8章 2話

 展望台の床にその日最後の一体になった『影』をようやくのして、俺は息をついた。

 黒い残滓ざんしが完全に消えるのを見届けることなく、剣を鞘に戻すのすらもどかしげに、いそいそと窓に向かうカエの後ろ姿。

「高い建物も面白いけど、水があるところがやっぱり気持ちいいよねえ。マサト、あの橋なんて言ったっけ?」

勝鬨かちどき橋。説明しても覚えてないなら、今言っても同じだったじゃねぇか」

 ぼそりと呟いて、つまらなそうにきびすを返した。

「同じじゃないよー。だってもう一度、新鮮な気持ちでそれを知れるきっかけになるもん」

 別の窓に向かいかけていたマサトが足を止める。

 何かを迷うようにしばらくの間視線を床に彷徨わせていたが、小さく鼻を鳴らし再びカエの隣に立った。

 何だかんだ言って優しいよな、コイツ。

 俺も二人の傍らに向かう。

「橋が架かっているのは隅田川、手前に見えるのは浜離宮。橋のずっと左のあの辺りに新橋、銀座、有楽町が見える」

「お前、詳しいなあ」

「二年ほど前に家族で来たことがある。その時覚えた」

 懐かしげに細めた目が妙に嬉しそうで。いい思い出なのだろう。

 二年前に見た風景までもが、今の記憶に途切れず直結してるっていうのが俺には信じ難いが…。

 三人で肩を並べて街を見下ろしながら、様々な建物に指を向けた。

 段々とマサトの「多分」の回数が多くなり、しまいには「ガイドに載ってもいない場所のすべてがわかるか!」と音を上げるまで、そこかしこにあるビルや建物、公園を指してはあれこれと聞き続けた。

「もう勝手に見てろ」

「そんなこと言うなよ」

「…あれ?」

 熱心に東京湾の方を眺めていたカエがよろめく。

「おい、カエ!」

 窓を離れ、不貞腐ふてくされるマサトを宥めるために背を向けていた俺は気づくのが一歩遅れた。

「時間切れ、かな」

 そう呟くと、カエは近くの柱に背を預けるように寄りかかり、その場にゆっくりと沈み込んだ。

 支えようと伸ばした俺の手が空を切る。

 カエの周りだけが、ほのかに明るく彩られていた。

「もしかして『時』が…」

「そうみたい」

 こくりと頷き、すまなそうに俺たちを仰いだ。

「ごめんね、マサト、ヒロキくん」

「なんだよ急に」

 そんな風に謝られるようなことは何もしていない。

「あたしまた嘘つきになっちゃった。最後まで残るのはあたしだって、ゆうべ断言したのにね」

 後悔を含んだ小さな声。

 なんだよそれ…。そんなの、全然お前のせいじゃないじゃないだろう。

「罪を許されたんだから、もっと胸を張れよ」

「別に、嘘つきだなんて思ってない」

 口々に言う俺たちを見上げたカエは、淋しげな顔でゆっくりと瞬きする。

「やっぱりあたし、結局ここでも嘘つきになっちゃったかぁ」

 笑いながらも泣きべそをかくような、子どもみたいな顔。

 俺は首を振る。

「ねえ。嘘つきって、どんなところにいても最後の最後まで嘘をついちゃうものなのかな」

 問いかけの形を取った言葉は、何よりカエ自身に向けられていた。

「カエ、違うよ」

 だってそんな風に言いながらもお前、笑ってたじゃないか。

 それはカエが自分のついた嘘に傷つきながらも、本当はいつだって選んだその答えに後悔してはいなかったってことじゃないのか?

『本当の本音で嘘じゃなかったからこそ、あたしも、嘘をつかざるを得なかった人たちも、自分が嘘をついてるって傷つくこともある』

 カエが口にしていた思いが今ならわかる。

 そうやって相手を安心させるために嘘を言うことしかできない自分が、一番悔しかったんだな。

「…本当のことを言わなかったり、言えなかったりも…やっぱり等しく嘘になっちゃうもんなんだね」

 違うだろ。

 それは、嘘なんて単語で切り捨てていいものじゃない。

 身内の入院ですら縁遠い生活を送ってきた俺には、カエが毎日どんな思いで病院の天井を見ていたのかはわからない。

 正直、何が正しくて、何が間違っているかの答えだって持っていない。

 自分なりの正解だと思うことだってあるけれど、はっきりと言ってやれるような経験も、自信だってない。

 けれど、それでもきっと間違ってなんかないのに。

「違うって」

 どうしてマサトは、こんな肝心な時に黙っているんだろう。

 どうして俺は、心に届くような言葉を思いつけないんだろう。

 間違ってないと言うのは簡単だったけれど、嘘を繰り返す度に自分を責めてきたカエへの答えにはならないとわかっていた。

 それだけを言ってみたところで、きっとカエは気遣ってくれてありがとう、と笑うんだろう。

 何を言えば拭えるんだろう。

 何を話せば、カエは満たされるんだろう。

 だって、心の中にどれほど思いが溢れていたって、伝えられなければどうしようもないじゃないか。

「嘘じゃない」

 無理に口を開いてみたけれど、ぐちゃぐちゃな頭はまとまらなかった。

「嘘なんかじゃなくて…」

 俺にだってわかる。傷つけていると知っていても、本当は傷ついてほしくないという願いは独りよがりでも誤りでもないことぐらい。

「嘘なんかじゃ」

 けど…たったそれだけのことなのに、重みを知らない自分が言うには偽善にしか思えなくて、どうしても言葉にはならなかった。

「なあ、カエ。口にしたけれど叶えられなかったものも、必ず嘘になるのかな」

 代わりに出てきたのは、自問にも似た問いかけ。

「相手が辛いのは自分も辛いからって、そう思って選んだことでも、みんなカエにとっては悪に見える?」

 これはいいこれは悪いみたいに白と黒に分けるのは、一見難しそうでいても、常識でくくっちゃえば意外と簡単なことなんだけど。

 グローバル化とか騒がれるようになってから、欧米人だけでなく日本人の中にも曖昧はダメだと意識する人が増えてるって言われてるけど、俺は思う。

 はっきりと境界線を引かずに、灰色なのも時に悪くはないんじゃないかって。

「保身とかじゃなく相手を守りたくて出たことでも、全部自分が悪いのかな」

 アイリの時と同じように、カエの体は徐々に輝きに染まり、やわらかな光の粒に変わっていく。

「自分だけが悪いって責めるのは、受け止める側もなんかちょっと…辛いよな」

「どういう意味?」

 答える声には戸惑いが滲んでいた。

 けれどもう、カエがどんな表情をしているかは見えなかった。

「ヒロキが言いたいのはさ、要は何が正しいとか正しくないなんてのに当てはめる必要もなくて、カエも周りも、気持ちの上ではいつだってどんな嘘もついていなかったってこと。…そうだろ?」

 傍らで沈黙を守っていたマサトがぼそりと呟いた。

 かくかくと首を揺らした俺の頷きなんて、きっと見えてはいなかったと思うけれど。

「…うん」

 カエの頬のあった辺りから透明な雫があふれ出し、生まれた先から光に変じていく。

 ありがとう。

 聞こえない言葉を包み込み、淡雪のように舞い上がる光の群れ。

 散華さんげした輝きの行く先を、俺とマサトは最後のひとひらが消えるまで、ずっと見上げていた。

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