3章 彼岸より此岸を見る
3章 1話
門出を祈るというじーさんの声を背に、俺たちは試練の旅に出た。
ほんの一瞬の間に様々なものが通り過ぎる気配が体の表面を撫で、空気の中に濃い緑の香りを感じた。
乾いた風が頬をかすめる。
「もういいよ」
ゆっくりと目を開けた瞬間、思わず息を飲んだ。
そこには、空の間に挟まれているようにさえ感じる、黒ずんだ焦茶色の建造物がはるか山の上まで続いていた。
「なあ、マサト…これ、本物?」
皆、その光景にひたすら圧倒される。
「本物と質感、量感共に再現できてる気がする。場所をイメージしただけだから、実際にはオレの頭の中の産物かもしれないけど」
石の階段で繋がれた段々畑。天辺近く、広がる空の下には都市の痕跡。その
俺たちはただ黙って、眼前の風景に魅入っていた。
「いしのいえ、いっぱいこわれてる」
アイリが不思議そうに呟くのに、ようやく我に返った。
「なんて言ったっけ、ここ」
「インカ文明の
カエの問いにマサトは自信満々に答える。
靴の裏には草を踏む感触。
少し先の壁に歩み寄って手を当てれば、古い石肌のざらつきと、日差しに暖められた温度まではっきりと伝わってくる。
地面からは茂る草の香り。古い石の乾いたにおいと、日なたのぬくもり。
深呼吸してその空気を吸い込んでも、虚構とはとても思えなかった。
「す…っげえすげえ、すげえ!」
唐突に叫びながら駆け出したマサトの姿が、段々畑の階段をあっという間に抜けて視界から消えた。
「おい、何があるかわからないのに、勝手にどこか行くなよ!」
大丈夫だー、遠くから声が聞こえたが、ほどなくしてマサトは駆け戻ってくる。
「お前、風の魔法とかいうの使えるなら、飛んだりした方が楽なんじゃないか?」
「試練のために使うもんがそんな便利なわけないだろ。そもそも走るスピードもとんでもなく速くいし、疲れもないなら必要ないよ」
「え、そうなの?」
「ああ、こんだけの距離を走って来てもなんともなかった。常ある肉体より強靭ってのが疲れ知らずってことなら最高だな。それよりも、すげえよヒロキ、本では読んで知ってたけど、こんな古い場所なのに便所もちゃんと石壁で囲まれてるんだぜ!」
「へえ、面白そう」
「どんな時代に生きてたって見られたくないものはあるのよ。当たり前じゃない」
ほぼ同時に口を開いたカエが、俺の返答にあんぐりと口を開けた。
「しかも一個しかないスペシャルだ」
「何百年も前の便所ってどんなの?見たい」
「…そうかなあ?」
「あっちあっち、早く!」
マサトに急かされ、腕を取られたカエまでが共に走らされる。
「呆れた。男と子どもが下ネタ好きなのは、世代も年齢もまったく関係ないもんなのね」
溜息に乗せて呟いた言葉は耳に届いてはいたけれど、目にするあらゆるものが珍しくて、いつの間にかカエの不満も感嘆に埋もれていった。
広陵とした砂漠の中にあるシリアのパルミラ遺跡。
次々と湧きだす、マサトの思い描く風景に驚きながらも、疲れを感じることない俺たちは世界中を歩き、はしゃぎ回った。
高名なクフ王のピラミッドのてっぺんから駆け下りてきた後、砂漠に腰を下ろしてその姿を眺めていた時だった。
「なんか来る」
寝転がって空を見上げていたマサトが勢いよく跳ね起きるのと同時に、離れたところで砂山を作っていたアイリが、俺の腕に飛びつきながらその場を
「どうした?」
腰を浮かせ、袖を引かれるままに下がれば、少し前まで俺がいた地面に、じわじわと広がるように黒いしみが浮かんでくる。
「なんだ、あれ」
「かげ…」
「影?」
アイリの呟きを繰り返せば、『影』と呼ばれているものだとカエが答える。
黒いしみは徐々に増え続け、気づけばあちこちに小山を作り、いくつもの柱となって地面より湧き出ると、徐々に人のような形に変化していった。
ただしどの『影』にも顔の部分に表情はなく、のっぺらぼうだった。
そこかしこから、ざわりざわりと頭を
表か裏かもわからない、おおよそ人とは異なるデフォルメされた形状に恐怖感はなかったけれど、その数の多さに困惑する。
不思議と怖れよりも、こんなものと戦って何になるのかという気持ちの方が強かった。
「そうだ。ここにどんぐらいいるかわかるか、アイリ」
マサトの問いかけにほんの少し辺りを探るような仕草をすると、つたないながらもはっきりとした声を返した。
「かず、じゅうをじゅうとはち」
「十を十、さらに八、百八ね」
アイリは十までしか数えられないのか、マサトが補う。
「除夜の鐘と同じ数。なんだか
カエは感心したような声を上げる。
どうでもいいけど、その感想はあまりに呑気すぎやしないか?
恐怖はなくても、さすがに対峙する相手の多さに焦りを覚える。
「しょっぱなからそんなにいて大丈夫なのか!?それに、そんなことどうしてアイリにわかるんだよ」
「物事のセオリーとして照らす者は、他よりはるかに何かを見通す力を持ってるもんだ」
さっぱり事情がわからないながらも勢いに押され、俺はとりあえず頷いた。
その間にも『影』は、俺たちを包囲するように立ち上がってくる。
それほど機敏な動きには見えなかったが、どうすれば倒せるのかなどとのんびり聞いている余裕はなさそうだった。
とにかく当ててみるしかない。考えるのはそれからだ。
武器を受け取った時に感じたのと同じく、要はロールプレイングゲームのようなものと解釈すればいいんだと、俺は自分に納得させる。
ひたすら呼吸を繰り返し、肩の力を抜くよう努めた。
「数はともかく、俺たちはこれと戦うってことだよな。アイリ、あまり離れるなよ」
さりげなく小さな体を庇うよう、前に立った俺を見上げてアイリは笑った。
「へいきだよ」
そう言って俺の傍らに並ぶよう歩みを進める姿は、幼いながらも自分の立ち向かうべきものを知っている表情だった。
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