9章 2話

「オレは幸せだ。一度として義人に恨まれたり、嫉妬の目を向けられたりすることなくいられるんだから」

「でもそれはマサトが弟にとって、いい兄ちゃんだっていうことだろ?」

「さあ、どうだろう。今はそうでもいずれは…な」

 彫像を見上げるマサトの横顔に浮かぶのは、憧憬しょうけいと願い、ほんの少しの恐れ。

 視線の先には、悠久の挟間はざまを知る者たちが紡ぐ祈り。

 …ああ、なんだ。

 ごちゃごちゃぐちゃぐちゃと理屈をねていたところで、要するにマサトは、弟のことをアンコールに在る彼らのように、祈りたかったのだ。

 あるいは、感謝したいのかもしれない。

 天才も非凡も凡才も平民もどんな生き物にも、おそらくあれらの祈りに敵うことはないだろうけれど。

「うーん、日本人だし正式なやり方なんて知らないけど、方法が神社のやつでもご利益あるのかな」

 座ったままで二拝二拍手一拝してはみたものの、さすがに不謹慎に思えた。

「やっぱ邪道か」

 立ち上がり石畳に降りて再び挑めば、頭上から呆れ声が降ってくる。

石仏せきぶつのように見えるし一部はそうかもしれないけど、ここにあるものの大半は神としてまつられているものじゃないぞ」

「万物すべてに神様が宿るって言い伝えがある日本人なんだし、細かいことはいいじゃんか。第一、神様って呼ばれてるものにしか願っちゃいけないなんて理由もないだろ」

 いい加減な会話をしながらの礼が、どれほど効くのかもわからないけど。

 一拝、二拝。柏手二拍…。

 俺たちの旅が無事終わりますように。

 帰ってから皆が、良き道を歩めますように。

 それと…

「そもそも祈るだけ、願うだけで思いなんて叶わないし」

 痛いところを本当にサラッと突いてくるヤツだなあ。

 確かに、他力本願にすがるだけじゃ手に入るものなんてないかもしれないけどさ。

 でも、思うことすらしなかったら、心にかなうものも多分ないんじゃないかと思う。

「別に叶えてもらえなくても、自分に意味と意義を作れればいいんじゃないの?区切りだよ、区切り」

 答えながら願いを心で唱え、俺は礼をほどいてマサトを振り返る。

 なるほど、と感心したような声。

「ヒロキにしては上出来な言い分だな。なら、オレもやってみるか」

 素直に行動に移せばいいものの、緩慢な動きで石段を降りてくると俺の隣に立ち、像を見上げる。

 言葉とは裏腹に、驚くほど真剣な様子で腰を折り、そのまま長いことじっとしていた。

 マサトの弟くんは、本当に面倒くさい兄を持ったものだ。

「もうすぐだな」

 風の中に気配でも混じっていたのか、目を開けたマサトが短く告げる。

「オレ、旅の終わりはアンコールのこの地がいいってずっと思ってた」

 万物への願いと許しを浮かべる祈りの像に囲まれる中で響く、静かな声。

 旅の終わり。

 …そうだ。

 この昼を越えれば、俺たちの旅は終わるのだ。

「全然そんな気がしないなあ」

 口にして、不意に胸が詰まった。

 アイリやカエに感じたものとは違う痛みを感じた俺は、傍らのマサトを思わず見やる。

「なんだ?妙な顔して」

 俺の肩にも届かない背。二十以上もの年の差。こんな出会いさえなければ、たとえ街中ですれ違っていても話をすることすらなかっただろう。

 知らぬ間に俺はこの生意気な少年のことを、自分でも不思議なほど、誰よりも近しい存在と感じるようになっていた。

「変な奴」

 旅が終わるのは誰にとっても喜ばしいはずなのに、彫像たちに向けられたマサトの横顔が目の前の表情と重なり、奇妙な寂しさを感じる。

 ずっと話していたかった。

 何でもいいから話し続けていたかった。

 けれど思考も言葉も、遺跡を吹き抜ける風に含まれた熱に圧倒されたみたいに、何も浮かんでは来なかった。

 辺りの景色をまぶたに焼き付けるよう、ゆっくりとマサトは瞬きをした。

 風景の中に、不協和音を起こす闇色の点が広がっていく。

 こつんと石畳に突いた杖の音が合図だった。

「…行こう。最後の戦いだ」

 頷いてそっと手にした剣は短いくせに指先に食い込み、やけに重かった。


 そよぐ魔法の間合いに踏み込んでぎ払う。

 『時』が来た様子はないけれど、これがじーさんの言っていた、ここでの体ははるかに強靭でもろいということなんだろうか。

 疲れや痛みがないのを頼むにしても、俺の剣はいつの間にか、遠心力を利用するような力技でもないと到底扱えないほど、手に余る重量級のシロモノになっていた。

 剣の空を切るブウンという音と、マサトの作り出す風の音以外は聞こえない。

 互いに背を向けたまま、それでもどんな不安もなく、ひとつひとつの鎖を断ち切るように『影』を打つ、静かな、静かな戦いだった。

 『影』と対峙しながら、ずっと俺は考えていた。

 カエとアイリを送った時点で抱いた、密かな願いについて。

 戦いが始まる前にも、アンコール・スマイルの前で祈っていた。

 叶うだろうか。

 叶ってほしい。

 祈りながら、願うように、目の前をひらき続けた。

 やがて黒い『影』の残滓ざんしの内に、走る剣の軌跡の間に、微かな輝きが混じり出すのを俺はただ、黙って見ていた。

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