7章 3話

「次こそは平和なとこにしてほしいんだけど。大体、物騒な場所ってすごく動きづらいよ」

「それなりの場所を選んで、モチベーションを上げるのの何が悪い」

 マサトが三度目の戦いの舞台に選んだローマの建築物コロッセオが、かつて奴隷を戦わせた場所だったと聞き及んだカエが、既に恒例となった姉弟喧嘩を始めた時だった。

 不意に、先を歩いていたアイリが足をもつれさせるようにしてふわりと崩れ落ちた。

「え?」

 慌てて駆け寄れば、膝をつき肩で息をしている。

「どうした、アイリ!」

「ヒロキくん、楯」

 呼びかける声に頷き、慌てて傍らに放り出されていたアイリの楯を拾い、小さな手に押しつけた。

「ちが…」

 カエが何かを言いかけて目を逸らす。

 掴んだアイリの楯が、ざらりと嫌な感触を指先に残して崩れていく。

「なんだよこれ…」

 手にしていたそれは原型を留めずボロボロで朽ち果てる寸前だった。

 見つめるうちにもその形はどんどん失われ、とうとうすべてがなくなる。

「なんだよこれ!!マサト、カエ!!」

 まるで何かの覚悟を決めた風に、静かに息を吸い込んだカエは絞り出すように言った。

「慌てないで。大丈夫だから。…アイリには『とき』が来たんだと思う」

「時?」

 屈みこみ、アイリの額にかかった髪をそっと撫でつける。

「『時』が来たって…どういう意味だよ。俺、そんなの全然聞いてないぞ!!」

「あたしもよくわからないけど、旅を続けてるうちにね、罪が許されて呼ばれる時が来るんだって、おじいちゃん言ってた」

「こんなに調子悪そうなのに、変じゃないか」

 思わず声を荒げた俺に、嫌なことを思い出させてしまったのだろうか、びくりと肩を振るわせたアイリが呟いた。

「ヒオキ、こわい」

「あ…ごめん」

「心配するな、ヒロキ。悪いようにはならないから」

「本当か?」

「後で話してやる」

 頷いて、進み出たマサトが静かに尋ねた。

「アイリ、どこに行きたい?」

 問いかけに少し考えてアイリは答えた。

「やさしいおうち」

「…わかった」

 マサトが頷くと、一瞬にして風景はその様子を塗り替えた。

 黄色味を帯びたブラウンを基調とした、木の表情をメインとする開放的な空間。

 壁にはめ込まれたタイルが彩りと落ち着きを添える暖炉には、炎がオレンジ色の輝きをひらめかせ、そこここにあるものを明るく照らしている。

 敷物や、置かれたベンチは素材を活かす色に統一されていた。

 マサトに促され、アイリの体を暖炉の前に置かれた柔らかなクッションにそっと下ろす。

「きもちいい」

 手触りを確かめるように顔を埋める姿に、俺は少しほっとする。

 さきほどより、いくらか顔色も良くなったように思えた。

「ここは?」

 物珍しげにカエが辺りを見回す。

「建築家のフランク・ロイド・ライトが設計したメイ・ハウス」

「フランク・ロイド・ライト?有名な人なの?」

「えっ?」

 建築は門外漢の俺だって、さすがにその名前は知っている。

「何?」

「…いや、ごめん。なんでもない」

 振り返ったカエに慌てて首を振った。

 かつて帝国ホテルの設計もしたことあるような有名人だぞ、と口にしかけて、カエはほとんど病院から出たことがないのだったと気付いた。なんでも自分や一般的な基準ばかりを、常識と考えるのは間違いなんだ。

 目を向ければ、アイリがにっこりと笑う。

「だいじょうぶだよ、ヒオキ」

「そうか。『時』が来たってのはよくわからないけど、色々なところを歩いたし疲れたよな。少し休もう」

 消えてしまったアイリの楯は気になっていたが、どうにかなるだろうと思い直す。小さく頷く様子に安堵して頭を撫でた。

 アイリのいる暖炉の周りを取り囲むように置かれた椅子は、マサトの想像なのかまではわからなかったが、四人分あった。

 何とはなしにその場を離れる気になれず、各々腰を下ろして辺りを眺める。

「ライトは、オレにとってのあたたかさの象徴なんだ」

 気持ちは、ものすごくわかる。

 ぬくもりは万国共通なのかもしれない。

 どう贔屓目ひいきめに見ても、海外でしか実現できるわけのない規模の建築だとわかっているのに、この家にはアジアにも共通するような、幾何学的な文様と空間の調和がある。

 やわらかな空気と質感に思わずため息が出た。

 外からの採光と、照明の生み出す明かりを絶妙なバランスで採り入れた室内。

 据え付けの棚の上には、シンプルなのにどこか優美さを持つ線を組み合わせた透かしが入り、壁や柱にもデザインの妨げにならないような意匠が施されている。

 重厚を感じても重圧感はなく、取り澄ました感じもない。人がそこで生活する姿がすんなりとイメージできた。

「どうした」

 呼ぶ声が聞こえて視線を向ければ、横たわるアイリの全身が輝く砂のようなものに包まれているのが目に入った。

「アイリ?」

 駆け寄った俺は光を払いのけるよう手を振る。

「なんだ…これ」

 光に包まれているのではなく、アイリ自身が輝く砂粒のようなものに変わっていることに気づいて愕然とした。砂はさらさらと宙に舞い散り、輪郭をぼかしてゆく。

「ちょっと待てよ。なんだ、これ…」

 必死にそれを集めようとするが、光る砂の粒は指先すらかすめもせずに世界から失われ続ける。

「無理だよ、ヒロキくん」

 カエは俯いた。

「どうしてだよ!なんなんだよこれ、本当に大丈夫なのか!?後で話すなんて誤魔化すなよ。ちゃんと今、俺にわかるよう説明しろよ!!」

「『時』が来た時に旅は終わる」

 ぽつりと落ちるマサトの呟きは、すべての感情を殺したかのように平坦な響きだった。

「アイリは罪を許された」

「それって、先に帰れるってことか?」

 脱力する俺に、カエとマサトは揃って頷いた。

「でも…」

 俺たちは皆、こんな風に一人一人が違うタイミングで許されていくのか。

 だとしたらそれは最後に、この世界に取り残される誰かがいるということではないか。

 けれど、アイリの前で言うのはあまりに残酷な気がして口を閉ざした。

 罪を、許される?

 てっきり俺は、皆で旅立ったのだから皆で許されるのだと思っていた。

 なのに今さらバラバラに旅を終えるかもしれない、なんて言われても…。

「…とりあえずこれは、いいことなんだよな」

 確認に頷きは返ったけれど。

 そうなのだとしたら、アイリにとって何より幸せなことのはずなのに…。

 俺はどうしようもなく寂しかった。

 とりあえず、おめでとうとか言えばいいんだろうか。

 それとも、元気でなとか、良く頑張ったとか、いってらっしゃいとか?

 けれど、どの言葉にも意味がないような気がして、何も言えなかった。

 椅子から立ち上がったマサトが片膝を立てた姿勢でかがみ込み、静かにアイリを見ている。

「…痛いか?」

 問いかけにアイリは首を振った。

「ヒオキ」

 呼ぶ声に目を向ければ、今やアイリはかろうじて表情が読めるくらいの輝きに変わっていた。

「アイリ」

「もう、いく」

「うん…。またな」

 じーさんから、こんな風に離れることがあるなんて聞かされていなかった俺は、できることなら今すぐに逃げ出したかった。

 握手を求めるよう掲げたアイリの手のひららしき場所に、差し伸べた指先は空を切る。

 小さな光の粒が辺りに拡がった。

 言葉を失う俺に、実体のない手を伸ばして笑いかけるアイリ。

「だいじょうぶ」

 その指先が頬に触れたように感じた瞬間、まばゆい軌跡を目の端に残して砕けた。

 俺はまぶたの裏に宿った光が消えるまで、強く目を閉じていた。

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