8章 其は三界の首枷に非ず

8章 1話

「ねえあたし、行きたいところがあるんだ。リクエストしていいかな?」

 四日目の朝、カエがそんなことを言い出した。

「別に構わないけど」

「んじゃ、マサト、あんたの方が絶対、記憶力はいいからお願いするね。よろしく!」

 にっこりと笑うカエから出た提案に、マサトは珍しく頭を抱えた。

「わあ、ホントに渋谷だあ!」

 満面の笑みを浮かべて駆け出したカエが、道路の真ん中で目を輝かせる。

「誰もいないスクランブル交差点ってすごい!ね、もちろん建物の中も入れるよね?」

 ニュースで必ずといっていいほど映される、女子向けのファッションビルを指さしたカエは弾んだ声を上げる。

「この世界の自動ドアって反応するのか?第一、女もののテナントに何が入っているかなんて、男が詳しいわけないだろ」

「ええ、使えないなあ。チャラ男だって来てるんだぞ」

「オレがそんな奴に見えるか!?」

「この遺跡バカ」

「興味の対象が違うだけだ、人聞き悪いこと言うな!」

 デザインの資料を探しに時折本屋などに足を運んでいたし、俺にとってはそう珍しくもない風景にも大はしゃぎだ。

「それにしても、なんで渋谷?」

「だって、女の子が友達と買い物に行く、憧れの場所でしょ?」

 あんたたちが女友達じゃないのは残念だけどね。さらっと告げた言葉に、苦々しかったマサトの表情がほんの少し和んだ。

 年の離れた姉に付き合う弟って感じで、結構悪くないんじゃないかと俺はひっそり笑う。

 いつでも人の波が途切れることのない、国内外でも有名な繁華街――それも無人の場所を歩く経験など、誰もしたことがないだろう。普段なら人混みや物音であふれ返っているはずのところに、今は車も人もない。それは実際よりもはるかに広く感じられた。

 通りにある様々なウィンドウを覗きながら、ダラダラと宮益坂を上り表参道に抜け、原宿、代々木公園を経て再び道玄坂を見上げる。

 気の向くままのカエの散歩に付き合うことに、マサトが異議を唱えることはなかった。

「それにしても外側だけだって簡単に言うけど、個人的には結構これ、すごいと思うぞ」

 大型ビジョンの映像さえ沈黙していたものの、辺りを見回しながら改めて俺はマサトの想像力に舌を巻いていた。

 フルーツ屋のテナントやJRの高架下、ビル壁に下がった広告幕。思い出す限りブレることなく再現されていて、まったく違和感はない。

「よくお前、あんな細かいとこまで覚えてるなあ」

 うなぎ屋、コーヒー屋の看板、銀行、道玄坂上に向かう道にかかる信号、家電量販店の狭い間口など、本当に芸が細かい。

「まさか。俺にとっても渋谷なんてそうそう来るような場所じゃない。せいぜい模試の時に通るくらいだな」

 記憶の理由は全く可愛くないけど。

 視線を宙に向け、考える仕草のマサトは、これは仮説だけどと前置きする。

「ここではその場をイメージすれば、現実の景色だけ持ってこられるような仕組みになってるんじゃないかと思うんだ。今までのことを思い返してみたって、行ったこともないところの何もかもが鮮やかすぎるだろう?」

「なるほど。そうかもな」

 確かに、いくら想像力が豊かな奴でも、知らない場所を細部まで自在に思い浮かべるには限界がある。

 牛丼屋の店先にある、オレンジ色のタペストリーを珍しそうに眺めていたカエが、ゆっくりとした足取りで俺たちの方に戻ってきた。

「そろそろか?」

「そうだね」

「えっ、どこ?」

「まだもう少し先かな」

 多分俺は、勘がものすごく悪いんだろう。

 カエやマサトみたいに『影』の気配を察知する感覚は本当に鈍くて、来たかどうかなんていうのは、目視できない限り全然気づかない。

 どんぐらいいるんだ?

 尋ねようとして、ここにいないはずの小さな姿を目で追いかけた俺は、慌ててビル群を仰いだ。

 別にいつだって、これから現れる者の数を知りたかったわけではなかったけれど。かず、じゅうがじゅう…あの声が聞こえないのはやっぱり寂しかった。

 今日はどこにするかと思案を始めるマサトに、にっこりと笑いかけるカエ。

「じゃあ、ついでにもう一つリクエストしちゃおう。舞台は東京タワーがいいな。一番高い展望台」

「なんで東京タワー?」

 血塗られた歴史はないぞと告げるマサトの声は無視して、いたずらを思いついた子どものような表情を浮かべた。

「せっかくだし、遠くを見渡してみるのって良くない?それに昔、でっかいゴリラがあの上で戦ったとか言う映画の話を聞いたことあったから、そういう場にするのも悪くないでしょ」

 ようやく俺にも見えるようになった、少し先のアスファルトに小さく滲み出る黒い点にも慌てる様子なく、のんびりとした口調で提案する。

「でっかいゴリラって…それ、キングコングのこと?」

「そう、それそれ」

 呆れ混じりに問う俺に、明るい表情を向けて首肯した。

「そんなのカエが生まれる前の話だぞ!」

 いやマサト、お前も俺もまだ生まれていなかったのは同じだろう。

「うん。だから別にゴリラはいらないから、東京を高いとこから見てみたいんだよ」

「あれは、いらないじゃなく普通はいないんだ」

 わざわざ訂正しながらも異存はないようで、マサトは素直に従った。


 視界は開けたパノラマを呈していても、さほど広くはない空間に黒い『影』たちが林立する姿は不気味であり、圧巻だった。

 この展望台って、一度に何人まで入れるんだろう。

 頼むから入場制限適用外の日、なんてことにはなりませんように…と、俺は密かに祈る。

 六万四千はごめんだ。

「ねえ、あれは?」

『影』たちを切り払いながら、カエは窓の向こうに広がる景色をマサトに尋ねる。

「六本木ヒルズ辺り」

「あそこの橋みたいなの」

勝鬨かちどき橋」

「あの白いのって国会議事堂?」

「見りゃわかるだろ」

「なあ、海にせり出してるのは何だ?」

「羽田空港。…ああもう、カエだけじゃなくヒロキまで何なんだよ!」

マサトは手にした杖を振り下した。足元を鋭い風が駆け抜ける。

「危ねっ」

「悪いな、わざとだ」

 これだけ俺が剣を派手に振りまわしていても、今まで誰にも当たったことはないから、多分攻撃は『影』にしか有効じゃないし、本気ではないとわかってはいるけど…。

 悪びれないどころか、思いっきりふてぶてしい顔でそんなこと言うな。

「後でゆっくり見るにしても、こうやって通り過ぎてる時に聞いたっていいじゃない」

「知ってるか?力任せで切り抜けられるお前たちと違って、オレのは集中力が要るんだよ!負荷が、かかってるの!!」

「そうなんだあ」

 負荷を強調するマサトに、カエはさも残念そうに呟いた。

「そっか。マサトが余裕ないってことなら、さっさと片付けないとね」

 な、なんてこと言うんだ。

 俺は二人の背後に付く振りで、来たる災いに備える。

 案の定、周囲にひしめいていた『影』たちが、ごうっとものすごい音を立てて捲き上がる風に足払いをかけられ、次々と傾いた。

 危ない危ない。

「おい。誰が、なんだって!?」

 あーあ、見事に乗せられちゃって。

 新宿御苑、サンシャイン60、あっちはレインボーブリッジとお台場、あそこは…と、やけくそのようにマサトは目に入るものを片端から挙げ出し、四度目の戦いは拙速せっそくかつ混迷のままに進んで行った。

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