9章 色不異空 空不異色
9章 1話
旅の終わりの日の空も、相変わらず抜けるような青天だった。
カエもアイリもいなくても、世界は変わらない
あたたかな気候が育んだ根が複雑に絡み合い、もつれ合いながらその地が刻む歴史を物語る、静寂に包まれた神殿をマサトと二人で歩いていた。
「ここ、映画で有名になったところだよな」
「タ・プロム。十二世紀後半から十三世紀、ジャヤヴァルマン七世の時代に作られた寺院だ。今は雨期だし熱帯雨林の影響もあるんだろうけど、思っていたより浸食が進んでるな」
地面に架けられたスノコのような橋も、雨上がりなのかところどころ水に埋まっている。
「誰もが知ってるようなとこを選ぶのは正直意外だったな。マサトはもっとマニアックな遺跡が好きなんだと思ってたけど」
「カンボジアは、俺が遺跡好きになったきっかけの場所だ」
バイヨンに刻まれた壁の彫刻。象のテラスを両足を踏ん張るような姿勢で支えているガルーダのレリーフ。
アンコール・ワットにかかる橋から見下ろす、
時代や風景は変わっても、昔も今も人々を支えているものの根幹は同じなんだなと、時の流れに荒い落され、苔むした像や彫刻に触れては二人で溜息をついた。
何百、何千年後には俺たちの暮らす世界も、こんな風に風化した姿を未来の人々に見せているのだろうか。
そんなはるか先のことなんて想像もつかなかったけれど。ちょっとしたロマンなんじゃないかなって、そんな風に考えるようになったのは多分、マサトの影響だろうな。
…まあ、俺たちの場合は、遠く未来に思いを馳せるより、明日の身を案じる方が先なんだろうけれどさ。
アンコール・トムの塔の上、壁に彫られた顔と見つめ合った時、マサトが小さく呟いた。
「やっぱり…」
バンテアイ・スレイ、プレループ、トマノン、ウエスト・メボン…指折り数え挙げながら一人納得したように頷いている。
「何がやっぱりなんだ?」
階段に腰を下ろし、像を眺めるマサトの傍らに座る。
「あの顔にはな」
向ける指の先には、苔むし、黒ずんだ岩に刻まれた姿で思い思いに微笑む石像。
「アンコールの彫刻が浮かべるものは、生を超越した諦めっていう説がある」
この世あらざらぬ者のみが抱ける
「確かに、何もかもを知ってるような潔さで、今を映してはいないように見えるかも」
「でも…もしも彼らが見つめるものが、
「は?」
見下ろせば、遺跡を通してどこか遠くを見るようなマサトの顔。
とてもじゃないけど、意味がわからないなんて言える雰囲気ではなかった。
「彼らは、時を見ているのかもしれない」
「マサトの言うそれって、アイリやカエに来たようなやつのこと?」
「違う」
首を振りながら違うと言うその口調は、いつになく優しかった。
「物言わぬアンコールの彫像たちが見つめるのは、すべての生物が死に絶え、この星が消えたとしてもきっと変わらない何かなんだろう」
宇であり宙?
時を見る?
変わらない何か?
申し訳ないけど、全然わからない…。坊さんの説法よりも深遠なマサトの言葉に、三倍近くの歳月を生きてきているはずなのに自分の理解力のなさがつらい。
「…つまり?」
「オレたちの生きる時間に重なりながらも、あれはきっとまったく違う世界に在る、願いや祈りみたいなものなんじゃないか、ってさ」
なんだかそれは、悠久とか永遠とかの言葉に含まれているような、形のない概念にも似ている。
「流れ続ける時間に向き合う微笑かぁ。なんかお前が言うとなんでもロマンになるな」
苦笑するマサト。
「別にそんなつもりはない。オレはずっと自分が何の根拠もなく思っていたことを、確かめたかっただけだ」
「何か確信できた?」
問いかけには曖昧な頷きを返すだけで、答えてはもらえなかった。
「話は全然違うけどさ、オレ七歳離れた弟がいるんだ。名前は義の人って書いてヨシト」
兄弟二人合わせて正義なんて、格好いいんだか古臭いんだか。唐突にそう切り出してマサトは笑う。
「はあ、そりゃまたさぞかし生意気なガキなんだろうな」
思わず素直な感想を漏らしたまではよかったが、氷のような視線を向けられ慌てて首を竦める。
そんな俺の様子をじっと見ていたマサトは、言葉を選ぶよう迷いながらも続けた。
「いや…義人は愛嬌はあるけど本当に、普通の凡人だ」
普通じゃない凡人って一体どんなのだろうと思ったけれど、またくだらないことを言って睨まれるのは、さすがに本意じゃないので口にはしなかった。
「年が離れているからか、あいつは周りに期待されてるオレと比較されても、気にしなくてさ。まだ小さいのもあるかもしれないけど、いつだって遊んでくれと笑って言うんだ」
「…うん?」
その弟くんとアンコールの地に一体何の関係があるんだろうか。
さきほどまでの宇宙的説法なんかよりも、はるかに理解できる話ではあるが…マサトの語り出した意図が今一つ掴めずに俺は首を傾げる。
「前に話した保育園での保母とのやりとりで傷ついてた子どもっていうのは、弟の義人のことでさ。オレの前では散々泣いてたくせに、それでもあいつは、それを親には絶対に話そうとしなかった。多分、心配かけたくなかったんだろう」
長い時の中で降り注ぐ雨水に削られたのか、あるいは岩の間に入っていた空気が抜けた痕跡だろうか…遺跡のあらゆるものに刻まれている軽石のような穴に指を這わせ、本当にすごいのはあいつの方なんだ、とマサトは呟く。
「オレが頭がいいなんてのはたまたまそうだったっていうオプションでしかない。自分が本当にいいと思ったものを、信念を曲げずにまっすぐに認められる方が、よっぽどすごい奴だと思わないか?」
「…そうだな」
自分が褒められた時よりも、はるかに誇らしげな表情で俺の返答に笑うマサト。
なぜマサトがあれほどアイリに優しかったのかが、ようやくわかった。
学力じゃなく、知力でもない。人を尊敬し、認めるということを、弟を見てきたコイツはちゃんと知っていたんだな。
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