6章 4話
「それに本当に頭のいい奴ってのはそのものごとが何であるかを、誰かの言う正しさや常識で本質を失ったりしない、きちんと自分の考えを持ってる奴だとオレは思う」
「そんな大げさな言い方しなくてもさ…」
理解できずに首を傾げている俺の前でマサトは肩を竦めると、唐突に言葉を振った。
「なあアイリ、大きくなったら何になりたい?」
アイリは特に悩む様子もなく叫んだ。
「ぱんだ!!」
「アイリ、人間はパンダにはなれないと思うぞ」
思わず突っ込みを入れる俺に対し、アイリは不思議そうな表情を浮かべた。
「どうして?」
「どうしてって…」
マサトまでも畳み掛けるように問いかけてくる。
「なぜそう思うんだ?」
「だって、人間は動物にはなれないだろ?」
あまりにも当然なことを改めて問われ、言葉に詰まる。
考え込んでいたカエがなるほど、と呟いた。
「普通はそういう風に捉えるもんなんだね。それなら、ヒロキくんの言う別のものにはなれないっていうのは多分、半分当たりで半分ハズレだ」
「半分ってなんだよ」
意味がわからずにカエとマサトを交互に眺める。
「オレはアイリに『大きくなったら何になりたい』かと訊いたんだよ」
「だって、今時の子は違うかもしれないけど、男子なら警察官とか女の子ならパン屋さんとかの職業のことだろ?」
「だから、どうしてそう思うんだ?」
「おおきくなったらアイリ、ぱんだなりたいー」
繰り返された言葉の意味することに思い当たり、俺は虚を突かれる。
「ま、そういうこと」
マサトは頷く。
「アイリは自分がなりたいと思ったものを、素直に口にしただけだ。大きくなる、つまり成長で質量が増えたところで、結局は他のものにはなれないけど、だからと言ってアイリが何も考えていないわけでも、相手を小馬鹿にしているわけでもないよな」
「うさぎ、わんわん、にゃんこ!」
「それ、少なくとも今のアイリより小さいものばかりだけど」
カエは苦笑しながらアイリの頭を撫でた。
「勿論、ヒロキの言うことも間違いじゃない。でも、大きくなったところで人は別のものになれないなんて常識は、この際無関係だ。そもそもアイリの中で尋ねられた意味は『何になる』ということがメインであって、成長した人間なんて見解はないんだからな。そういう答えを望むなら、大人になったらどんなお仕事したい?と、具体的に聞くべきだ」
「マサトの質問は人間以外のものはダメ、とか大人になったらなんて言ってないもんね」
「かば、たぬき、ぞう」
カエの傍らで、楽しげに動物の名を並べ立てながら笑うアイリ。
「なんだか上げ足取りみたいだなあ」
「普通の感覚なら当然そう思うだろうな。一方向の視点から見ればヒロキの言う通り、相手の言うことは全く理解できない外国語みたいなもんだ。でも、その答えは一見愚かにしか思えなくても、問われた本人にとっては質問に対する至極普通の回答なんだよ」
断言されるとそういう思考もありなんだって、納得させられてしまうから不思議だ。
確かに『大きくなったら何になりたい』の言葉に、人としてとか職業をさし示しているという表現はなく、個人的な常識や思いこみもあるのかもしれない。
けれどそんな単純なやり取りすら、マサトの頭の中では真理を含む問答のように処理されているのかと複雑な気分だった。それとも、単に俺が考えなしなだけなのだろうか。
「というかさ…」
「なんだ?」
お前、本当に十二歳?
言いかけて、絶対に馬鹿にされるだろうと思い直し、慌てて口を噤んだ。
大人であってもこんな風に
俺の内心の思いなど気にする様子もなく、マサトは退屈げに続ける。
「例えば、そんな風にまっすぐなことを理解できない大人は多いんだよ。頭がいいなんてことより自由な発想って多分もっとずっと大事なのにさ。オレはアイリみたいに答えた子どもが、保育士からなんてバカで頑固なガキだと呆れられて、傷ついていたのを知ってる。その保育士の方が、よっぽど頭が固くて頑ななのにな」
相当に容赦ない言葉。
「もしかしてそれ、お前のこと?」
「そう思うか?」
冷めた目を向けられ、俺は正直に首を振った。
「当然。そんな質問くらい、オレなら要領よく切り抜けるさ。でも、そういう子供がいたことは事実だ。本気で答えてる奴の気持ちも汲めない保育士の懐の狭さに、自分もガキだけど正直がっかりさせられたな」
がっかりしたと言いながらも、ほんの少しその中には憤りの色も混ざっていた。
大人と子どもの
そして、自分の直接的な経験ではないとはいえ、そうやって解釈ひとつで人を傷つけることを耳にしたなら、賢いマサトには腹立たしく感じるのかもしれない。
「でもさ、ヒロキもカエも一応大人なのに、子どもっぽいとこあるよな。オレが頭いいと言っても全然特別扱いしないし。オレの回りにも、もう少しそういう大人たちがいたら良かったのに」
「一応は余計だろ」
「アイリもおおきくなった!」
「あー、そうだな」
笑ってアイリの頭をぽんぽんと撫でる姿に、そういえばマサトは決してアイリの言葉を蔑ろにはしないことに気づいた。
俺やカエには食ってかかるくせに、アイリには優しい。むしろきちんと真面目に、ひとつひとつの問いに答えてやっている。
小さいからという理由で甘やかしているようにも見えないし、存外面倒見のいい、子ども好きな奴なんだろうか。
「ばーか。あたしが素でいるのはここだからだよ。人とわかり合うってそんなに簡単なもんじゃないって、頭のいいあんたが一番わかってるでしょ」
「は?…ええ!?」
てっきり優しい言葉でもかけるのかと思っていたら…突き放すようなカエの言葉に俺は目を剝く。
「いくらなんでも、その言い方はないんじゃないか?」
「こういう時だからこそあたし、嘘はつきたくないんだよ。意味、わかるよね?」
マサトとアイリは揃って頷いた。
「うそはだめ」
「そうだな」
「な、なんだよ皆して」
一人だけ後から合流したせいなのだろうか…時々三人が互いを理解する深さには、置いて行かれるような気分になることがある。
カエは楽しげな声で続けた。
「…あのね、ヒロキくん。別にそれがいいとか悪いとか言うつもりはないんだけど、あたしはずっと、病院にいる時にたくさんの嘘をついてきたし、周りにもつかせてきたんだ」
笑ってはいてもカエの目は真剣で、俺が口を挟む余地はなかった。
「とは言っても恨んでるとか腹を立ててるっていうのとは違うけどね。あたしを小さい頃から知ってる先生たちは大好きだったし、看護師さんたちも優しくて、長い入院生活で院内にはたくさん友達もいたから、そう悪いこともなかったよ」
マサトの灯したあたたかく柔らかい青い光が、燃えさしの焚き火のように視界の端でぱちりとはぜる。
「カエ、いたい?」
「ううん。痛くないよ、ありがとね」
カエは笑いながらアイリの肩を抱き寄せる。
顔も雰囲気も全然似ていないのに、そうしていると本当の姉妹みたいだった。
「あたしはねえ…『元気になるからね』『この薬は効くよ』そういうみんなの言葉のひとつひとつがあたしを励まして勇気づけるためのものだったの、知ってるよ。だからね、それに対して『ありがとう』って、心から笑って言えるんだ。どんな薬でも劇的に回復するなんてまずないし、そういうやり取りは時に嘘を含んでいることを知っていたけれど、それでも一度も疑ったことはなかった。どうしてだと思う?」
俺は何も言えず、カエの目を見ていた。
青い輝きを映しては揺れる色をただ、見ていた。
「だって、どんなに体調が悪くても普通の時でも、皆の気持ちは本当だったから」
そう言ったカエの表情はとても優しかった。
見上げるアイリに目を細めて笑いかけ、髪を撫でる。
「でも、本当だからこそ辛いこともあるんだよね。本当の本音で嘘じゃなかったからこそ、あたしも、嘘をつかざるを得なかった人たちも、自分が嘘をついてるって傷つくこともある。だからあたし、せめてここでは嘘をつかないって決めてるんだ」
それはきっと、いつだって人を思いやることを忘れなかった強さと、そんなカエだから持ち得た思いなんだろう。
向けられたもの、受けとめる気持ちも全部守りたいからこそ、歯を食いしばりいつでも強くありたいと願ってきたんだと思う。
「だからねマサト、あたしはあんたのやりたいことを許すけど、その代わりいいことばかり言うつもりもないので、あしからず」
水を向けられたマサトは一瞬言葉に詰まり、ずるいなと口を尖らせた。
「ほんとカエって優しくねえなあ」
「当ったり前!世の中そんなに甘くないの。確かにあんたはその頭でたくさんの大人を感心させてきたかもしれないけど、ここでは自分らしさを求めたって誰もあんたを責めたり、特別扱いもしないんだからね」
「マサト。カエはすっごくやさしいよ」
カエとアイリは顔を見合わせてにっこりと笑い合っている。
「オレたちには優しくねぇよな、ヒロキ」
分が悪いと思ったか、引き合いに出され俺は小さくなる。
「いや、同意を求められても…」
「基本的に女は女の味方なんだよ。ねー」
「ねー」
寄る辺ないマサトと俺はこれ以上事態が悪くならないよう、早々に会話を切り上げた。
その夜の女子二人の楽しげな声は眠りに落ちるまで続いていた。
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