にも、マサトはただ笑っている。

 至って無邪気な子どもらしい笑顔。

 こんなチャンスはないと思うから、旅の始まりにそんなことを言って目を輝かせていた時のような、年相応の。

 その時、ふと感じた違和感。

 小さくかすかで、けれどとんでもなく大きなことを俺は見逃してきたんじゃないだろうか…。

「ちょっと待て…」

 マサトはそんな俺の様子を目にして首を傾げる。

「マサト、お前帰れるんだよな」

「ああ、帰るよ」

 迷いなど微塵みじんも感じさせぬ返答はいつもと変わらない。

 けれど俺は、口にせずにはいられなかった。

「どこに?」

 微笑むマサトから返る答えはない。

「…どこに?」

 答えは返らない。


 あるだけの罪を、清算してしか帰れないと告げられた俺。

 もういく、短く告げたアイリの言葉。

 ひとつひとつが自分を励まし、勇気づけるためのものだったと言ったカエの言葉。

 戦う際にはそれぞれ業を背負っているのだという、マサトの言葉。

 俺が来たのは間違いだと言っていた、じーさんの…。

 幾つもの、齟齬そご

 見習いの…意味。

「なあ、マサト?」

 嘘も偽りもない、まっすぐな瞳。

「なあ?」

 答えはない。

 ――ああ、だからこそわかってしまった。

 俺に『時』は来ない。

 少なくとも今だけは…絶対に。

「なんだよ、それ」

 俺は言葉を失った。

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