7章 水のごとく信ずるもの
7章 1話
旅も三日目ともなると、少しは気持ちに余裕が出てくるものだろうか。
俺は胸を反らせ、深く息を吸い込んだ。
この世界の空は、今日も青い。
「ねえ…」
カエがうんざりした声を投げかける。
その響きがあまりにも冷え冷えとしていたので、俺は先を行っていたアイリに追いかける素振りで石段を駆けあがり、聞こえなかったフリをした。
「なんだ?」
しれっとした様子でマサトが振り返り、数歩戻る。
「あたしさあ、こういう風に皆で旅したり動けるのって嬉しいよねって初めの頃に言ったけどね」
別に高所恐怖症でもないし、高いところも構わないけど。カエは続ける。
「すごく綺麗な風景だと思うし、珍しいものを見せてもらってると思うよ。走ったり歩いたところで、疲れないのもわかってるけどさ」
「珍しいなんてもんじゃない。そもそも船でしか上陸できないところで、普通なら来られる人数に制限がある場所だ。そんなところをこうやって一歩一歩踏みしめながら訪れ、
当然のことだと言わんばかりのマサトに、カエは乾いた笑いを上げる。
「あんたねぇ…」
二人がどんな様子でやり取りをしているかなんて、振り向かなくてもわかる。
「お先にっ」
俺は先陣を切ってその場を逃げ出した。
「ヒロキ、ずるいぞ!」
「ちょっとマサト、本当にこれ、最初から歩いて上がる必要あるの!?」
アイルランドの都市、ケリーより少し沖合にある小島、グレート・スケリッグ。
果てなく拡がる海原を見下ろしながら、断崖に沿ってひたすら続く石段を見上げて叫んだカエの気持ちは、疲れを知らない身とはいえ理解できた。
「たかいね、たのしいね!」
俺と共に走りながらぴょんぴょんと跳ねてはしゃいでいるアイリは、険悪なムードにも動じる様子はない。我が意を得たりとマサトは満面に笑みを浮かべた。
「まあ、アイリもああ言ってるし、あと少しなんだから辛抱しろよ。それとも、寄る年波にはさすがに勝てないのかな~?」
「…言わせておけば。許せん!」
言い捨てるとともに、怒りの形相でカエは猛然と追いかけて来た。
「うわ、逃げろ!」
「にげろー」
歓声を上げるアイリを小脇に抱え、海に浮かぶ小島の
やがて少し開けた場所に、地に刺さった板で四角く囲まれた空間が見えた。
その先には、伏せたお椀に似た丸い形の石造りの建物がいくつか寄り添うようにして集まっている。
「窓のあるものが礼拝堂で、それ以外は居住の場だったらしい」
手招きに促され、俺は近くの穴のように開いた口をくぐる。
「なあマサト。本当にこんなところに人が住んでたのか?」
「当時、この島で三十人くらいは生活してたっていう話だけど」
「うへえ。忍耐強いな」
海から吹きあげる潮の香りが混じる風に、俺は往時の人々に対して尊敬の念を抱いた。
「ねえ、キリスト教の建築って、こんなかまくらみたいなもんだったの?」
「ここはまた特殊だ。けど西暦五百八十八年ごろ、日本では曽我馬子やら
言外にロマンを解さない奴と言わんばかりのマサトの声に、首を傾げていたカエは忌々しげな表情で睨みつける。
「俺、馬子は習ったけど、すしゅん天皇っていつだかもわかんないや」
「大和時代。推古天皇の前の天皇。知ってるか、カエ」
「歴史が得意じゃなくてすみませんねぇ」
「そういうことをわかってるだけ、馬鹿じゃないってのは認めてやるよ」
ちょっと表現は違うかもしれないけれど、兄弟喧嘩のようなものなのかもしれないと、マサトとカエのやりとりを聞いていて思う。
毒づきながらも、互いに吹っかけ合うプロセスを楽しんでいるのだと気づいてからは、俺は二人の会話に首を突っ込まなくなった。
どうせどうにも収集がつかなくなった時には引き合いに出されるのだから、それまでは勝手にさせておいた方が、無駄に神経は擦り減らない。
それよりも、しばらく前からアイリの姿が見えないのが気になった。
俺は口論を楽しむ二人から離れて探しに出る。
「こんなところにいたのか」
ようやく見つけたアイリは点在するドーム状の家に潜り込み、ぼんやりとした表情で地面に座り、眠たげに目を擦っていた。
「眠いのか?」
尋ねればこっくりと頷くので、背中を差し出した。
おぶさった途端、まだ昼だというのにあっという間に寝入ってしまう。
「夜あれだけ寝てるのにな」
「体も小さいんだし、疲れが溜まっているのかもしれないね」
カエが笑う。
「疲れって溜まるのか?俺、なんともないけど」
「旅に出る前におじいちゃんが、肉体の疲れはないけど何かもっと深いものがあるみたいに言ってなかったっけ。ねえ?」
「オレだって、この世界の詳細まではわかんねえよ」
マサトを振り返れば、なぜか不機嫌そうなしかめっ面でぼそりと答えが返る。
「なんだ、お前も寝不足か?アイリをカエに任せれば、抱っこは無理でも背中くらいは貸せるぞ」
困ったような、何とも言えない顔で俺を見るもんだから、思わず口にすれば明らかに不機嫌になる。
「大きなお世話だ」
不貞腐れたように景色に目を移した。
「遠慮するなよ」
「…オレはそんなに子どもじゃない」
呟くと、マサトは俺に背を向けた。
冴えない顔をしてるくせに、心配なんてされたくないって?
まったく底なしのプライドだと、俺は苦笑した。
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