4章 2話

「オレは、塾帰りの交通事故だ」

 ぼそりとした声で話し出すマサトに顔を向ける。

「信号渡ってたら、夜だし誰もいないって勝手に思い込んだのか、無茶苦茶なスピードで飛ばしてきた車に当てられて吹っ飛んでた。ヒロキの状況に近いと思う」

 さらりと言っているけれど、二人ともあまりにあまりな話だ。

 自分の経緯いきさつなんてまだまともな方なんじゃないかと、俺は何も言えずに押し黙る。

 でもねえ。

 眠るアイリを見下ろしながらカエは呟いた。

「アイリはね、両親からの虐待。ネグレクトなんだ」

「…え?」

 ネグレクトって?

 虐待…?

 カエが何を言ったのか、初めは理解できなかった。

「彼氏と暮らしている母親が、子どもを疎んじてって…腹立たしいくらい近頃のニュースでよくある話。アイリも名前に愛の字が含まれているように、望まれて生まれてきたはずなのにね」

 驚きに言葉を失った俺は、カエの膝で眠るアイリに目を落した。

 そんな暗いものなどかけらも見いだせない、あどけない寝顔。その細い手足には傷のようなものも認められなかった。

 …ああ、でもそうだったのか。

初めて会った時頭を撫でようと伸ばした手に、身を竦めていたこと、そして先ほどの戦いで縮こまって、誰の声も届かないほど深く怯えていた意味がようやくわかった。

「泣いても、殴られたりしてたのかな」

「…多分ね」

 低めた声で答えが返る。

 自分がそうであるように、皆それぞれの理由で試練に臨んでいることをわかっているつもりでいたけれど、それまでどこか現実のこととして捉えていなかったと気づかされる。

 こんなに幼い子が、叫び声も飲みこまなければならなかった環境とは、一体どんなものだったんだろうか。

 単なる憶測でしかないけれど、あの時、俺にしがみつきながらもなくことなく肩を震わせていたのは、そういう時にされていたことを体が覚えていたからかもしれない。

 子どもにとって、親はすべてだ。

 それが恐怖の対象になるのは、どれほどの痛みだろう。

 俺の呼びかけさえ聞こえなかったのは、上げた手が振り下ろされる時を、アイリはいつだって恐れ、萎縮していたからなのだとしたら。

 痛みに耐え、歯を食いしばる理由なんて考えもしなかった。

「そんなの、ニュースの中だけの話だと思ってた」

「うん…でも、現実なんだよ」

 ねえ、ヒロキくん。カエは続ける。

「アイリがこの年頃の女の子にしては語彙が少なくて幼すぎること、ヒロキくんは気にならなかった?」

「確かに兄貴んとこの姪っ子たちより言葉数が少ないし、思ったよりも小さい気はしたけど…」

 それは個人の特徴なんだと、勝手に思い込んでいた。

 無知と蒙昧は同じだ、そんなことを言っていた人がいたな。

 何か言おうとしたら途端に泣けてきそうで、慌てて口を閉ざす。

 可哀そうだとか、どんなに辛かっただろうとか、ありきたりなことさえ言える権利なんて、それほどの不幸を味わってきたことのない俺にはないと思う。

 病気を抱え、それでも明るく振舞っていたカエ。

 夜の交差点で事故に遭ったマサト。

 守ってくれるはずの大好きな親に傷つけられてきたアイリ。

 境遇やありようは比べようもないものだけれど、なんだか自分がすごく恥ずかしかった。

「…ごめん」

 俯いた俺を落ち込んだと思ったのだろう、カエは慌てて詫びる。

「あっ。あたし反省しろとか、そういうつもりで言ったわけじゃないよ」

「そうは言っても実際カエの言葉ってば、ヒロキを責めてるようにしか聞こえなかったけど?」

 茶化すマサトにカエが手を上げて殴る真似をすると、バランスを崩したアイリがその膝から転げ落ち、目をこすりながらキョロキョロと辺りを見回した。

「ごめんごめん」

 詫びる声ににっこりと笑い、カエの膝に頭を戻したアイリは安心したように再び寝息を立て始めた。

「で、どういうつもりだったわけ?」

 問いかけるマサトの口調はからかうようにしか聞こえないのに、妙に真剣な色を帯びていて俺は目を上げる。

 けれど、あんた本当に生意気だとカエに睨まれて苦笑する横顔は、いたずらをとがめられた子どもそのものだった。

「あたしはアイリに、ここでは優しいものはあるんだよって教えてあげたいんだ」

カエは笑う。

 せめて今だけでも、なんて…自分勝手にすぎない感情でしかないはずなのに、その声はあまりにも切実で、俺は強く頷いていた。

この旅の終わりに、アイリはまた親の元に帰ることになるのか、それとも施設に預けられているのか…そんな思いを飲み込みながら。

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