5章 2話

 生まれてからたった数年しか生きていない子どもが、泣きながら笑うのではなく笑いながら声も上げずに涙をこぼす姿を、俺は初めて目にした。

 何を思って泣くのか、聞くことはできなかった。

 少し離れたところを歩いていたカエは微かに眉根を寄せて視線を落とし、マサトは口を強く引き結んで地平の彼方をにらみ据えている。

 アイリは目を瞬かせ、涙に気づいたのか慌てて手の甲で目元を拭い、恥ずかしげに詫びた。

「ごめんね」

 大きく首を振る俺に届いた呟き。

「たのしいはかなしいね」

「え…?」

 馬鹿みたいに聞き返すことしかできなかった。

 そんな使い方をするものじゃないと知っているはずなのに、それを否定できる材料はアイリよりはるかに長く生きている俺にも、見つけることができなかった。

 かなしい。

 幼い子どもが使うにはあまりに似合わない表現だ。

 彼女は、喜びを感じても人が涙を流すこともあるのだと、知らないのだろうか。

 そういう涙は幸せなのだと、教えられることはなかったのだろうか。

「それはさ、嬉しいって言うんだ。涙が出るからって必ず悲しいわけじゃないぞ」

 喉に何かが詰まってしまったようにひりついて、思うように声は出なかった。けれど、俺はアイリを安心させられるように笑みを作る。

「なみだはかなしくない?」

 そう言って俺の顔をじっと見上げる。

「ええと…」

「そうだよ」

 言葉を途切らせた俺を救うようにマサトが答えた。

 アイリは視線を振り向ける。

「楽しいときやすごいものを見たときに泣きたくなるのは、アイリがそれを本当にいいものだと感じるからだ。悲しいとは違う」

「たのしいはかなしくない?」

「そういう時は、嬉しいって言うな。それか、幸せ」

「うれしい?」

 頷く俺たちを交互に見つめ、アイリは目を輝かせた。

 再び呟く。

「うれしい」

 その表情が、見たこともないほど晴れやかな色に変わった。

 言葉とは単に誰かに思いを伝えるための道具ではなく、自分の心を表すためにもあるのだと、忘れかけていた当たり前のことに気付かされる。

「たのしい、うれしい、しあわせ」

 呪文のように唱えながら、まるで宝物でも見つけたかのように俺たちの周りをぐるぐると回るアイリ。

 少し教えるだけでこんなにも豊かな感情を持つ子どもが、自由な感性すら伸ばしてもらえていなかったことに胸が痛んだ。

 キラキラとした目を向け、高いところから遠くを見てみたいとせがむアイリを抱き上げれば、マサトとカエ、似た者同士の二人からお父さんなどと茶化される。

「静かだねえ」

「地平の先まで歩いたら、何が見えるかな」

「くも、はやい」

「こら、あんまり暴れるな」

 それぞれが思うままに、気負いもてらいもない言葉を交わしていた。

 いつあの『影』たちが現れるのかもわからない、そんな思いさえ吹き飛ばすような穏やかな時間。

 ――描きたい。

 突然俺は思った。

 どうしてそれを忘れていたんだろう。

 いつも傍らに持っているバッグを手繰たぐろうと手を伸ばした俺は、抱えていたアイリを危うく取り落としそうになった。

「おい、何してるんだよ!」

 飛んできたマサトが慌てて押し上げ、転落を防ぐ。

 遊んでいるとでも勘違いしたのだろう、当のアイリは危うげな姿勢にもかかわらず笑い声を上げた。

「悪い…」

 詫びながらも、俺は右肩の何もない空間から目を離せずにいた。

「どうかしたか?」

「ああ、そうか…」

 スケッチブック、ないんだな。

 ぽつりとこぼした俺の言葉を聞きとがめたカエが、彼女のせいじゃないのに、ここでは与えられた武器しか持てないのだと悲しげに詫びた。

「触れる感触もあるし、あたたかみやにおい、風を感じることもできるのに?」

「オレたちが今まで巡ってきた中で、何か持って来られたものはあったか」

「…ない」

 マサトは頷いた。

「痛みや衝撃に強く、知覚や感覚も閉ざされていない。けれど触れることはできても、渡された武器以外を手にすることは願ってもできないと、じーさんからは聞いている。オレたちが世界に干渉するのは無理なんだ」

「そうか…」

 この世界は違うのだ。

 いつでも持っていたものさえ、今の自分にはないのだということに打ちのめされた。

 こんな時間ばかりなら、ずっとこうして過ごしていたいと思っていても、ここにいる誰もがそんなことは不可能と知っている。

 だからこそ、残しておきたかったのに。

 ひどく落胆する俺をしばし無言で眺めていたマサトが、励ますよう背中を叩いた。

「顔上げろよ」

 俺はみじめな気持ちで足元に映る自分に目を落した。

 共に覗き込んでいるアイリの無邪気な様子に比べたら、我ながら嫌になるほどに情けない顔だ。アンディ・ウォーホルが描く絵のように赤や黄色の原色を塗りたくってみても、さぞかし内省的で陰鬱いんうつな絵にしかならないだろう。

「悔しいなあ」

 描いたところできっとこの世界からは持ち帰る術もないのに、未練は消えなかった。

 気遣わしげに口を開きかけ、言葉なく押し黙るカエの優しささえも、鏡となった大地は俯いた目に映し出してしまうのが残酷だった。

 落ち込んでみたところで、何も変わらない。頭の片隅ではそう理解しながらも、今口を開いたらきっと皆を困らせるようなものしか出てこないだろう。

「ヒロキくん」

「ヒオキ、どうしたの?」

 俺は歯を食いしばって、叫び出したい衝動が過ぎるのを耐えていた。

 その時、マサトが呟いた。

「…なあヒロキ。オレ思うんだけどさ、自分も含めてなんかを表現したいとか、残したいとか考えてる奴は時々傲慢だよな」

 のろのろと目を上げれば、俺の思いなどまるで気にしていない様子で、マサトは空と地の境界すらわからない世界を誇らしげに見つめている。

「どういう意味だよ?」

 苛立ちを含んだ声を返す俺に、十二歳の子どもらしからぬ、そして何より己が子どもであることを受け入れている、そんな表情で笑う。

「自分にできることがあるなら、何かを残したいって気持ちは本当にすげえし、大切だよな。けどオレは、伝えたい、残したいって形にばっかり捉われて忘れてた。ここに来て思い出したんだ。自分が何に感動してどう感じたのかの方が、ずっと大事なんだってこと」

 俺は目を見開いて立ち尽くした。

「ヒロキ?」

 浮かべていた笑みを引っ込め、案じるよう俺の顔を覗き込んでくる。

 多分、マサトは彼にとって当然のことを言っただけで、格別すごいことを投げかけたつもりではなかったと思う。

 けれどそれは俺にとってかつてない衝撃だった。

「あんた結構な自信家のくせに、あらゆる不思議を解明したい、みたいな妄想を抱いたりはしないんだ?」

 カエの言葉にマサトは再び笑う。

「色々なものを知りたいとは思うけど、すべてを解するなんて考えたこともないね。もしそんなことが可能な人間がいたとしたら、もうそれは人じゃなくて神だろ。不思議がこの世からなくなったら、生きている意味ないじゃん」

「それ、科学者になろうっていう人間のセリフかねえ」

「オレがなるのは研究者。そもそも、カエの言う妄想は個人の嗜好しこうであって科学じゃない」

 二人の会話を、どこか遠くから響いてくる音楽のように聞いていた。

 旅の初めにエヴァーラスティングを目にした時、覚えたものと同じだった。

 いつの間にか置き去りにしていた、描きたいと思う理由がどこから来るのかを。

 本当は、目にすること、耳にしたもの、触れたもの…それこそが世界に対する記憶でもあり、最高の記録だということを、俺はいつから見失っていたのだろう。

 描かなくても、感じたものをたとえ忘れてしまったって、自分の中にその瞬間は確かに映し取られているのに。

「思いは残るって?」

 それはあまりにも格好よすぎる言葉で、口にするには少し勇気が必要だった。

 そんな俺の葛藤かっとうなど気づきもせず、振り返ったマサトは照れる素振りすら見せることなく、真摯な表情で頷く。

「何かを思う心は正直だ」

 その潔さに、青さゆえではない、人の持つ無限の可能性を見せつけられた気がした。

 同時に俺は、自己の焦燥を満たすためだけに形を残そうとするなと、言外に慢心をいさめられことを感じていた。

「そうか…」

 …ああ、けれどマサトの言葉はきっと正しい。

 心が覚え、感じるものは目に見える世界だけじゃないんだ。

 見上げれば、はるか地平の先まで続く、無限に連なる空。

 これほどまでに広大無比なものが本当はどこに繋がっているのかなんて、どこかにいる神さえも、もしかしたらすべてを垣間見ることは叶わないのかもしれない。

 瞬きさえ惜しむよう、目の前に広がる三百六十度のパノラマを、俺は畏れにも似た思いで見つめた。

 一分、一秒先へ向かう今にあるのは、永遠すらかす刹那せつなの時。

 けれどその刹那の連なりこそが、未来を形づくっていくのだと思う。

 それは、想像するだけで畏怖すら覚える、気の遠くなりそうな幽遠だった。

「だからうつむくな。オレはこの風景を忘れない。本当にもう一度会いたいものなら、またいつか来ればいいんだ」

 その時、じーさんがマサトのことを導く者と言っていた理由が、初めてわかった気がした。

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