5章 生まれて人となる難く
5章 1話
紀元前一世紀頃に台頭した、遊牧民族であったナバテア人たちの都市だったと言われる、石を削って作られたヨルダンの遺跡、ぺトラ。
ユダヤ戦争の折には集団自決の場となった、イスラエルの武骨なる要塞、マサダから見下ろしたきらきらと輝く死海。
二日目の朝を迎えた俺たちはマサトに導かれ、のんびりと遺跡を巡る旅を続けていた。
どこに行っても、俺たち以外の姿はない。
誰も、誰もいない場所を、まるで昔からそうしていたみたいに肩を並べて四人で歩く。
そして今、見渡す限り続く空を鏡面のように映し出す、地平がどこかもわからなくなるような、足元と空との境目さえ見えない大地をゆっくりと歩いていた。
天空の鏡とも称される、ボリビアのウユニ塩湖だとマサトは言う。
「ここ、夜に来たら宇宙の中にいるみたいに感じるかな?」
「さあ、そこまでは。けど、星明かりがどんだけ下に映るのかはわからなくても、東京のくすんだ空なんかメじゃない、吸い込まれそうに壮大な星の海が見られるだろうな」
こいつの言葉はいつも偉そうだけど、時々意外に思えるほど繊細な表現を紡ぎ出すことがある。
遺跡が好きなだけではなく、実のところマサトは相当なロマンチストだということが段々とわかってきた。
「あたし、スカート履いてなくて良かったよ。じゃなきゃこんなとこ楽しめないもん」
走り回るアイリの足元を見ながらカエは苦笑している。
ウユニ塩湖は小さなアイリだけでなく、俺たちのつま先が落す重みさえ吸い込んでしまう、鏡面そのものだった。
彼方まで薄く広がる水が鏡となり空を過たず写し取るさまは、多分天国よりもそれに近いんじゃないかとさえ思える。
「ヒオキー」
呼びかける声に歩みより覗き込めば、屈みこんだアイリが地面に手をついた姿でにっこりと笑った。
「そら、さわれる」
思わず息を飲んでいた。
それは青く高く、決して触れられるはずないもの。
「あったかいね」
地に映る空を嬉しそうに撫でながらそんなことを言う。
…ああ、そうなんだ。
アイリにとっては、指先に触れる薄く広がった水の感触など意味がなく、見えるまま感じるまま、境界線など必要としないもので。
彼女にとってのこの場所は、地面も同じく空であり、掴めないものだなんて決して思わないのだ。
自分が立つ場所は地。
見下ろす場所も地。
見上げるところが空。
そんな当たり前のことを当たり前と思わずにいられる心は、なんて自由なんだろう。
怖れを覚えるのは、大人になることなのだと聞いたことがある。
培ってきた常識のすべてがあやふやになることを、何も悩まずに受け入れるのは難しく、不安定なものを信用するのが怖くなるのが大人なのだろう。
心のバランスを取るためにも、自分の立ち位置を一つ一つ確認しようとするのは、普通のことなのかもしれない。
けれど。
あるがままに感じることができない自分を、俺は少し切ないと思った。
アイリの感性が眩しくて、羨ましかった。
「本当だ」
カエやマサトまでもが同じように真似をする。
「ずーっと見上げるだけだった空に触れられるなんて、思ってもみなかったな」
立ち上がり、ため息とともに呟かれたカエの声。
「空も、鏡になったらいいのに」
「どうして?」
「そうしたらきっと、映り込むものも暴けるかなあって」
さらりと告げられた言葉には告解にも似た響きが隠れていて、ゆうべ耳にしたカエの境遇を思い出していた。
柔らかな思いとして話していた病院での出来事も、言葉のまま受け留められるほどいいことばかりではなかったのだろうか。
「バカだな、カエ。空まで鏡になっちゃったら、無駄にでかいミラーハウスなだけだろ?」
マサトは地面に置いていた指先の雫を払うよう手を振りながら、何一つ気に留めていない様子で笑う。
カエはぽかんとした表情を浮かべた後、声を上げて笑った。
「そっかあ。上を見てもそれじゃあ意味ないね」
「…」
言いたいことは違うんじゃないか。
そう口にしかけた俺の言葉は、透明なマサトの視線に遮られる。
カエに気づかれないよう静かにその首を横に振った。
――ああ、すべてわかっていてお前はそう言うのか。
泣きたい気持ちになる。
年齢も性別も生きてきた場所も違う四人だったけれど、こいつらと旅が出来て良かったと、今は心から言える。
アイリが俺たちを見上げて笑う。
「たのしいね」
「そうだな」
穏やかな風が足元に広がる水面をかすめ、小さな漣を立てて吹き抜ける。
形を刻々と変える雲が影を落とし、ゆっくりと彼方へ遠ざかっていく。
静かだった。
「どうした?」
立ち止まり、遠くの空に目を向けているアイリに呼びかける。
「…たのしいは、きれいだね」
「アイリ?」
その睫毛の先から透明な雫がころころと零れ落ちるのが目に入り、思わず声を呑みこんだ。
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